こんにちは。 これからnoteを投稿する中で、 どんな人が書いているのかを知った上で 読んでもらった方が伝わり易いかなと思い 書くことにしました。 プロフィール24才、東京都世田谷区在住。 出身は神奈川県の湘南。 障害福祉(介護)のお仕事をしています。 一応高卒(通信制にて取得)、ほぼ中卒。 中学の体育でバク転を練習したらできました。 成績は美術と体育だけ5でそれ以外は2か3。 母からは「勉強なんてできなくていいから自分の名前だけは綺麗に書けるようにしな
この言葉を聞いた時、 自分の心の貧しさに説教されている気分で胸が苦しくなった。 次から次へと物を買い、 あたかも満たされているかのように感じる。 見栄の為の高いブランド品。 自分もそんな時期があった。 それが本当に好きなのであれば別に構わない。 ただ見栄の為なのであれば必要ない。 断言しよう。 金で寄ってくる人に良い人はいない。 Instagramを見るとブランド品だらけの人、 承認欲求の為に過激な格好をしいいねをもらう人。 様々いるがそれが本当に幸せなのか? 幸せ
何も考えず平気で他人を傷付ける世の中になってしまった。 自分の意見を面と向かって言わなくても書けてしまうからでもあるのだろう。 これを言ってしまったら相手はどう思うだろうかと考えようとしない。 自分を磨くのはもちろん。 相手を見抜く能力も必要。 関わってはいけない人というのが社会には潜んでいる。 そう考えるとやはり教育というものはものすごく大切なんだなと感じる。 それと自分を取り巻く環境。 一概には言えないが、 概ね若い頃の教育と環境によって人格は形成される。 稀に
目まぐるしく変化するこの情勢で生き方について考えることがたまにある。 それはなぜか、一言で言えば不安だからだと思う。 20歳の時に上京したが、その頃は生きていくことが精一杯だった。 水中で溺れるような感覚。一生懸命に息を吸おうと水面に顔を出す。そしてまた沈む。 その繰り返しのような感じ、、、 上京した当初は、SAGAWAの夜勤をし、そのままAmazon倉庫の派遣に行っていた。その逆で日勤から夜勤の日もあった。 心身共にすり減らしながら働いていた。 こんなこと続けていていい
何故、外国人は多種多様な人材が大勢排出され、日本には排出されにくいのか僕なりの見解を導き出す。 この題にした理由は、ブラジルへ留学した際感じた人々の多種多様さ。個性豊かで、良い意味で他人の目を気にせず生きている人々と接し、ふと疑問に感じた。日本との違いは何処なのか。「文化の違い」の一言で締めくくるのはあまりにも退屈だ。今回は大きく2つに分けて話を進めたい。 「究極な寛容と他者への無関心」先ず、究極の寛容について考える。 日本では他人に迷惑を掛けるなという教育をされる。僕
こんにちは、 今回は山について話そうと思います。 「自然が好きだけど都内は自然が少ない」 という話を仕事先の方に話したところ、「なら高尾山行っておいでよ」と。東京に来て早4年。しかも京王線に住んでいながら一度も行ったことがなかった。とりあえず行ってみることにした。 こんなにも魅力的ところなのか、というのが最初の衝撃だった。 この全てをひっくるめて山ジックとでも呼んでおこう。 これだけでは語り尽くせないほど山に魅せられてしまった。自然に触れることで身体的、精神的にも
はじめまして。 現在24才、東京で障害福祉の仕事をしています。 田舎出身の僕には東京の空気は息苦しく、 現実逃避したくなりながらも、 20代のうちは基盤を作る為、と割り切っています。 そんな僕が今まで全力を注いできて、 今回のテーマでもあるスポーツ、 それが「サッカー」です。 最後まで読んでいただけたら嬉しいです。 僕のサッカー時代のお話し。 僕は、小学2年生頃の時サッカーを始め、まぁ、最初は何が何だか分からずひたすらボール蹴っていた感じだった。そんな感じ