パズルの自動生成(論)について思うこと
あーくさんが、人間制作と区別できないような自動生成問が作られるようになったとき、「人間が作っていることに意味があるかどうか」が重要になるという見解を述べていました。
今回はこのテーマについて考えていきます。
自動生成は成長しない作家
ニコリ先代社長、故・鍜治 真起さんの「数独はなぜ世界でヒットしたか」でコンピュータの作る数独について触れられていた箇所があり、興味深く読みました。
「一人で一冊の本を作ると読者は飽きる」という言葉については、 ぜひパズル作家に否定していってもらいたいところですが、
「自動生成は作り手の過去の結晶」という発言はバランス感覚に優れていて、さすがの言語感覚だなあと思うところです。
現在においても、ペンシルパズルのソルバーに手筋を組み込み、手筋のバリエーションに富んだ良いパズルを作り続けることができたとしても、プログラムを書き換えない限り成長することはありません。
鍜治さんが「自動生成は質が低い」とか、「自動生成は全部同じ」といった機械生成にありがちな偏見に捉われず、自動生成の制作者やプログラムごとの個性を認めたりしている上で、 プログラムを書き換えない限り進歩のないという意味で「成長しない作家」と扱っているのは本質を実にうまく捉えているように感じます。
「人間と区別できない」について
現在のお絵かきAIは、人間制作と区別できないような絵を生成できるようになりましたが、 「AIは人間と区別できないような絵を描くことができる。」 というのは、「人間が描くことができる絵のすべてをAIが描ける」というのを意味せず、 「人間が作る一部の領域を真似できている」だけに過ぎません。
例えば「一人の人間をうまく描くことができるのならば、多人数が描かれた絵もうまく描けるだろう」 というのは人間にとっての常識であって、AIにとってはそうではないといったことなどが挙げられます。
パズルの自動生成についても同じことが言えます。
10*10のパズルで人間と区別のつかないような問題を作れたからといって、 スーパージャイアントサイズで「一貫性のある面白い展開」を作ろうとした場合、完全な機械生成で、人間と区別のつかない作品を作ることは当分難しいのではないでしょうか。
人間味、作意的な部分が多い
「成立させるのが難しい」というより「展開を作るのが難しい」
量産はいらない
といった性質は、かなり機械によるパズル生成と相性が悪いようなものに感じます。
機械生成は数独や小サイズ、均質で大量の問題が求められる場所では有効かもしれませんが、
パズル種、バリアント含めた多様性
おもしろ理詰め、一発ネタ理論
大きな盤面ならではの作意、展開
など、自動生成単体で作るには相性の悪いタスクも存在します。
ペンシルパズルの基本手筋を組み込んで、見た目良し、解き味良しのパズル自動生成ができたところで、
パズスク・オブ・ザ・イヤーの受賞作のような、アイデアや仕掛けの詰まった作品を0から100まで産み出すのは難しいのではないでしょうか。
「人の手で作った」ということ自体に価値が置かれるコミュニケーションの道具ではなく、「機械だけでは作れない良質な問題」としての価値も残り続けることでしょう。
人間と自動生成とのハイブリッド
一方で、機械をもっと補助的に利用してパズルを作ったり、半自動生成、機械の自動生成に人間がより介在できるようになる方向性については、良いところ取りとして可能性を感じます。
現在でも、作ったパズルをチェッカーに掛けたり、補助ツールを用いてパズルを作ることは日常的に行われていますが、
自動生成を内蔵した作問ツールが実現すると、
展開、構成が潰れていないかのチェックに、手筋を教えてくれるソルバーを利用する
「パズルの見せ場」を作ったあとの調整作業をコンピュータに任せる
検討盤面や、思考錯誤の枝をビジュアライズして表示する、ユニークネスも検出
先の展開の候補を機械が表示して人間が選んでいく
人間のアイデアを元に、機械でしか困難な展開を探索する
といったことができるかもしれません。
実際の例としては、
コンピュータだけでは組み込むのが難しい大仕掛けの入ったパズルを、自動生成を利用して作成する方法について書かれた、semiexpさんの記事
などがあります。
終わりに
イラストの自動生成でも、パズルの自動生成でも
つい、自動生成vs人間という構図の話になりがちですが、
定量的に評価しやすい「機械だけでどこまでできるか」だけでなく、
実用的に「ツールとしてどこまで活用できるか」といった観点を考えていくべきではないでしょうか。
わんど100の7番目の記事です。
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