パズルの自動生成はありやなしや?

この記事はペンシルパズルI Advent Calendar 2022の12月15日の記事となります。

本稿は自動生成によってパズルを生成する行為についての話です。
昨今イラストの自動生成が注目され、人間のイラストレーターの仕事は失われるか、自動生成によって描いた絵に人間と同じ価値を認めるべきか、イラストレーターは自分の絵が自動生成の学習データとなることを拒否できるかなど、なんやかんやと話題になっていました。
パズルの世界も割と近い状況にあると感じたので、そのあたりのことを書いてみようと思ったのでした。

どのようなものを自動生成と呼ぶか?

そもそも自動生成という言葉が指す範囲も人によっていくらかの差はあると思いますが、基準を厳密に決めるのは難しいので、使う手筋や論理を人間が決めているかや、盤面にヒントを配していくステップを人間が行っているかでざっくり判断することにしましょう。
パズルを作るにあたり電子的なツールを使うことはあります。penpa-editなどを使えば仮置きの先読みが紙上より考えやすくなることは多いですし、枝分かれが無数にある試行錯誤問を作るときにはExcel君のコピーアンドペーストにお世話になっています。snakeを作るときに、現時点で塗られたマス数を各列に自動表示させながら作ったこともあります。
しかし制作時にこのようなツールの力を借りる行為は、電子的なツールを使っているとはいえ、自動生成とはみなさないとみるのが自然かと思います。ツールを利用したとしても、あくまで人間がどのようなパズルにするかを決め、それに沿って作っているためです。
一方で、唯一解になる盤面を大量に出力させ、それらを実際に解いて良さそうなものを出題する、という方法は、意見が割れるところではありそうですが、私は自動生成側に分類されると見るのが自然だと考えています。問題の最終的な選択は人間である制作者がしていますが、個々の問題を作るステップで制作者の意思が介在していないためです。

自動生成の現状

2022年末現在、多くのパズル種について自動生成でパズルを作ることが可能となっており、人間がなんとなくで作ったパズルと並べて判別できないくらいの作品が生み出されるところまで来ています。現時点ではまだ特定の手筋を多く使うなどの調整がきく自動生成機構は後述の数独関連のものを除き(私が知る限り)公開されておらず、解答手順のコントロールなどは人間の特権となっていますが、そのあたりが整備されてスクロール一つで調節がきくようになるのも時間の問題と思います。
また現在でも数独(ナンバープレース)については手筋解析を行う(Hodoku: https://hodoku.org/ja など)ことが可能になっており、手筋を調節した自動生成は可能となっていると言ってよいでしょう。

自動生成で得られるもの

自動生成には実用上のメリットが多く、特にコンテストなどを開催するにあたって多くの問題を短時間で用意でき、別解など問題異常の心配が解消される点は魅力的です。この方向で自動生成が用いられているのがペンシルパズルガチャ(https://myamyasdvx.herokuapp.com/sudoku.html)で、問題異常というコンテストにおける最悪の事態を防ぎつつ、違う問題を解いているプレイヤー間でもタイムを比較できるというある種の公平性の担保も担っています(もちろん難しい問題の大群に襲われることもありますが、その揺れの運まで含めての等条件と考えることはできます)。これは自動生成のメリットが活かされている例と言えます。
また、問題の制作にかかる時間が大きく減り、人間の手もあまり使わなくなるので、雑誌などの制作コストを下げることが可能です。数独関連の雑誌では実際にそうしているらしき雑誌もあると聞きます。人によっては良い顔をしない自動生成問掲載ですが、そんなことを気にする人をターゲットにしていないならば問題ないという考え方はあります。

作者と解答者の関係性をどう見るか?

ここまでで見た通り、技術進歩の実現可能性の観点からも自動生成を利用する動機の観点からも、様々なパズル種について近い将来人間制作と区別できないような自動生成問が流通するようになる可能性は高いと言えるでしょう。あるいはもう既に、という可能性もないとはいえません。
ではそうなったとき、今いる人間の作者は価値を失ってしまうのでしょうか?その回答はパズルの作者と解答者の関係をどのようなものと捉えるかに依存する、と私は考えます。

パズルの解答者と作者を知恵比べの相手や会話の相手と考えているならば、作者が人間であることには意味があり続けます。
自動生成の問題には、対決する相手がいません。強いて言えば自動生成のプログラムが相手ですが、たとえ自動生成で作られた難問が解けなくても、土台コンピュータと人間では処理能力が違うのですから悔しくもないでしょう。車と競走して負けようが悔しがることはないようなものです。
パズルに対するこの立場は、総じて解き終えた後に感想を述べる動きと相性が良い考え方といえるでしょう。作者が仕込んだ渾身の理詰めを解答者が見つけて驚嘆する、解答者が作者の意図せぬ抜け道を見つけて作者が悔しがるといったやりとりはやはり作者が人間であってこそのもので、自動生成の問題に感想を述べても空しいでしょう。

一方で、作者が人間であることをあまり要請しない立場もあります。
一つに、何らかの観点で見て「良い」ものが手に入るならどう作っているかは重要でないと見る立場があるでしょう。パズルの作者と解答者を食料品の生産者と消費者のような関係と見れば、美味しければ手作りか工場製かは問題でないと考えるのは一つの自然な見方でしょう。
パズル制作者が身近にわんさかいるTwitterパズル界隈の環境に慣れると感覚が狂いますが、一般的な雑誌の購入者層などに目を向けると、作者が誰であるかなど興味無くただパズルを解いて楽しめればそれで満足という解答者が多いでしょう。その無関心は悪いことでなく、それこそ食料品を買うときにいちいち生産者の情報を見るか?という話です。

あるいは、パズルは解答者同士で競ったり感想を共有したりするものであり作者はそのための場や道具を与える存在であると考えるならば、このときも作者が人間である意味は薄くなります。比喩で言うならば、サッカーボールを手作りにこだわることはない、となるでしょう。
先に挙げたペンシルパズルガチャはこの立場に基づく例と言えます。

いずれにしても、機械に頼って楽ができるなら、あるいは高品質なものが作れるなら積極的に利用すべき、という考え方です。
私自身は作者との折衝を楽しみたいと考える方で、感想も書きたがる(早解きの場なのに問題の余白に「すごい!」とか書いていた)タイプの人なので先の2つであれば前者の立場に近いですが、後者にも理があると思います。

作家が人間であることに意味はあるか?

先の項で挙げた2つの見方は両極であり、パズラー各位の思想にしろ場の性質にしろ、その多くはこの中間のどこかに立場を置くと思います。
Twitter上で開催される早解きコンテストなどを見てみると、早解きコンテストである以上場の性質としては作者の用意した道具で解答者同士が競う色が強いのですが、では自動生成問で同様のコンテストを開いたとして、今と同じような盛り上がり方をするかは疑問です。問題に対し「右上の大技がすごかった」「こんな配置で成立すると思ったのがすごい」といった感想が上がっているのも見受けられ、それが作者宛の賛辞となっているところをみるに、出題が自動生成となれば失われるものがあると言えるでしょう。

さて、翻って、自動生成で人間作者の価値は失われるかと考えてみると、先に挙げた2つの立場があることを踏まえれば、「前者の色が強い場では人間作者は価値あるものであり続ける。後者の色が強い場では人間作者の価値は減ぜられる。」という結論に落ち着くかと思います。
前者の立場が強くなりやすい場、Twitterでの問題の投げ合いなどでは人間作者は概ね今まで通りでいられる一方、後者の立場が強くなりがちな場、一般向けの雑誌や競技色の強いコンテストなどでは人間作者は近く苦境に立つことになるのかなという気がします。
あくまで感覚的な予想に過ぎませんけれどね。


本題と関係ない話

ところで、盤面を自動生成するのでなく、ルールを自動生成する、すなわち新たなパズル種を自動生成することができるのはいつくらいになるでしょうね?


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