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【負けられない戦い】多読は愚かな人間がすることだ。

前回の続きだ。
僕は今多読批判者のショーペンハウエル先生と負けられない戦いをしている。

今回は、僕がこのスパルタブッカソンで出会った本たちとの対話の様子を紹介していく。1日で24冊読んだが、その中で厳選して8冊を紹介する。

文字数なんと11000文字。気合を入れすぎた。ハウエル先生は偉大な哲学者だ。気合いはあってもありすぎない。

相変わらず男前。

そんな強敵相手にノックアウト勝ちなど狙ってない。戦略は12ラウンド戦い切って、判定勝ちだ。そんな死闘を読者には一緒に味わってもらいたい。読み終える頃には、僕とハウエル先生、どっちが正しかったか証明されるだろう。

10000文字とはいえ、12時間24冊の結晶がたった15分で読めてしまうのだ。サクッと読めるような記事ではないが、ぜひ楽しんでもらいたい。

仮に途中で飽きてしまったら⑧から呼んでくれても良い。楽しさは半減するとも思うが。

さて、第一ラウンド開始だ。


①心は見える!

「鷲田清一を知る」シリーズ

鷲田清一先生は日本の哲学者で、臨床哲学というジャンルの第一人者だ。

福祉系の仕事をしていることもあり、臨床哲学というジャンルに関心が高く、積読に至った。

中でも面白かったのがこちら。

まず問いかけられる。

心は見える?

鷲田清一『わかりやすいはわかりにくい?』

心があるかないかと問われれば、ありそうな気がする。しかし、どこにあるか、と問われれば、悩み込んでしまう。確かに不思議だ。

そこでこの問いだ。「心は見えるのか?」

捻くれてる僕は、「いや見えないだろ。」と即座に思った。

これを見透かすかのように先生はこう切り返す。

見えないという前提を外して、心は見えるのだ、見えないという人にも本当は見えているのだ、と考えてみたらどうなるだろうか。

鷲田清一『わかりやすいはわかりにくい?』

なんと優しい人なのだろう。高校時代、つまらない授業に出席せず同じ教科を図書館で自習してたくらい捻くれてる僕でもこんな口調で語りかけられたら「見える」という前提で考えてみたくなる。

「心は見えるとしたらどこにあるのか?」

非常に思索甲斐のある問いだ。私見を述べるのはまたの機会にするが、ユニークな説を紹介して、終わろうと思う。忙しい現代人であるあなたにも噛み締めながら読んでほしい。

セールは、皮膚がみずからへと折り畳まれるところ、そこに「魂」が誕生するという。(・・・)
悔しくて唇をぐっと噛み締めるとき、キオあいを入れようと括約筋をぐっと締めるとき、大事なひとの安全を祈ろうとしっかり掌を合わせるとき、そのときその皮膚が合わさった場所にこころはあると、セールは考えるのである。

鷲田清一『わかりやすいはわかりにくい?』

皮膚が重なるところに心はある。非常に面白い。そうすると、「心はあるものだ」というより、「心は生まれるものだ」と考えることができるかもしれない。


②人権は当たり前じゃない

「生物を知る」シリーズ

我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこへ行くのか。

ポール・ゴーギャン

ゴーギャン先生のこの有名な作品をご存知だろうか。かくいう僕も、この問いに悩まされ続けている人間の1人だ。

ダーウィン先生によると、どうやら我々人間は人間である前に、生物であるらしい。ということで、人間以外の生物のことも勉強せずにはいられない。

このシリーズでは上記3冊が選出された。その中でもこちらを紹介。

キャッチーな表紙で実に可愛らしい。読みやすそうだ。実際に読みやすかった。しかしメッセージは優しくない。

まず皆さんに問いかけたいことは
「人権って絶対的な善なのだろうか?」という問いである。

この本を読むまでは、疑いもしなかった人権概念の価値。福祉業界をかじっている僕は、この人権概念を根拠に活動できている節もある。正直目を当てるのが拒まれる事実が書かれてあった。

それは、
「人間以外の社会的動物に個体の尊厳を尊重する概念は無い」ということだ。(この文章は引用ではない。)

ハナバチという種類の蜂の事例が面白い。ハナバチは女王蜂と呼ばれる権力個体を中心として、社会(=コロニー)を築いている。コロニーでは各個体の尊厳よりも、コロニー全体の秩序維持の方が優先される。コロニーの秩序が乱れるような行為や個体に居場所はない。

例えばこんな事例だ。

巣の中に、女王以外のハチが産んだ卵があるのを見つけると、即決裁判により有罪とみなし、その卵をすぐに食べてしまう。(・・・)
卵を産んだ働きバチ自身を捕まえ、巣から追放することもある。

アシュリー・ウォード『動物のひみつ』

庶民が赤ちゃんを産んだら、即座に殺され、国外追放されてしまう法律がある国を想像してみてほしい。それが当たり前のように行われている。人権様様だ。

他にも
コロニーでは労働基準法が適用されない。

働きバチの一生は短いだけでなく、厳重に管理されてもいる。
(・・・)
最初の仕事は自分の育った育房の清掃である。掃除が終わったら情報が点検をする。
そこで元の状態に戻っていないと判断されれば、掃除のやり直しとなる。

アシュリー・ウォード『動物のひみつ』

僕も学生時代、学校ではよく掃除のやり直しをさせられてた。(今でも家の掃除はやり直しさせられる。)ハチに共感する日が来るとは思ってもいなかった。

採餌は重労働だ。働きバチは基本的にはコロニーのために死ぬまで採餌を続けることになる。

アシュリー・ウォード『動物のひみつ』

まるでカイジの世界線だ。ぜひ働き方改革の導入を検討してほしい。

一見ディストピアに見えるが、彼らにとっては合理的なのだ。共同体として生き延びる戦略をとらないと生きていけないのだ。もちろん、人権は今の人間社会では必要なものだとは思う。

しかし、それだけが絶対的なユートピア社会とは限らないのではないか?

我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこへ行くのか。

ポール・ゴーギャン

冒頭のゴーギャン先生の問いかけに対して、さらに謎が深まってしまった。


(補足…..)
『行為主体性の進化』もぶっちぎりで面白かった。

最初はただ刺激に反応して動いていただけの微生物が、どのようにして目的を持って動くようになったり、意思決定ができるようになったり、判断ができるようになってきたのか?という哲学のビッククエッションである自由意志の問題について、「進化」という切り口で鮮やかにまとめ上げている。


③お金が世界を平和にする

「哲学を知る」シリーズ

あなたは世界平和の実現を信じているだろうか。信じていない人は僕と同類だ。多分捻くれている。信じている人は多分良い人なので友達になってほしい。

さて、世界平和を考える上で欠かせないキーワードがダンバー数だ。知らない人のためにWikipedeaを引用しよう。

人間が安定的な社会関係を維持できるとされる人数の認知的な上限である。
(・・・)
「もしあなたがバーで偶然出会って、その場で突然一緒に酒を飲むことになったとしても、気まずさを感じないような人たちのことだ」
(・・・)
ダンバー数については、150という値がよく用いられる。

Wikipedea先生

つまり、人間の脳のキャパ的に150人までとしか仲良くできないよ、という説である。

ダンバー数を知った時、僕は絶望した。

それはこの驚くべき事実のせいだ。↓

そう。人間は80億人いる。ダンバー数の約5千万倍だ。脳みそが5千万倍の大きさにならないと、平和は訪れないということなのか。計算したら25メートルプール10000個分の大きさの脳みそにならないといけない。

そんな絶望的状況に希望をもたらしてくれたのが本書だ。

早速、燃える一文が登場する。

言うまでもなく、国家とは諸々の力の絡み合う場である。しかし、さらに一歩遡って、人間の文化そのものを力の劇として捉えねばならない。
それは錯乱せる自然としての人間的自然を矯めようとする力とそれに反発する力の織りなすドラマである。

浅田彰『構造と力』

文化の進化の結果として、国家を捉え、その進化をドラマと表現する。熱くなってきた。

さて、どんなドラマが人間を平和に導いてくれるのか。

本書では3つの文化形態を紹介している。

①コード化ー原始共同体
②超コード化ー古代専制国家
③脱コード化ー近代資本制

浅田彰『構造と力』

プレゼントをもらった相手には、何か自分も返さなきゃ、、と言う負債感を抱く人は多いはずだ。
(僕は悲しいかな、あまりプレゼントをもらわない。)

簡単に言うと
「やられたらやり返す。倍返しだ!」と言うより、
「やられたらやり返さなきゃ…倍返ししなきゃ…」の精神である。

この力が人類社会誕生初期のコミュニティーに秩序を維持していたと言う。負債感による恩返しをし合うことで、経済を回していたのだ。この力こそがコード化だ。

第一段階において力を伝搬させる働きを担うのは中心なき軌道を描く負債の運動である。
(・・・)
贈物には特殊な力が宿っていて受贈者に返礼を強いるのだという試行形式を取り出し…
(・・・)
この負債こそ受贈者に負い目を烙印し、ルール通りに次の贈与を行わせる保証である。
(・・・)
本能による規制を失ってありとあらゆる方向に走り出そうとしていた欲望の流れに対してコード化が行われたのである。

浅田彰『構造と力』

しかし、コミュニティー人数が増えてくると、この負債感だけでは成り立たなくなる。そこで登場するのがタテ型社会の権力構造だ。要するに、王様に全てを捧げる代わりに、王様が秩序を維持しようとする。この双方向の力が超コード化である。

第二段階は、こうした原始的共同体がいわばタテに積み重なっていくときに始まる。征服や支配などの共同体間関係がその第一の契機であることは言うまでもない。
(・・・)
各人が絶対的債権者としての王に対して無限の負債を負うと言う構図を見出すことができる。

浅田彰『構造と力』

しかし、これにも限界があった。フランス革命を契機に、この体制は各国で崩されていく。

しかし、人々のカオスな欲望を、何か一つにまとめ上げる秩序が必要だ。そこで一躍買って出たのがお金だ。

皆の欲望をお金に向かわせたと言う。

資本となった貨幣はありとあらゆるものに化身しつつ世界を自らの運動に巻き込んでいく。
(・・・)
欲望の流れの孕む過剰なサンスを差異の束としての高次元の象徴的意味の中に固定するという戦略に代わって、それを一次元的に水路付け一定方向にどんどん流してやるという戦略が登場するのだ。

浅田彰『構造と力』

お金を稼ぐことが幸福の最もの近道だ。こんな価値観が蔓延っている中で、「お金が全てじゃない」と言う言説もよくある。しかしお金が全てになってるからこそ平和や秩序を保てていると言う側面もあるようだ。

と言うわけで、こんな記事を書いてもお金にはならないので、もっと世界平和のために筆をおいてお金稼ぎをしようと思う。

④矛盾だらけの日本人事典

「日本人を知る」シリーズ

「恩返しをしたい人」と聞いて誰を思い浮かべるだろうか。

真っ先に思い浮かんだのは母である。先日、僕がもらってたお年玉を実は家計に当てていたと言うことを告白され、代わりIphone15proをプレゼントしてくれた。別に良いのに、と思いながらもありがたく受け取った。

一般的にポジティブな意味がある「恩」だが、「恩に着せる」といったネガティブな意味もある。日本人の価値観はは言葉一つとっても、矛盾しているように見える。

そしてこの「恩」が神風特攻隊を産んだと分析するこの著者は、アメリカの文化人類学者。戦後、日本人に対してプロパガンダを実行するに当たり、アメリカは日本人の研究に勤しんでいた。

しかし日本人の生態や価値観は欧米とは異するものばかりで矛盾だらけで、よくわからないから、著者であるルーズ・ベネティクト先生が派遣された。

アメリカ合衆国が全面的な戦争においてこれまで戦った敵の中で、日本人ほど不可解な国民はなかった。手強いてきと戦争になったことは以前にもあったが、見越しておこねばならない行動と思考の習慣がこれほど著しく異なっていた例はない。

ルーズ・ベネティクト『菊と刀』

なんと興味がそそられる導入文だろうか…

そして日本人のわけわからん生態をまとめ上げ、アメリカに報告する際に執筆されたのが本書というわけだ。研究される対象になるとは面白い気分だ。
僕も他人から自分のことを分析されるのは結構好きだ。

さて、恩の話に戻ると、
「恩返しを誰にするか?」と問いかけられる時、「子どもに恩返しをする」と回答する人は少ないだろう。基本的に、目上の人だけに使う言葉だ。

逆に、「愛する」という言葉も考えてみよう。

「子どもを愛する」
「恋人を愛する」
これは違和感がない。

しかし「親を愛する」だとどうだろうか。他の二つに比べたら使う頻度は低い表現である気がする。

つまり、
「愛する」とは親から子へ
「恩返し」とは子から親へ

という愛情の関係性が生まれるのだ。

「愛してもらった恩を忘れない」これが親に対する愛情であり、全力で果たすべき責任になるのである。

「恩を忘れない」ということが日本の習慣において、何世紀もの間、何より大事にされてきたということである。

ルーズ・ベネティクト『菊と刀』

そして、当時の日本は、その恩返しの矛先が天皇に向かっていたのだ。

このような心情がもっぱら天皇に集中することを目指して、現代の日本はあらゆる手立てを講じてきた。
(・・・)
日本人の弁によれば、神風特攻隊の飛行士は皇恩に報いようとしていたのである。

ルーズ・ベネティクト『菊と刀』

ここまでの話でピンと来た方は鋭い。

まさに「恩」とは前回『構造と力』で紹介した「超コード化」の力学として駆動している。点と点がつながった。諸説はあるにしろ、「恩」という切り口で日本人の行動原理の特異さを考察してみるのは面白いかもしれない。

このような調子で他にも、
・「すみません」と言いながら感謝する日本人
・慎み深いけど入浴中は恥ずかしがって人目を避けることはしない日本人
・家族を大切にするのに不倫小説が流行る日本人
・仏教徒が多いのに禁欲してない日本人
などなど、アメリカ人から見たときの日本人の不可解な現象が分析されておりいわばこれは
『矛盾だらけの日本人事典』と命名しても差し支え無さそうだ。

⑤心なんてねえ!

「心を知る」シリーズ

心を知るシリーズ

心は見える?

鷲田清一『わかりやすいはわかりにくい?』

この問いかけを覚えている人は短期記憶に長けている。この記事の冒頭に出てきた問いかけだ。ちゃんと頭から読んでる人は、おそらく10分前ほどに読んだところだ。この時は比較的エモーショナルな思索に耽けていた。

もし将来子供に
「心ってどこにあるの?」

と聞かれたならば、
「心は手を合わせたり、唇を噛み締めたり、皮膚が合わさったところに宿る
んだよ。」
なんて我が物顔で粋な回答をしていたに違いない。

この本を読むまでは。

①心は見える!で紹介した書籍『わかりやすいほどわかりにくい?』とは真逆のことが書かれてた。ここが読書の醍醐味でもある。

まず序章のタイトルからぶっ放してる。

序章:文学の深さ、心の浅さ

ニック・チェイター『心はこうして創られる』

心が浅いだと!
心は複雑で深淵深くて、奥があるものなんだぞ!

と思っても無駄だ。序章の時点でこう続く。

隠された深みを探査するという企ては、たんに技術的に難しいのではない。根本的に的外れなのだ。「心には隠された深みがある。」という発想そのものが全く異なっている。

ニック・チェイター『心はこうして創られる』

心についての世間一般のストーリーは、ちょっとだけ直せば良いのではない。廃棄すべきなのである。

ニック・チェイター『心はこうして創られる』

ジャブパンチなどではない、最初からストレートパンチをかましてきた。

ニック先生は、無意識の中に「本当の自分」みたいな存在がいて、その本当の自分に耳を澄ませてみることが大切。という耳心地の良い言説をぶった斬っている。

僕はこういったアンチテーゼは好きだ。曖昧な回答より、ポジションを取り切ってる方が勇敢であるからだ。

しかし直感的には心っぽい何かがあるような感覚はある。ではこの何かの正体はなんなのだろうか。

脳という即興のエンジンは驚くほどの性能を誇り、その時その場で色、物体、記憶、信念、好みを生成し、物語や正当化をすらすらと紡ぎ出す。脳があまりに説得力あるストーリーテラーであるせいで、私たちは思考が「その時その場の」でっちあげとは思いもしない。

ニック・チェイター『心はこうして創られる』

なるほど、心とは奥底に眠っているものではなく、その場その場で逐一生み出されているものなのか。

自分の脳がその場で創り出している虚構なのだ。前もって形成された信念や欲望の好みや意見はないのであり、記憶さえもが、心の底の暗がりに隠れているのではない。

ニック・チェイター『心はこうして創られる』

つまり脳は、倦むことなき迫真の即興家であり、一瞬また一瞬と心を創り出している。
(・・・)
新たな即興は、過去の即興の断片から組み立てられる。

ニック・チェイター『心はこうして創られる』

面白い!!
即興家って言葉いい。

そういえば、リベットの実験を思い出した。

「こうしよう」と意識的な決定をする約0.35秒前には、すでに脳により決断が下されていることになる。

https://www.aiiv.jp/free-will/

例えば、
目の前にあるコップを取ろうと思ったとする。しかし、「取ろうと思う」より0.35秒前に脳が「コップを取れ」とすでに命令を下していた。
という実験である。

つまり自分の意思で何かをやったつもりでも、実はその0.35秒前に脳が命令を下した後なのだ。

この実験は人間に自由意志は存在しないとする立場の根拠となっている。なんというか、虚しくなってくる。

心なんてものは存在せず、
自分の意思も存在せず、
脳に踊らされているだけなのかと。

生きる意味を失い、ニヒリズムに陥りそうになる本だ。

将来の子供にはぜひ人生に希望をもって欲しいと願う僕はこの本はそっと燃やしてしまおうかと考えた。

が、最後の文章を読んで、少し安心した。

私たちは自分の内側の何かオカルト的な力に束縛されたりはしていない、ということも忘れずにいるべきだ。
(・・・)
もし心には表面しかないなら、つまり私たちは自分の心、自分の生き方、自分の文化を想像力によって創り出しているのなら、私たちはもっとワクワクする未来を思い描き、現実にする力をもっているのだ。

ニック・チェイター『心はこうして創られる』

ふぅ…よかった。さすが大手出版社から出版されてることもあって、最後は希望を持たせてくれる。確かに、心に、本当の自分っぽい虚構に、自分の自由が奪われているとしたら、この考え方が救いになる人はいるかもしれない。

心の代わりとして、想像力の可能性を感じさせてくれる締めだった。

最後に、ヨルシカの好きな歌詞を紹介してこの章は幕を閉じようと思う。

遥か遠くへ まだ遠くへ
僕らは身体も脱ぎ去って
まだ遠くへ 雲も超えてまだ向こうへ
風に乗って
僕の想像力という重力の向こうへ
まだ遠くへ まだ遠くへ
海の方へ

ヨルシカ「老人と海」


⑥人は人が殺せない

「人を知る」シリーズ

人を知るシリーズ

殺人のニュース、戦争のニュース。今も昔もこれらのニュースは尽きない。

これらのニュースに触れるたび、
「僕もいざとなったら人を殺してしまえるのだろうか。」
と考えることがある。

無論、心は即興家らしいので、この思考実験は無駄だ。多分いざとなってみないとわからない。(この記事の第五章を読んだ人ならわかるはず。)

しかし、「人間と殺人の関係」についてもう少し思考を深めることはできそうだ。この書籍を頼りにして。

まず表紙のキャッチコピー
「1人すら殺せない人が、なぜ多くの人を殺せるのか」
引きが強くて最高だ。読み応えがないわけがない。

フォントやデザインも最高だ。SFを彷彿とさせる。

そんな中でまずはこんな問いを投げかけてくれた。

「人が人を殺してはいけない理由は何か。」
僕は「人は人を殺してはいけないと誰がいったのですか?」と訊き返す。

森達也『虐殺のスイッチ』

もはやタブー視されている問いだ。

「1+1=2」
を証明しようとする人は数学オタクくらいで、我々一般人は、本当に1+1って2なのかな?って疑ったことはない。

「殺人は良くない」も一緒だ。「1+1=2」くらい自明(証明不要)なものでないといけない気もするが、そこに思いっきり切り込んでくる。大好きだ。

ただし、著者はただの屁理屈マン、倫理オタクマンとしてこの問いを立てているのではない。疑うべき問いだという根拠として、こう述べている。

戦争は世界中でまだ続いている。日本も含めて多くの国は、軍隊と兵器を保持している。つまり国ぐるみで人を殺すことがあることを前提にしている。
(・・・)
この国には死刑制度もある。生きる価値がないと多くの人が合意して裁判所が死刑判決を確定させた命は合法的に諸挙することが認められている

森達也『虐殺のスイッチ』

確かに、「人を殺すな」とは誰もいってなさそうだ。

ただよく考えてみると、引用で出た、「戦争」による殺人も「死刑」による殺人も、「人が人を殺す」といった例ではない。「国が、社会が人を殺している」事例であることに気づいた。

本書では特に言及されていなかったが、この差は見過ごせない差のような気がする。なぜなら人は簡単に人を殺せないということを示唆するデータがあるからだ。

米軍は従軍した兵士たちがどの程度戦争に積極的に関与したかを調査して、その結果に衝撃を受けた。
前線で敵兵を狙って発砲した兵士は、全体の10~15%しかいないことが明らかになったからだ。

森達也『虐殺のスイッチ』

しかし読み進めていくと、戦時中の人を殺す訓練として、衝撃的な事実が書かれていた。

大日本帝国陸軍は、(…)大陸に侵攻した時、捕虜にした中国兵や民間人を立ち木に縛り付け、初年兵たちに突進させて銃刀で突かせる訓練を日常的に行なっていた。これを「実的刺突」という。

森達也『虐殺のスイッチ』

実際にこの訓練に参加された方のインタビュー内容も引用されており、その内容は衝撃的だった。ぜひ一読してもらいたい。

こうして兵士たちは、人を殺す機会へと改造される。日本のこの訓練方法を、米軍は戦後に参考にしたとの説もある。
訓練方法を変えてから米軍の兵士の発砲率は朝鮮戦争で55%に、ベトナム戦争では90~95%に上昇した。

森達也『虐殺のスイッチ』

お気づきだろうか。
発砲率が、人を殺す訓練の前後で10%→95%まで上昇したのである。いわばこの訓練は「人格をぶっ壊すための訓練」と読んでも差し支えないかもしれない。

国や社会は人を殺せるかもしれない。人格をぶっ壊せば人を殺せるかもしれない。しかし、「人格が人格を持った個人を殺せるのか?」という問いにはまだ答えられていない。

もう、グローバル&リベラル化社会で生きている私たちは、国境を超えた人々も、人種が違う人々も、同じ人格を有した私と同じ人間であると知ってしまっている。

人を殺す現場がある時、その意味は個人にあるのか、社会にあるのか。それでも、いざという時は人を殺してしまう合理的な理由を脳は作り出してしまうのか。考えたくない事実に目をむける時間のお供として本書は大きな足掛かりになるだろう。

⑦「無意味であること」の意味

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前置きなどいらない。なぜなら5年に1度の良書に出会ってしまったからだ。正直、今回の24冊の中でベスト本だ。うまく魅力をこの記事で伝えられるかわからない。

「余白を持った生活をしよう!」
「人生には余白が必要だ!」
「たまには無意味な時間を必要だ」

気の利いた自己啓発本でよく見る言説だ。

「必要だ。」といっている時点で無意味に意味を付与してるじゃないか
と捻くれボーイは思っていたのだが。この本では「無意味という意味」をつけることの意味を教えてくれた。意味のインフレーションが起きているが、頑張ってついてきてほしい。

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四角形の歴史?

数学史とかの延長線上なのかなと思って手に取った。

しかし最初のページでその期待は裏切られる。

いつものように、風景を撮ろうと、カメラのファインダーを覗きながら、ふと考えた。犬も風景を見るのだろうか。

赤瀬川原平『四角形の歴史』

なんと素朴で、引き込まれるような問いだろうか。

うーん…。犬は風景を見ないと思う。
犬は風景というものに気がつかないんじゃないか。
犬は物を見る。

赤瀬川原平『四角形の歴史』

この調子「風景」という切り口で、四角形の歴史について迫っていく。風景と四角形。一見なんも関係なさそうなこの二つ。それが心地の良いリズムで軽快に結びつけられていく。

本書は多分、15分くらいで読める。それくらい薄くて読みやすい。それゆえ文章量も少ない。この文章量の少なさで、物事の本質をズバッと考察し、れもエッセイ風の美しい文章と論理展開で、可愛らしいイラスト付きだ。まさに「大人の絵本」って感じだった。

それだけじゃない。四角形の歴史を皮切りに、「余白」の意味に迫ってきた。

人間は四角い画面を持つことで、はじめて余白を知ったのだ。その余白というものから、初めて風景をのぞいたらしい。

赤瀬川原平『四角形の歴史』

なるほど。余白とは、四角という区切りの中で初めて生まれるものだ。つまり有限の空間の中に初めて余白が生まれる。無限の空間に余白はない。なぜなら余白など考える必要がないからだ。しかし有限の世界ではそうはいかない。余白が意味を持つのは有限の世界なのだ。

人生に無意味な時間(=余白)が必要なのは人生が有限だからだったのだ。

無意味な時間を味わうことは、人生の有限性を味わうことなのかもしれない。

⑧ハウエル先生との和解

「本を知る」シリーズ

本を知るシリーズ

さて、ついにこの時が来た。ハウエル先生との最終決戦だ。

『読書について』は数々の読書家の推薦本としてよく挙げられる本である。
積読してたがやった読める事に喜びを感じていた。

この一文を読むまでは。

ほとんど丸1日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失っていく。
(・・・)
彼らは多読の結果、愚者となった人間である。

ショウペンハウエル『読書について』

一応、正式な時系列だけ整理すると、『読書について』は24冊中18冊目くらいに読んだ本だ。つまり後半戦に差し掛かったあたりで、今までの17冊も、この後残ってる6冊も否定されたのだ。

「なんだコイツ。」

と言ってそっと本を閉じる選択もあった。ただ僕はこう見えて謙虚で素直だ。なので、一応、続きを読んでみることにした。

バネに、他の物体を乗せて圧迫を加え続けるとついには弾力を失う。

ショウペンハウエル『読書について』

イメージはできる。なんの比喩だろう。

精神も、他人の思想によって絶えず圧迫されると、弾力を失う。
食物をとりすぎれば胃を害し、全身をそこなう。
精神的食物も、とりすぎればやはり、過剰による精神の窒息死を招きかねない。

ショウペンハウエル『読書について』

素晴らしくわかりやすい比喩だ。さすがとしか言いようがない。様々な他人の思想を浴びすぎると、途方に迷い、自分で考える時間や精神が損なわれるということだろうか。

そして、こう続く。

だが熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものとなる。
食物は食べることによってではなく、消化によって我々を養うのである。
それとは逆に、絶えず読むだけで、読んだことをあとでさらに考えてみなければ、精神の中に根を下ろすこともなく、多くは失われてしまう。

ショウペンハウエル『読書について』

読書にも消化の時間が必要だというのだ。
消化の時間を無視して、多読すると、胃が持たないということだ。

納得である。

非の打ち所がない。

もう僕の負けなのか。

いや違う。


多読しても、ちゃんと消化すれば良いのだ。

そうして、生まれたのが本記事だ。

この記事を書くにあたって重要な本は何度か読み返し、自分の言葉でまとめみた。この記事を書くまでが、スパルタブッカソンのゴールなのだ。もちろんそれだけで完全に消化できているわけではない。ただ、ハウエル先生への第一歩のアンサーとして執筆に至った。

というか、そもそも、今回の企画を多読と読んで良いかわからない。全部通読はしてないからだ。むしろサラッと要点だけを捉え、積読本の中から熟読したい本を選んでるに等しい。

ハウエル先生はこうも言っている。

比類なく卓越した精神の持ち主、すなわちあらゆる時代、民族の生んだ天才の作品だけを熟読すべきである。
「反復は研究の母なり。」重要な書物はいかなるものでも、続けて二度読むべきである。

ショウペンハウエル『読書について』

つまり、良書だけをじっくり読めということだ。

ということで….

【第一回】熟読ブッカソン開催のお知らせ

スパルタブッカソンはとにかく積読を多読し、良書を見つける旅だった。

そして熟読ブッカソンは1冊の良書を何度も読み、自らの血肉に変え、完全に自分の精神に宿す読書会だ。

第6回ゆるブッカソン

持ち物は1回以上読んだことのある本。最悪読みかけでも良い。
「この本のエキスを浴び倒したい」
そんなオキニな一冊を持ってきて頂きたい。

朝から晩までぶっ通しでやるつもりだ。参加人数は10人以下くらいがベストだと考えている。

日程合わない人はインスタでDMも歓迎だ。




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