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教養ブームの終焉。あるいは差別主義者にならないための処方箋。

【積読娯楽紀の連載】
ただ積読してある本の紹介といえばそれまでだ。積読娯楽紀は書評でも読書感想文でもなければ要約記事でもない。
読書体験とはただテキストを読むに留まらず、著者のメッセージを受け取るに留まらず、コンテクストとの対話に面白さがあるという哲学の元、読書体験そのものを擬似体験してもらうことを目的に連載を開始した。
堅苦しいものではないが、消費的でもない、娯楽紀行を楽しんでもらいたい。

本日の積読本

三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』



「教養がある人」=「知識がある人」だと思っている人、全員挙手してほしい。

お、蜘蛛の糸のように真っ直ぐ挙手してる人がいた。

2時間前の僕だ。2時間前の僕はなんて愚かだったのだろう。知識人に憧れ、知識によって学歴コンプレックスの克服を試みて、知識獲得に勤しんでいた。(僕は高卒だ。)

ところで、教養と言えばのこの話題。ご存知だろうか。記憶に新しいMrs. GREEN APPLE最新曲『コロンブス』のMVの炎上だ。知らない人はこの記事を読んでほしい。わかりやすく問題点を指摘している。

この記事すら読むのがめんどくさい人向けに軽くまとめると、

・MVの表現でアメリカ先住民に対する差別的だと想起させる表現があり炎上
・公式はすぐに謝罪し、差別的意図はなく、想像力が欠けていたと弁明

ただの要約

という感じだ。ここからXでは、「教養がない人が作るとこういった事故が起こる」という批判が飛び交った。差別的意図に対してでなく、教養がなかったために起こった事故だとし、製作陣の無教養さに対する批判が多かった。

2時間前の僕も、同じ意見だった。
「こんなん、絶対やったらダメってわかるやん。製作陣どれだけ教養ないん?」

でも2時間後の今の僕は違う。
「製作陣ももちろん反省すべきだが、時代がそうさせた側面もある。」
こう思うようになった。

そろそろ気になってきただろう。この2時間に何があったのか。答えは簡単だ。三宅香帆先生の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を読んでいた。多分、働いてる人はこの本すら読めないと思うので代わりに紹介したい。

なぜ本が読みたいのか?

積読家なので「どうしたらもっと本を読めるかな」と思って手にとった本書だが、早速そんな問いがどうでもよくなる問題提起が展開された。

映画『花束みたいな恋をした』の麦と絹の対比には、(…)気になる差異がある。
それは麦と絹の階級格差だ。麦は地方の花火職人の息子であり、仕送りが止められる場面も描かれる。しかし絹は都内出身で、親は広告代理店に勤め、オリンピック事業にも関わっている。この出身の格差は、麦と絹の労働の対比にも影響している。つまりこの映画は「読書の意思の有無が、社会的階級によって異なる」ことを描いた物語にも読めてくる。

三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』

つまり、読書したいと思うかどうかも、家の社会階級が影響しているという説だ。ここから僕は「どうしたらもっと本を読めるかな」という問いの前に、「なぜ本が読みたいのか?」という問いに引き込まれていった。

本書は明治時代から現代までの日本の労働観の変遷を切り口に、当時の人々は「なぜ本が読みたかったのか?」という問いに応答してくれている。時代の労働観によって、本を読む動機は全く異なっていたのだ。

まず驚いたのは、黙読は明治時代に生まれたらしい。全然最近すぎてびっくり。

江戸時代、読書といえば(…)家族で朗読し合いながら楽しむものだった。
(・・・)
明治時代になってはじめて、黙読という文化が生まれた。

三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』

背景には活版印刷によって大量に書籍が流通した技術革新がある。「自分の好きな本を読む」という概念が生まれたのも、この時代からだと。

そしてここから大正時代にかけて、サラリーマン概念の登場と共に自己啓発書やビジネス書ブームが到来する。当時は生まれた土地や階級に関係なく、自由に働く場所を選べるようになって、立身出世が憧れとなる。ただし、その憧れとは先に待っていたのは、日露戦争後の物価高や不景気による苦境だった。

サラリーマン=物価高騰や失業に苦しむ人々、という図式が社会に定着していた。(・・・)
「労働が辛いサラリーマン像」ができあがったのは、実は大正時代だったのだ。

三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』

「苦しいリーマンではなく、俺はエリートリーマンになるんだ」

この時、エリートリーマンになるための手段として選ばれたのが知識としての「教養」だ。

和辻哲郎や、阿部次郎、安倍能成といったエリート階級の青年たちは、新渡戸稲造に影響を受け「知識を身につける教養を通して、人格を磨くことが重要だ」と語るようになる。

三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』

今の教養ブームの先駆けだ。当時苦しいリーマンはビジネスに使える効率重視の教養を中心に身につけさせられていた。それを横目にエリートリーマンを目指す青年たちはエリートとしてのアイデンティティを保つために、ビジネスとは直接的には関係ない知識としての教養に着目したのだ。

ただこの教養によるサラリーマンの分断は戦後の昭和で変わる。

「働きながら高校に通う青年たち」が求めたのは、「教養」だったのだ。 教養は家庭の事情で学歴を手にできなかった層による、階級上昇を目指す手段だった。

三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』

こういった事情を抱えた青年は50万人を超えたという。出版社からすれば重要なマーケットだ。そのため当時流行っていた「人生雑誌」が教養について多く掲載があった。

こう見ると、昔から教養を身につけることは、直接的に役に立てるわけではないが生きていく上で密接に関わっていたんだなということがわかる。

このような調子で、労働ための知識教養。そしてそんな教養を得るための読書があった。

インターネットが出現するまでは。

インターネットの出現により変わったのは、知識と情報の境界線が曖昧になったことだ。ここで著者は知識と情報の違いについて、ノイズがない知識が情報だという。「ノイズ」は本書のキーワードだ。

読書として得る知識にはノイズー偶然性が含まれる。教養と呼ばれる古典的な知識や、小説のようなフィクションには、読者が予想していなかった展開や知識が登場する。文脈や説明の中で、読者が予想しなかった偶然出会う情報を、私たちは知識と呼ぶ。

三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』

知りたいものだけを知る。それが情報。知りたいものではない周囲の文脈をノイズ。面白い。

インターネット、特にGoogle検索では知りたい情報にすぐにアクセスできる。本の要約系YouTubeチャンネルでは本を読まずともの本のメッセージや結論を知ることができる。

そして人々は情報を求めるようになる。知識は非効率だ。自分が知りたい情報だけインプットされる環境を求める。このようにして現代人は知識が得られる読書意欲を削がれてきた。

そこで時代は再度インターネット時代における教養に再度注目した。それが教養あるビジネスパーソンを目指そための「ファスト教養」と呼ばれるものだ。

昨今は優れたビジネスパーソンの理想像として、教養ある人が描かれる。Amazonで「ビジネス 教養」で検索すると、『ビジネス教養としての⚪︎⚪︎』といった書籍で溢れている。

ここで、本書では教養をこのように定義している。

教養とは、本質的には、自分から離れたところにあるものに触れることなのである。

三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』

ビジネスに直接的に役の立たない知識を求めるようになった。

いや、違う。彼らが求めているのは知識ではなく情報ではないか?とも思ってきたところから私見が始まる。

私見

ここからがようやく私見だ。
「ファスト映画」や「ファスト教養」といったテーマの本がベストセラーになっていることからわかるように、現代は教養を情報のように見てる。

今まで見てきたように、教養を求めて読書していた時代、つまり教養ブームは昔からあった。しかしそれは今までは知識としての教養であったのに対して、昨今は情報としての教養の気がしてならない。つまり、「ビジネスエリートとして身につけるべき教養」という必要最低限の情報があるのだ。

「仕事とは直接的に関係ない」という観点で、確かに本書の教養の定義である「自分から離れたところにあるものに触れること」には該当するかもしれない。

ただし、僕はこの教養の定義を一歩引いて考えてみたい。もう一度知識と情報の違いにまつわる引用を見てみよう。

読書として得る知識にはノイズー偶然性が含まれる。教養と呼ばれる古典的な知識や、小説のようなフィクションには、読者が予想していなかった展開や知識が登場する。文脈や説明の中で、読者が予想しなかった偶然出会う情報を、私たちは知識と呼ぶ。

三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』

ポイントは偶然性だ。「偶然に出会う」という経験を重ねると、自分にはまだまだ知らない世界があることを実感する。この実感こそが、真の教養につながると思っている。つまり「わかった気にならない」ということだ。情報だけでは世界を知った気になることができず、まだまだ知らない世界が広がっているという確信。この確信を得ることが教養体験と言える。

教養がある人とはなんなのか。

さて、ようやく冒頭の問いに戻ろう。

「教養がある人」=「知識がある人」だと思っている人、全員挙手してほしい。

野口一馬『このnoteの冒頭』

この認識の問題はなんだったのか。

それは「知識がある人」というものの中に、「無知であることを実感している人」という定義が抜け落ちていることだ。

真に教養ある人とは、知識ある人ではなく、知識を得る過程で「世界にはまだまだ知らないことがある」と実感している人のことなのだ。

ファスト教養時代で定義されている教養人にはこれが足りない。

MVの事故はなぜ起こったのか。

さて、もう勘の良い方はお気づきだろう。Mrs. GREEN APPLE最新曲『コロンブス』のMV製作陣には何が足りなかった(可能性が)あったのだろうか。

僕が思うに、それは、知識ではない。彼らほどの人気を誇るアーティストのMV製作陣に知識人がいないはずがない。

まさに「世界にはまだ知らないことがある」という実感だと思う。この実感があれば、現状の知識で満足することはなかったはずである。むしろ中途半端に情報的な教養があったために、コンセプトに問題がなかったかの検証が緩まったのではないか。しかしこれは製作陣が完全に悪いわけではない。

でも2時間後の今の僕は違う。
「製作陣ももちろん反省すべきだが、時代がそうさせた側面もある。」
こう思うようになった。

野口一馬『このnoteの冒頭』

そう、時代がそうさせた側面もある。つまり、現代における教養が「情報的教養」に限定されており、ロールモデルがファスト教養人であるが故に、現状の知識で満足せざるを得なかったのだ。

それを象徴するかのようなコメントがXで流れてきた。

再評価で色々あった偉人のリスト2024年度版見たいの欲しい。

深津 貴之 / THE GUILD

これはまさに、情報を欲していることに他ならない。これに肯定的な意見も多かった。もちろん、深津さんご自身はこれらの情報に限らず、入念にリサーチされるかもしれない。しかし、「炎上しないリスト」という情報は未知領域があるという実感を奪いかねない。そのリストに載ってなければOKという判断をする人が大量に現れるだろう。そしてそのリストを知っていることが教養人としてもてはやされるだろう。

現代の教養ブームが終焉に向かい、真の教養ブームに生まれ変われば、知らずのうちに差別主義者になってしまうことを防ぐ処方箋になるかもしれない。

※僕はMV製作陣のことは全く知らない。完全な憶測である。ちゃんとリサーチしたけど起こってしまった事故かもしれない。つまり真の教養のある人がいても起こってしまった事故の可能性もある。僕の考えをまとめるのに好き勝手使ってしまったということだけご了承頂ければと思う。

最後に

今回、三宅香帆先生の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を断片的に紹介した。ファスト教養的にいうと、「仕事に関係ない時間をもっと持とう」が本書の結論である。

さて、ここであなたは二つの選択肢がある。この記事の断片的な紹介と、結論だけを知って満足するファスト教養人になるか。今すぐポチって真の教養人となるかだ。(※アフィリエイトでも回し者でもPRでもなんでもない。)

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