人を愛することは幸せなのか|『アルジャーノンに花束を』をどう読むか
「あなたに私の何がわかるの」
僕は多分、この言葉に弱い。多分、この時は最も無力感を味わう時間になっている。それは僕があなたを理解している気になっているからではない。最後はあなたのことを理解できる日が来ないこともわかっている。
多分、頭では理解しているその現実を、心では理解したくないのかもしれない。
多分、「わかってもらえない人」と烙印を押されるのが怖いのかもしれない。
多分、あなたを孤独にせざるを得ない現実に前に虚しさを感じているのかもしれない。
とにかく僕にとってはグサっとくる一言なのだ。
そういう意味で、止血が困難なほど刺されまくった本に出会った。それがダニエル・キイス著『アルジャーノンに花束を』だ。僕はなぜこの一言が僕にとって重要な言葉なのか、掴めた気がした。
本書は知ってる人も多い古典的(?)名著だ。僕は背表紙のあらすじだけ読んで、読み始めた。こう書いてある。
知的障害者だったチャーリイは、手術によってIQ180越えの天才となる。最初は知能が高い状態を憧れていた彼だったが、いざ知能が圧倒的に高くなると周囲との人間関係やアイデンティティに関して様々な苦悩や葛藤に見舞わる。知能が高い方が幸せは本当なのか?を考えさせられる物語だ。
しかし僕はその本筋のテーマより、チャーリイが愛し、チャーリイを愛した登場人物であるアリスの物語に注意してしまった。チャーリイのような人を愛してしまうということの苦しさの物語である。
さて、「チャーリイのような人」とはどのような人か。それこそがこの小説の本懐であるのだが、それゆえに本書を読み進めると"実感"できる。この時僕が"理解"ではなく、あえて"実感"と表現していることも大事なことだ。
まず、最初のページを開いた時、衝撃が走った。まるで幼児が書いたかのような文章が綴られていたのだ。
主人公のチャーリー目線で日記のようなもので物語が始まるのだ。そして手術を終えると、徐々に文章が難しくなっていく。
この表現ギミックがチャーリイの知能の現在地を生々しく伝えてくれる。
ついに、大学の教授に対してですら下に見るようになり、この頃には彼らを論駁できるほどになった。
この上に挙げた3つの引用文章で注目して欲しい箇所がある。それは日付だ。
・けえかほおこく1ー3がつ3日
・経過報告10四月二十一日
・経過報告11五月十五日
彼はわずか3ヶ月足らずで、圧倒的な知識を得て、圧倒的な知能を手に入れた。しかしその代償は多岐に渡った。
まず1つは知的な成長速度に、感情の成長速度が追いついていないということだ。チャーリイは自分が賢くなればなるほど、愛してた女性であるアリスの感情に寄り添うことができなくなっていった。
チャーリイは急速な自身の身に起こった変化に夢中で、愛すべき人との関係性をどうしたら良いかわからなくなってしまうのだった。
その中で愛する人を傷つけてしまったことにまた、チャーリイも傷つくのであった。
もう1つに、周囲も変化した。チャーリイ自身も周りとどう関わったら良いのかわからなくなっているのに対し、元々チャーリイの友人だった人も彼との関わり方に困惑した。お互いに分からなくなってしまい、距離をとってしまう。
そして最後に、多重人格だ。急速な人格変化が起こったことで、以前の幼きチャーリイと、知的成長に至ったチャーリイの二つの人格が彼の中に住まうことになる。
今のチャーリイはアリスを愛し、アリスと肉体関係を結びたいと望むのに対し、幼きチャーリイはそれを拒絶する。
そしてこの幼きチャーリイの人格との共存は、彼に過去を回想させた。それは彼をさらに傷つけるのだ。
彼の母ローズは、チャーリイの知的障害を忌み嫌っていた。チャーリイに「普通」になれることを望み、「普通」であることを強要した。無論、チャーリイは母の望む「普通」の生活を送ることはできない。
妹ができた時、ローズはチャーリイを拒絶することになる。
自分の生みの親、自分に存在を与えた者から、存在を否定されることほど、深く刺さる傷はない。彼は人間としての存在を許されていなかった。
"人間としての存在"は彼にとって極めて重要な問題だった。もちろんこのような幼少期の家庭での居場所の喪失もあるが、あくまで彼は「人体実験」によって知能を得たという点も影響している。
当時、人間の知能を上げる手術はまだ完成していない。マウス実験でクリアし、続いて被検体として選ばれたのがチャーリイだった。無論、教授陣は非人道的な扱いをしているわけではない。チャーリイの人権にも配慮した上での人体実験である。
教授は論文でチャーリイの成果を公表し、一般化し、あらゆる知的障害者の一助になりたいと望んでいる。しかしいくら配慮しても限界はある。教授も承認欲求がある人間だ。実験の被検体であるという事実は変わらないし、彼の人格への注目ではなく、彼の知的能力の向上に関心が向くのは仕方がないのかもしれない。
しかし、チャーリイは自分は"人間としての存在"を認められていないという感情に深く傷つくのであった。
教授陣にも失望したチャーリイは自分の知的能力について、自分で研究するようになる。そこでの研究成果というが、彼に決定的な傷を刻み込むのであった。(以下ネタバレ含む)
そう、彼の飛躍的に向上した知能は、いずれ元に戻るという仮説があらゆる研究データから得られたのだった。
彼は徐々に知能が低下していくのを実感し始める。まずは難解な学術書が読めなくなり、ドイツ語がわからなくなり、辞書がないと本が読めなくなる。かつてできたことが出来なるなるという喪失感は想像を絶する。
そして例のごとく、「経過報告」の文章が徐々に幼児が書いたかのようなものに戻っていく。この生々しさは、かなり胸を痛まれる。
そうしてチャーリイの物語は幕を閉じる。10ヶ月にも満たない間に、彼は海より深い傷を負い、そして最後はその傷すらも忘れてしまった。
この間、ずっとチャーリイを思い、彼に寄り添い続けたのがアリスである。チャーリイが友人を失った時も、幼いチャーリイの人格に拒絶された時も、幼少期の問題や、教授陣から人として扱われなかった時も、アリスは彼を愛し、理解しようと心がけた。
もちろん、最後チャーリイが知能が低下する時もアリスはそばにいた。チャーリイが負っている傷は理解できないと知りながらも歩み寄っていた。しかし、その度にチャーリイから例の言葉を浴びせられるのであった。
「あなたに私の何がわかるの」
チャーリイは自分の中で起こっている特別なこと、自分が感じている特別な感情、この周囲に鉄壁を張った。誰も近寄らせなかった。それでもアリスは辛抱強く、彼を孤独にさせまいとした。自分の考えを押し付けるようなことはしていない。支援する側/される側といった上下関係も築いていない。あくまで対等な関係として、アリスも自身の感情で、チャーリイに対話を試みていた。しかしこの試みは、「あなたに私の何がわかるの」で一掃される。
最終的にアリスは拒絶されたまま、知的能力の低下と共にチャーリイに忘れられてしまう。
チャーリイを理解したいという気持ちはアリスのエゴだったのだろうか。それともケアだったのだろうか。どちらになるかは結果論なのかもしれない。しかし少なくとも動機は、愛だった。エゴになるかもしれない愛の実践には勇気が伴う。しかし、チャーリイに向けられるエゴは、彼をさらに孤独にしてしまう。
それはチャーリイを理解しようとすればするほど、彼を孤独にしてしまうからだ。理解しようとすればするほど、到底理解などできないことを実感するからだ。
そして、アリスは大切な人の苦しみを、本質的には理解できない、代わりに味わうことができない、という現実が目の当たりになる苦しさがある。しかしその苦しさもまた、他者からは理解されず、孤独なものになるのだ。
今やチャーリイよりもアリスの方が孤独なのではないかと思う。少なくとも本書の読者はチャーリイに共感する。彼の痛みや傷と向き合い、語る。チャーリイは読者の人生の物語りに刻まれる。
しかしアリスはどうだ。アリスの傷を、苦しみを、人生に刻む読者はいるのだろうか。
ここに、アリスの愛する苦しみの物語をどう読むべきかのヒントがある気がする。
わかりやすく生き辛さを抱えている人を愛してしまった人の孤独に、目を向けてくれる人はいるのだろうか。
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