眞葛焼の釉下彩
🍵今回から毎週木曜日の18時以降に更新します。不定期で眞葛普及活動の報告もします。
🍵目次から、冒頭の雑談を飛ばして本題を読むことができます。
今日のひとり言
今回は、ホラー映画の話。
最近『M3GAN/ミーガン』というホラー映画をアマプラで観ました。
AIロボットが暴走する、定番ホラーです。
実際観てみると、
人間の不完全さをじっくり学習してめざましく人間臭くなっていくミーガンの様子が不憫で愛おしい。最後まで面白かったです。
あれだけ正確無慈悲に殺人をしているのに、家族を手にかける時はゆっくりと首を絞め、最愛の相手を可愛さ余って、最後に罵る所とか、深い愛憎を感じました。
映画『M3GAN/ミーガン』の冒頭で、主人公のケイディは、幼くして両親を失ってしまいます。しかも、目の前で。
眞葛焼の開祖である宮川香山も、18歳の時に肉親を二人も失っています。
時は横浜開港。
安政6年です。
この翌年の春にお父さんの長造さん、3カ月後の6月、後を追う様にお兄さんの長平(二代長造)さんが亡くなります。
18歳ですよ……
今は成年扱いですが、高校卒業したて、大人の実感が湧かない年齢です。
兄の奥さんと一歳の甥、そして職人達を養う責任を一挙に負います。
虎之助さん(のちの初代宮川香山)は、病床に伏した父の枕元で、
「後世に香山の名を馳せよ」
と言い残されています。なんて重い期待なんでしょう。
京焼楽長造自ら、息子を信じると宣言していたのです。
私はこの使命を、4代目がまだ未来に向け、
「無理して取らなくてもいい。だが取りたいなら、取ってもいいんだよ」
と進む道の先に、襷をたなびかせてくださっていると思いたいのです。
眞葛焼の釉下彩
釉下彩とは、釉薬との組み合わせで更に審美性が向上する、陶芸における絵画表現です。
陶磁器は基本、素焼きそして本焼の最低二度は焼成が必要になるのですが、素焼きをした時点で絵付をして釉薬をかけ本焼するのが下絵付、
それを釉下彩とも呼びます。
以前お話した、高浮彫という技術。
高浮彫の追究にある程度の達成感を香山は得たからか、という考察もありますが、輸出先の外国人たちが濃厚な作風に飽きて来たことを敏感に感じ取り、初代香山は二代目に家督を譲り、釉薬研究に打ち込むようになります。
香山が誰から釉薬を学んだのかについては、考えられる筋はいくつかあります。
瑞穂屋(清水)卯三郎の筋?
佐野常民の筋(塩田、納富、ワグネル)?
ちなみに、工芸品の制作・輸出の起立工商会社の設立者である佐野常民さんは、明治10年頃、香山に技術改良のための資金援助もしています。
塩田さんは、あの、塩田真さんです。
ワグネルさんは旭焼という……いずれまた、この方もご説明しますね。
明治15年頃、眞葛焼は輸出から国内向けに作風をシフトし、
高浮彫はほとんど制作されなくなります。
当時の流行最先端、日本一の貿易港横浜で、欧米では中国清朝の磁器の人気が高まっていることを知り、それの研究と模倣を香山は行い、
ついに、様々な新しい色の釉薬や釉法を開発することに成功します!!
香山の釉下彩は、高浮彫に並ぶ明治期の超絶技巧として高く評価され、
香山史上二つ目の重要文化財となる、「黄釉銹絵梅樹文大瓶」が明治26年にシカゴ万博で発表されます。
あと、今日は先延ばしにしていた話題のつづきをお話するお約束でしたね。
去年、宮川香山の子孫である宮川眞さん、そして眞葛ミュージアム館長山本さんとお話しました。
つまり、100年ほどで、原料は枯渇している状態なんです。
海外の原料もそう豊富にあるわけではないらしく、私の遥かな夢、眞葛復興のディテールとして残されているのは、高浮彫です。
それにしても、粘土そのものも取り尽くされてきているようだし、次回は粘土についてフカボリしましょうか。
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🍵横浜の宝、宮川香山のこと、眞葛焼のことを、覚えていってくださると本当に嬉しいです。これからも語って参ります。
参考にした資料:
「みなと横浜が育てた眞葛焼」発行:横浜市教育委員会(文化財課)1989年
「横浜美術館叢書7宮川香山と横浜真葛焼」著:二階堂充 発行:株式会社有隣堂2001年
「初代宮川香山 眞葛焼」編著:山本博士 発行:宮川香山眞葛ミュージアム2018年
「神業ニッポン 明治のやきもの 幻の横浜焼・東京焼」監修:荒川正明 2019年
使用した画像のリンク:
文化遺産オンライン