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深読み:空井戸と地下道

村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」で、主人公24歳の青年トオルが、水の涸れた井戸を降りていくシーンがあります。トオルは深い井戸の底の暗闇の中で、突然失踪した妻のクミコとの出会いから結婚までのいきさつ、クミコが堕胎したときの奇妙な体験などを振り返ります。井戸の底では、記憶がこれまでにない力で様々なイメージを呼び起こしていきます。会社での些細なトラブルまで、まるでそれが今起こっていることであるかのようにありありと過去を再体験します。また、空井戸を教えたメイによって縄梯子を外され、蓋をされてしまい、トオルは退路を断たれてしまいます。

一方、インドの神話「マハーバーラタ」のユディシュティラとその兄弟4人と妻が、ラクシャグリハという蝋でできた燃えやすい家(宮殿)に住まわされ、あやうく住まいごと敵に燃やされそうになったエピソードがあります。ユディシュティラは罠であることにまっさきに気がつき対策を練り、仲間の穴掘り師が作った避難用の穴と地下道を、兄弟5人と妻の全員で通り抜けて避難したため一命をとりとめました。その蝋の宮殿には、敵一味が置き去りにされたまま、火が放たれてしまいました。自業自得とも言える結末です。そして、ユディシュティラさらに敵を欺くために、自分たちが生き延びたという情報は隠蔽したため、彼らは殺されたと民衆は悲しみました。

村上小説とインド神話を結びつけるのは、いささか無理がありますが、トオルの井戸を降りる行為は、人が心(マインド)の井戸を降りる時は、本当に「身体ごと」井戸の底に降りていくことを暗示しているのではないかと思います。一方、ユディスティラたちが先導することで、通過した地下道は、母胎や産道を象徴していると考えることもできます。ユディシュティラは、その穴に籠もることで母胎に戻り、産道(地下道)を抜け出ることで、また再生しました。周囲には死んだと思われましたから、それは死と再生を象徴していると解釈できます。
また、メイによって縄梯子を外され、蓋をされたことは、トオルの浅薄な作り話を一刀両断する行為でもあります。一方、ユディシュティラの敵が作り上げた見せかけだけの蝋宮殿と彼らを罠にかけるという策略も浅薄な作り話です。いずれも安易な物語を生きようとすると、異界からの仕打ちを受けることのメタファーとして解釈できます。

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