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恋の尻尾は、捕まえられない

今日はちょっとロマンチック(?)な恋の話題。

世界には、恋の始まりを現す言葉がたくさんあるそうで。

フランス語では、その瞬間を「雷の一撃」(Coup de foudre)。
アラビア語では、「」(HAWA)。
中国語では、「運命の力」(縁分)。
日本語では、「恋の予感」(というらしいですよ)。

でも、恋ってなんなんでしょう?
人を好きになるってなんなんでしょう?

誰からも教えられた訳でもなく、人は恋に落ちる。
それは本当に恋なのか?はたまた勘違いなのか?
証明する手段はないのではないのでしょうか。

「LGBTQ」「セクシャルマイノリティー」という言葉があるけれど、これは「異性を好きになる」という社会概念を根底に存在している言葉 なんだろうなと。どういうことかというと、「生殖活動を行うことができるのは異性との交わりのみに限定されているけど(体の構造上)、好意を抱くという点だけを取り上げると、うーんまあ別にどっちでもええで」という概念のもとだと、そもそもこういう言葉は生まれない。

もっというと「人は同性を好きになる生き物である」という社会概念を根底にした社会だと、異性を好きになることが「セクシャルマイノリティー」に当たる。これってとても不思議だ。

そう考えると、もしかしたら誰かに抱く恋愛感情は社会の当たり前から来る錯覚なのかもしれないし、逆に誰かに抱く友情は、他の誰かから見たときに恋愛感情なのかもしれない。それくらい移ろいやすいものだと思う。

また、「この基準を超えたときに恋愛感情だと言えるよ」という定量的なモノサシを与えられていないので、恋愛感情は至極主観的なものだなあと思う。例えば「好き」という恋愛感情を容積に換算するとして、同じ量の「好き」を他人に対して感じたとしても、私がこれを「恋愛感情である」と判断する基準と、あなたの「恋愛感情である」と判断する基準が異なったとするならば、同じ容積であるのにそれは恋愛感情になったりそうはならなかったりする。非常に主観的である。※以下画像参照

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ただ、恋愛感情はそもそも主観的であるものだと思うし、主観的であるべきであろうし、定量化したいかというとそんなことはない。他人から「あなたの好きという感情の容積は120mlに達していないので、これはまだ恋愛感情とは認定できませんね」と言われるのなんて、余計なお世話だ。

こんな不安定で不確定なものだからこそ人類は、恋や愛について何世紀も考え続けてきたし、それは数々の文学作品や楽曲が「愛」について扱っていることからも見受けられる。
Googleでもっとも調べられている言葉は「What is love?」だそうな。

目に見えるものが多くなった世の中で、目に見えない愛について考える。

そんな高尚なんだか低俗なんだかわからないことを考えながら
What is love?といえばTWICEがやっぱり世界一可愛いわよね、とため息をこぼしながらこのPVを見るのです。

あ、この記事のタイトルは言わずと知れたポニーテールとシュシュから引用です。懐かしいね。

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