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言葉が距離を内包している

言葉って面白い。
タメ口に敬語、方言、そして国を超えた言語まで、同じ内容を伝えるにも様々な伝え方が存在する。

「なんだか本当は何を考えているかよく分からないよね」と言われたことがある。歳上の人からだった。

まあ歳上なので気を遣うのは当たり前だしそりゃそうだとは思うので、素のままのわたし100%でいろと言われても無理な話だとは思うのだけれど、たぶん話している言葉が関係しているのだろうなーと漠然と思った。

前にもなにかのnoteで書いた記憶があるのだけれど、たぶんわたしが一番素の状態で話せるのは地元の方言を話している時だと思う。一番滑らかに言葉が出てくる。(たぶん、ちょっと言葉が強くなってしまうときもある)

上京して、標準語スピーカーに囲まれたので「え、博多弁!かわいいね!」と言われるのは最初の1週間はちょいと気持ちがよかったが、それを過ぎると「会話が止まって面倒臭いな」としか思わなくなった。わたしは自分の言葉をただ話しているだけなのに、「博多弁ってかわいいからあざといよね、ずるいよね」なんて言われると、え?となった。普通に質問を投げかけているだけなのに、聞き慣れなくて聞き返されるのも煩わしいなと思ってしまった。

だから、基本的に地元の人間以外と話す時に、わたしは自分の言葉を脳内で標準語に翻訳しながら喋っている。全ての言葉を。

だから、自分が思ったままの純度の高い言葉ではなく、標準語というコーティングを纏った状態で口から飛び出してくる。

加えて、敬語を話す時なんかは「元の言語(方言)→ 標準語への変換 → 敬語への変換」とプロセスが一つ増えてしまうので、そりゃ外向きな言葉が飛び出してきがちだよね、と思う。それは丁寧な敬語を話そうとすればするほどそうだ。コーティングが厚くなる。


最近羨ましいなーと思うのは、男性のフランクな敬語。
まあ、距離の近さにもよるし、厳密に言うと敬語かどうかは怪しいのだが
「○○なんっすよ!」「いいっすね!」などの、こういう距離の近さも一定ある、けどタメ口にもなっていない絶妙なラインを攻めたいい塩梅の言葉は、女性側にはなかなか存在しない。

きっと女性が「○○なんっすよね!」なんて言うと、受け入れてもらえないことはないかもしれないけれど、やや品のない言葉として見られてしまうことが多いのだろうと思う。「○○なんですよね」というと、一気に距離が遠くなるので、この真ん中くらいに位置している言葉は果たしてないものなのか。

この、言葉が内包する「距離」という概念は、日本語に特有のものなのだろうか?

この辺り、結構面白いと思うなー。

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