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戦争と香港~旧日本軍の足跡をたどる~大潭峡・東旅司令部跡編

 香港島東部の山間部に位置する大潭峡(タイタムギャップ)。その一角に、太平洋戦争(大東亜戦争)中に英軍が設けた東部旅団(東旅)司令部の遺構が今も残っている。付近の道路では石澳ビーチや赤柱(スタンレー)に向うバスや乗用車が頻繁に行き交うが、周辺に民家は一切なく、目立つ建物と言えば火葬場と刑務所ぐらい、という場所だ。

 1941年12月8日の太平洋戦争開戦に伴い、日本軍が中国広東省から英領香港に進攻。その後、日本軍が九龍半島高地の防衛線を突破し、同半島中心部を目指すなか、香港駐屯軍総司令官のクリストファ―・マルトビー少将は香港島への全部隊の撤退を指示。当初の計画を変更し、香港島を分割して旅団を置くことを決める。その際に誕生したのが東旅と西旅だ。

 東旅の司令部は大潭峡の砲兵地下要塞に、西旅の司令部は香港島中央部の黄泥峡(ウォンナイチュンギャップ)に設けられた。旅団長として東旅はセドリック・ワリス准将、西旅はジョン・ケルバーン・ローソン准将が就いた。

 12月18日夜、日本軍が香港島上陸作戦を開始すると、英軍は頑強に抵抗。西旅は黄泥峡一帯で激戦となり、日英両軍に多数の死傷者が出た。一方、翌19日、東旅司令部は早くも閉鎖される。赤柱要塞の防衛のため、赤柱に近い馬坑山(ストーンヒル)まで撤収することになったためだ。

兵舎など英軍の施設跡が集積している

 東旅の赤柱方面への撤収を巡っては、戦史叢書「香港・長沙作戦」(朝雲新聞社、P.316~317)に次のような記述がある。

「・・・マルトビー司令官は東西に分断されるのを防ぐため、東旅団は大潭峽と黄泥峡山狭間を確保すべきだと指示した。しかし、ワリス旅団長はその可能性のないことを訴え、全部隊を石山(筆者注:馬坑山)と赤柱村に退けて再編成のうえ、百家山(同:柏架山=マウントパーカー)、畢拿山( 同:マウントバトラー)をすみやかに逆襲すべき旨を提案し、マルトビー司令官は不本意ながらこれに同意した。この撤退時、同部隊内の誤りで十二榴を破損した」

 ワリス准将の判断が結果的に東旅の戦力に大きな影響を及ぼし、日本軍の歩兵第229連隊による容易な西進と南岸中央部への進出をゆるしたとしている。東旅は撤収後も粘り強く反撃を続けたが、最終的には赤柱半島で日本軍に包囲される事態に陥った。

 戦後、東旅撤収のタイミングが早かったのではないかと論争が起きたが、ワリス准将は19日時点で英軍勝利の可能性は低いとみていたとの指摘もある。日本軍の進行を少しでも遅らせ、赤柱要塞の戦力を最大限生かして日本軍を香港島北岸まで押し返すことを考えていたという。ワリス准将自身は、敗戦が決まるまで戦闘を続けている。

英軍のトーチカ遺構も残る。外観はほぼ当時のままだ

 東旅司令部が置かれた英軍の砲兵地下要塞は、英国の香港防衛計画の変更に伴い、1936〜39年に整備された軍事施設のひとつだ。だが、香港政府の歴史建築物リストには入っておらず、西旅司令部跡を含む黃泥涌の軍事遺跡が2級歴史建築に指定されているのに比べると、放置されている感は否めない。

 歴史建築物に指定されたからといってすぐさま保護につながるわけではないが、荒廃が進むだけでなく、人々の記憶も失われかねない。なお、黃泥涌の軍事遺構については、殉死したローソン准将らの追悼と顕彰のため、カナダ政府が資金を出し、今も保護に努めている。

 2023年12月某日、東旅司令部跡を訪れると、内部につながる地下道は廃棄物であふれていた。経営が立ち行かなくなった小売業者らが捨てていったのだろうか。入口から内部の数十メートルにかけて大量の皿や器が地面をすっかり覆っていた。一歩踏み出すごとにキュッキュッと、割れた陶器のかけらがこすれる音が地下道内に響いた。

内部はごみが散乱
数十匹の蝙蝠が天井に張り付いていた

 突き当りは、小さいバスケットボールコート一つ分ほどの広さで、地面から突き出たコンクリート製の構造物を除くと何もない。がらんどうかと思いきや、天井に目をやると、数十匹の蝙蝠がびっしり張り付いていた。息をひそめて、突然の来客に神経をとがらせていたようだった。

 内部は戦後、軍関係者以外の何者かが居住などに二次利用した形跡がある。だが、長らく放置され、訪れる人もほとんどいないせいか、当時の空気感をかすかに残しているようだ。また、東旅司令部跡一帯は、木々に覆われて分かりづらいが、ほぼ完全な状態に近いトーチカの遺構なども確認できる。荒廃が進んでいるとはいえ、「モノ言わぬ歴史の証人」としての役割を十分果たしている。

出所:香港政府の地図


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