辻真輝

香港在住約20年の物書きの端くれ。香港の片隅で、昨今の中国・香港情勢の変化を見届けてき…

辻真輝

香港在住約20年の物書きの端くれ。香港の片隅で、昨今の中国・香港情勢の変化を見届けてきた。日中戦争を含む第2次世界大戦に関する調査や取材をライフワークにしている。

最近の記事

戦争と香港~旧日本軍の足跡をたどる~大潭峡・東旅司令部跡編

 香港島東部の山間部に位置する大潭峡(タイタムギャップ)。その一角に、太平洋戦争(大東亜戦争)中に英軍が設けた東部旅団(東旅)司令部の遺構が今も残っている。付近の道路では石澳ビーチや赤柱(スタンレー)に向うバスや乗用車が頻繁に行き交うが、周辺に民家は一切なく、目立つ建物と言えば火葬場と刑務所ぐらい、という場所だ。  1941年12月8日の太平洋戦争開戦に伴い、日本軍が中国広東省から英領香港に進攻。その後、日本軍が九龍半島高地の防衛線を突破し、同半島中心部を目指すなか、香港駐

    • 【note】香港 戦争の記憶と伝承に挑む⑦「多民族・多文化・多角的な視点を伝えたい」呉力波さん 海濱文化導賞会元会長

      「波叔(波おじさん)」の愛称で親しまれている香港人の呉力波(ポール・ン)さん(72)。香港生まれだが、中国建国の父、毛沢東が展開した文化大革命(1966〜76年)の初期に中国・広州の中学に通い、「紅衛兵」となった経験を持つ。「武力闘争(武闘)」に参加し、農村部での「下放」も味わった。 現在は香港の歴史や文化の魅力を街歩きで伝える民間団体「海濱文化導賞会」の創設メンバーとして会の活動を後方支援する。太平洋戦争(大東亜戦争)勃発後、英国統治下の香港に日本軍が進攻。その後の香港島

      • 戦争と香港~旧日本軍の足跡をたどる~春坎角砲台跡編

         春坎角(チョンホンコック)砲台の遺構は、香港島南部の観光地である赤柱(スタンレー)から見て西側の半島に残っている。1930年代後半、日本軍による中国進出拡大を受け、警戒を高めた英国政府が香港防衛計画を見直すなかで新たに設けた沿岸砲台の一つだった。1938年、同地に6インチ砲2門を配備し、完成させた。  41年12月8日、太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発すると、日本軍は中国本土側から香港に進攻を始める。新界地区と九龍半島を占領した後、英側が2回の投降の呼び掛けに応じなかったこ

        • 香港 戦争の記憶と伝承に挑む⑥日本陸海軍・軍装と装備展を初開催 

          非公開で実演も 11月某日の午後、九龍地区にある雑居ビルの一角で、日本陸海軍の軍装と装備展が非公開で開催された。主催者はHさん。20代の香港人女性だ。Hさんによると、この日が初日だという。 ビルの玄関口でHさんに到着を知らせると、スマートフォンのアプリにすぐ暗証番号が届いた。入力して開錠し、中に入る。警備員はいない。そのままエレベーターで指定の階に移動。降りたら右手の通路奥に掲げられた木彫りの看板が目に入った。「香港二戦軍品館」(香港・第2次世界大戦軍装・装備館)と書いて

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          戦争と香港~旧日本軍の足跡をたどる~松林砲台跡編

          英防衛戦略の変遷を凝縮 松林砲台(パインウッド・バッテリー)の遺構は、香港島西部の龍虎山の山頂にある。海抜307メートルにあり、島西部防衛のために香港で最も高い場所に整備された砲台だった。1941年12月8日の太平洋戦争(大東亜戦争)勃発に伴い、香港に侵攻した日本軍から空襲を受けた。 歴史は古く、英国統治時代の1900年代初頭に建設・完成。1920年代に高射砲台に転用されたが、この間、近隣の摩星嶺要塞の運用開始なども重なり、十分に活用されることはなかった。だが、国際情勢が

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          戦争と香港~旧日本軍の足跡をたどる~摩星嶺要塞跡編

          香港島最西部の高地、摩星嶺(マウントデイビス)。ビクトリア港の西の玄関口に位置し、香港がまだ「維多利亜城(ビクトリアシティー」と呼ばれていた英国統治時代の初期に、港湾防衛のために英国が設けた要塞跡が残る。1941年12月の太平洋戦争(大東亜戦争)勃発を機に、日本軍による猛攻撃の標的にもなった。 要塞跡へは、島西岸を走る域多利道(ビクトリアロード)沿いからアスファルト道を1時間ほどかけてゆっくり登っていくのが正攻法だ。付近のバス停が目印でもあるが、登り口は現在、米シカゴ大学香

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          香港 戦争の記憶の伝承に挑む⑤「言語学習を通じた相互理解が平和のカギ」侯清儀さん 海浜文化導賞会主席・香港歴史文化研究会理事

          香港で30年にわたり日本語教育に携わってきた侯清儀さんは、香港と日本の交流史の研究や市民への積極的な伝承活動で知られる。流暢な日本語だけでなく、柔和な笑顔と穏やかな語り口が印象的だ。活動の原動力となっているのは何なのか、話を聞いた。 ーー生い立ちについて教えてください。 わたしはフィリピン華僑を背景に持つ閩南(中国福建省南部の呼称)の僑眷(きょうけん、同国内に居住する華僑の家族)です。閩南人は16世紀の明朝時代に福建からフィリピンに渡りました。華僑というとお金持ちをイメージ

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          戦争と香港~旧日本軍の足跡をたどる~黄泥涌峽編

          香港の戦いで最大の激戦地に 黄泥涌峽(ウォンナイチュン・ギャップ)ーー。1941年12月8日の太平洋戦争(大東亜戦争)勃発後、英領香港に侵攻した日本軍と英防衛軍との戦いで、最大の激戦地となった場所だ。両軍ともに多数の死傷者が出た。 地図を見ると、ちょうど香港島の南北を結ぶ「へそ」に当たり、戦前から英軍の戦略的重要拠点だった。聶高信山(マウントニコルソン)と渣甸山(ジャーディン・ルックアウト)の谷間に位置し、香港島中心部の湾仔(ワンチャイ)側と南部の浅水湾(レパルスベイ)方

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          戦争と平和 日本と香港~旧日本軍の足跡をたどる~西湾砲台跡編

          英国植民地時代に建設された西湾砲台跡は、香港島北東部沿岸に近い西湾山の山頂にある。階段を登りきると、鯉魚門(レイユームン)海峡や対岸の将軍澳まで視界が一気に広がる。現在は砲座跡などを残しつつ、公園となっている。 1941年12月の太平洋戦争勃発を受け、旧日本軍が決行した香港攻略作戦では、日本軍からの砲撃や空襲にさらされた。41年12月18日夜、「左翼隊」として筲箕湾から上陸に成功した歩兵第229連隊の一部は、19日朝にかけて西湾砲台にも進攻、攻撃を開始し陥落させた。防衛庁防

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          香港 戦争の記憶と伝承に挑む④「香港の歴史の『分水嶺」』を共有したい」 Watershed Hong Kong 葉坤杰さん

          第2次世界大戦中の旧日本軍による香港の戦い、英国軍からすれば香港防衛戦を巡り、数年前から香港メディアで関連の活動を紹介されるようになったのが、民間歴史研究・活動グループ「Watershed Hong Kong(ウォーターシェッド・ホンコン)」だ。 設立メンバーは当時全員が20代で、これまでの著名な歴史学者や研究者と比べるとはるかに下の世代となる。調査研究だけでなく、軍服の着用など「再現」を伴う戦争遺跡ツアーのほか、ソーシャルメディアを駆使した情報収集や発信、幅広いネットワー

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          香港 戦争の記憶と伝承に挑む③「戦跡に行って、見て、触って」 香港歴史研究者・高添強さん 

          旧英国領だった香港には、第2次世界大戦の前後に英軍あるいは旧日本軍が建設したり関わったりした戦争遺跡が今でも数多く残っている。だが、英国と中国両政府のはざまで翻弄されてきたという香港の歴史や、旧日本軍による占領という英中双方にとって不都合、かつ負の歴史を想起させることから、長く放置されてきた。 今から約30年前に、戦争遺跡の歴史的意義や価値を感じ、単独で調査を始めたのが、香港で生まれ育った高添強さん(59)だ。高さんが1995年に刊行した香港初の戦争遺跡に関する著書は反響

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          「最後の国民党戦犯」蔡省三さんを偲ぶ

          「最後の国民党戦犯」とされた元国民党幹部、蔡省三さんが2022年1月6日、香港で亡くなった。103歳(数え年104歳)だった。生前、約10年にわたる親交を通じて、普通話(標準中国語)で「蔡老(ツァイラオ=蔡おじいん)」と呼ばせていただいた。最大級の敬意と感謝と親しみを込めて、以下、蔡老と書かせていただく。 |始まりは南京戦の市民講座 蔡老と知り合ったのは、ちょうど10年前の2013年1月。厳密に言うと、筆者が蔡老を探して、ついにお会いできたというほうが正しい。前置きが少し

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          香港海防博物館が再開~抗日関連展示を拡充、英国統治時代は遠く~

          香港島東部の香港海防博物館が11月下旬、大規模改修工事を経て、約4年ぶりに再開した。2018年9月の大型台風で深刻な被害を受け、改修工事が続いていた。常設展示も大幅に刷新し、抗日戦争に関する内容を増やしたのが特徴だ。一方で、改修前の主要部分を占めていた英国統治時代の展示が大幅に減った。 海防博物館の前身は英軍が1880年代に建設した鯉魚門(レイユームン)砲台(要塞)で、ビクトリア港東部の鯉魚門海峡南岸に位置し、当時は香港最大規模の沿岸防衛施設だった。敷地面積15万平方メート

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          戦争と平和 日本と香港~旧日本軍の足跡をたどる~魔鬼山編

          「魔鬼山(デビルズピーク)」。香港の九龍地区南東部、油塘(ヤウトン)の背後にそびえるこの山は、ビクトリア港東部に位置し、対岸の香港島北東部を隔てる鯉魚門(レイユームン)海峡に近い場所にある。 1898年、英国が中国(清)から新界地区を99年間の期限付きで租借すると、新界に位置する魔鬼山は重要な軍事拠点として整備された。海峡の最も狭い箇所と香港島の北東部を一度に俯瞰できる要所と見なされたためだ。 正式名称は「砲台山」だが、市民には魔鬼山のほうがなじみ深いかもしれない。言い伝

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          戦争と平和 日本と香港~旧日本軍の足跡をたどる~金山陣地跡編

          ■旧日本軍が城門陣地陥落、英軍は金山一帯に撤退 ■激戦の末、英軍は全部隊の香港島への撤退を決断 1941年12月8日のアジア太平洋戦争(大東亜戦争)開始を受け、旧日本軍は英領香港に侵攻。このうち陸軍は第38師団歩兵第228、229、230連隊が深センとの境界を突破した。侵攻直後、目立った戦闘はなかったが、口火を切ったのは日本軍だ。12月9日深夜、第228連隊が新界南西部の城門陣地に奇襲攻撃を仕掛け、翌10日未明に陥落させた。たった数時間だった。 日本軍はこの城門陣地を、英

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          戦争と平和 日本と香港~旧日本軍の足跡をたどる~城門陣地跡編② 

          |英軍防衛線の戦略的核心として  1941年(昭和16年)12月8日のアジア太平洋戦争開戦を受け、香港に侵攻した旧日本軍が最初に陥落させた城門陣地跡へは、新界地区・荃湾駅に近い兆和街からミニバスを利用するのが便利だ。終点の城門貯水池でミニバスを降り、アスファルト道を15分ほど歩くと、前方に小高い山が見え始める。そこが、城門陣地があった場所だ。 左手遠方に城門貯水池の天端道路と、第38師団歩兵第228連隊(連隊長・土井定七大佐)が夜襲の前、1941年12月9日昼に待機してい

          戦争と平和 日本と香港~旧日本軍の足跡をたどる~城門陣地跡編②