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日本人の正しい自己否定と感傷の言語化

昔はよかった

過去を思い出しては思うこともあるかと思います
それは歳を重ねれば重ねるほどそういう考えに行きつくものでして懐古を良いと思い感傷に浸るという時間や良かったを言葉にして何か一服するような安堵感に至るという行為でもあります。
また、昔の日本の悪しき風習などのように日本人はここが悪いなどと自己の劣等性を過度に言ったり、自分たちの文化性というものやそこに至る経緯、または男女の不平等さや政治家の汚職、学歴市場主義における労働流動性の欠如や人間形成への影響など様々なものがあります。
まぁ、『僕』もこのnoteではさんざん日本人、日本という国の在り方や文化形成の在り方に批評的に書いてきましたがそれは正しい自己否定をと考えてのことであります。

過去でいえば日本の在り方といいますか、特徴的なものは何ひとつ変わってはいないもので戦前、戦後から大きく変化はありません。
日本人のというものは新しい着物を外圧で与えられれば嬉々として、今までの伝統と呼ばれる着物を脱ぎ捨て自分たちには不恰好な着物に袖を通してしまうような国民性であります。
それは日本人というのは模倣が上手いといいますか、影響されやすいといいますか
そこでうまく自国のものに仕立て直すという作業をすればよかったのですが明治、または戦後の日本では外の国にその影響を受けツギハギだらけのコラージュ的な価値観を抱いては成長してきました。

このように昔の日本の悪いところはというと批評的に申していけば、止まらず出てくるものでそれは現代の政治やテレビの内容からも明らかでありSNSのタイムラインを見ていてもわかるものです。
では、昔はよかった
という、よかったというものが語られるときがありますがこの具体的に何がよかったのか
そういうものに触れられて語られる機会というのはあまりにも少ないのではないかと考えているのです。
最近ではレトロブームのようなもので日本の良さ、昔のものが逆に新しく感じるというブーム
抒情的な文法でこれらが取り扱われるわけではなく、あくまでもマーケティング、資本経済の牽引材料としてものとしてフォーカスをされたり語られることがあっても、この「昔はよかった」が言語化されて話されるということはあまり目にしたことがありません。

時代で作られた、作られてきたものに生きてきた人というのはこれらを批評的に言われたとしても、そしてその価値観がいまの時代には合わないと理解はしつつもなかなか変えることができないものである。というのは押さえておいたほうがいいのかもしれません。
明治時代から作られた教育の文化がいまの時代では遅れているし、その精神性すら"セクハラ、パワハラ"と呼ばれて教育とは言えないものになっているものもあるくらいですから

正しい自己否定と感傷の言語化における価値観の継続と文化への昇華というのは現代において必要なものではないのでしょうか

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