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日本人の快い距離感とは

日本人というのは快い距離感というものを持ち合わせていない、いえ、持ち合わすことができない人間と言ってもいいかもしれません。

または周りの日本の社会という環境がそうさせているのかもしれません。
日本に社会という概念があればですが、日本というものは世間というものはありますが社会というものがないと考えを示したのは柳田國男だったかと思いますが、社会というものを肯定できるものではありません。

快い距離感というものは人間として自立し、他者に対して交互に貢献をすることができる存在であると考えているのですが、これが日本人となると難しい物なのです。

日本では親切というものやお節介というものでの関係性を他人に求めてくるのです。

これが悪いとはいいませんが、常に他人を気にするその粘着性は問題であると言っているのです。
日本人というのは常に他人の生活に関心が集中しているのです。
それは昨今の日本でのSNSの使われ方を見ていても容易に想像ができ、何を言いたいかは理解できるかと思えます。

この粘着性というのは「親切」という言葉などに置き換えられているのです

まるで他人の都合は考えない、これに尽きるのです
日本人は寒いからとひよこにお湯を飲ませて殺してしまうなんていうブラックジョークがあるくらいです

では、日本人は快い距離を持ち合わせる事ができないのかといいますと、そうでもありません。

日本人の中にたまにいる「快い距離感」というものを持ち合わせている人は孤独者として見ることがあります。
孤独者は親切を与えて求めないのです、そういう親切があり、そこに粘着性というものはありません。

では、今の日本には無関心な人間が多いから快い距離感を保つことができる孤独者が多いのではないかという人もいますが、そんなことはありません。
いま、そこにいるのは孤立したさまよう人間であって孤独者ではないのです

このさまよえる日本人というのは無目的な放浪を当然の状態の人間のことをいいます。
無目的に生きていけないのかということではありませんが、スマホゲームに興じて動画を見て、時間を潰していき、そのつまらない何かをSNSで満たす

そんな放浪を続けていき孤立した人間となり、誰にも見つからず孤独死した人間として引き上げられていく

これが豊かさというとこれまた奇妙なものです

また、快い距離感というのは人の個人差があるじゃないかと言われる方もいるかもしれませんがそれを許容するための心構えが必要でこれは片方だけがあってもダメなのです。

しかし、先ほどからもうしています、「粘着性」がその許容を不寛容へと変換しているのです。
これに気づかない人たちがどれだけ多いでしょうか

そういうものに気付き、何がゆえの快い距離感かということを考えてもいいのかもしれません。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             

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