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一度、触れて忘れた状態が教養である

一度、触れて忘れた状態が教養である

知識というものは忘れるから勉強をしても意味がないじゃないか
本を読んで何か知識を得ることに何の意味があるのか
無駄なのではないか、それだったら本は動画を見るよりもお金もかかるし、時間もかかる。
それなら、やらないほうがいいし、もっといい方法が今だからこそあるんじゃないですか?(このいい方法とういうのは「動画」という今だからこそという結果で帰結するのですが……)
たしかに学校の授業をはじめ勉強したからといってすべてを覚えているわけではないですが、おぼろげにその輪郭は覚えているわけです。
知識の習得というものを強制されるということは、例えるなら学校の修学旅行のようなものですからそれはつまらないものです。
しかし、一度学んでおくことというのはあとになり、ふとしたきっかけで思い起こすことで役に立っていたり、自分が何かを学ぶ時の礎と気づかないうちになっていたりするものです。
畢竟、自分で何かを知ろうとするときの方法の考察やとっかかりとなり自発的に勉強、知識を得ようとする行動を起こすのです。
これはさきほど知識の習得の強制を修学旅行と旅に例えましたが、この自発的なものを同様に例えるならばバックパッカーのようなものであると言えるでしょう。

こうして得てきた知識はバラバラで持っていても仕方がないため体系化をしてはじめて自分のものになるのです。
それがアウトプットという作業用ではないかと考えている次第です。

文章の覚書

1. 一度触れた知識を忘れても良いのか
教養として知識に触れることの意義は理解できます。しかし、せっかく学んだことを忘れてしまっては、本当の意味で自分のものにはならないのではないでしょうか。大切なのは、繰り返し思い出したり応用したりすることで、知識を定着させ活用できるようにすることだと思います。単に一度触れるだけでは不十分かもしれません。

2. 知識の体系化の重要性
仰るとおり、バラバラの知識では応用が効きづらいですね。知識同士の関連性を理解し、全体像の中に位置づけることが大切です。ある分野の基礎的な知識フレームワークを持っていれば、新しく得た知識をそこに結び付けて理解を深められます。各分野の知識体系を俯瞰的に把握するメタ認知力を養うことが、教養を高める上で有効だと考えます。

3. アウトプットの意義
知識をインプットするだけでなく、アウトプットして他者と共有したり議論したりすることが、理解を深め知見を広げることにつながりますね。知識を使って何かを生み出す、課題解決に活かす、といった能動的な学習プロセスを経ることで、知識が真に自分のものになっていくのだと思います。

知識と教養についての考察

知識と教養は、人間の成長と発展に欠かせない要素です。しかし、両者の関係性や習得の方法について、深く考えてみる必要があるでしょう。

知識とは、個別の事実や情報を指します。一方、教養とは、知識を基盤としつつ、それを自分なりに咀嚼し、総合的な理解へと昇華させたものと言え、単なる知識の集積だけでは、自分の中にあってもあまり役には立たないのです。
それは理解という作業がなされていないと言ってもいいでしょう。

知識の扱いの所作として、知識を一度触れただけで忘れてしまっては、本当の意味で自分のものにはなりません。教養を身につけるためには、知識を繰り返し思い出し、応用する過程が重要です。知識を定着させ、様々な場面で活用できるようになって初めて、教養としての価値を持つのです。
そして、忘れることもあるでしょう。
しかし、のちのちこの通過儀礼をすることによって忘れたとしても何かのきっかけで自分の考えをこれらを材料にして言える。これが教養と言えるのではないでしょうか。

知識を体系化し、相互の関連性を理解することが大切です。ある分野の基礎的な知識フレームワークを持っていれば、新しく得た知識をそこに位置づけ、理解を深められます。各分野の知識体系を俯瞰的に把握する能力を養うことが、教養を高める上で有効だと考えます。
この知識の体系化というものをする方法としては次に述べてみましょう。

知識はインプットするだけでなく、アウトプットすることが重要であり、これが知識の体系化の方法であります。
知識をインプットする、そして、アウトプットする
これは自転車の両輪のように片方だけでは成り立たないものなのです。

知識を使って何かを生み出したり、課題解決に活かしたりする能動的な学習プロセスを経ることで、知識が真に自分のものになっていきます。他者と知識を共有し、議論を重ねることも、理解を深め、視野を広げることにつながるでしょう。

教養を身につける上では、知識を現実の問題に活用する力を養うことも欠かせません。知識を単に蓄積するだけでなく、それを実社会の文脈に結びつけ、問題解決に役立てられるようになることが求められます。そのためには、知識を応用する訓練を積み、批判的思考力を磨くことが大切です。
これからはとくにAIという他人任せなものが出てきます。
要は利便性は高く、そして情報や生産されるものなど世の中のあらゆるものが加速度的な処理をされるようになっていきます。
そんな中で自分という人間の観測点を固定するという意味でも必要な能力ではないかと考えています。

さらに、生涯学び続ける姿勢も、教養を深める上で重要な要素だと言えます。知識は常に更新され、新しい発見がなされています。固定的な知識にとらわれることなく、常に新しい知見を吸収し、自分の理解を更新していく姿勢が求められます。そうすることで、教養は生涯にわたって深化し続けるのです。
それは地層のように、ミルフィーユのように……
それを積み重ねていくのです。
次世代の巨人の肩を作るためにも

知識と教養の関係を考える上では、「知る」ことと「考える」ことのバランスも重要でしょう。知識を得ることは重要ですが、それだけでは不十分です。知識を基に自分なりに考え、疑問を持ち、理解を深めていくことが教養につながります。知識を鵜呑みにするのではなく、批判的に吟味する姿勢を持つことが大切なのです。

また、教養は個人の内面的な成長とも深く関わっています。知識を通して世界を広く深く理解することは、自己の在り方を問い直し、人生の意味を考える契機にもなります。教養は、単なる知的好奇心の充足ではなく、人格的な成長や価値観の醸成にも寄与するのです。

教養を身につけるためには、幅広い分野の知識に触れることが重要です。特定の分野に偏ることなく、多様な領域の知見を吸収することで、柔軟な思考力と広い視野を養うことができます。文学、歴史、科学、芸術など、様々な分野の知識を積極的に学ぶ姿勢が求められるでしょう。

その際、古典と呼ばれる優れた書物に触れることも有効です。古典は、長い時間の中で評価され、多くの人々に影響を与えてきた知的遺産です。古典に親しむことで、人類の英知に触れ、普遍的な洞察を得ることができます。同時に、現代の知見にも目を向け、古典と現代を架橋する視点を持つことも大切でしょう。

知識と教養は、個人の人生を豊かにするだけでなく、社会全体の発展にも寄与します。教養ある人々が集まることで、創造的な議論が生まれ、新たな価値が創造されていきます。社会の様々な課題に対しても、教養に基づく広い視野と総合的な判断力が求められます。教養は、個人の成長を超えて、社会の成熟にも欠かせない要素なのです。

知識と教養の習得は、一朝一夕には成し遂げられません。長い時間をかけて、地道に知識を蓄積し、思考を深めていく必要があります。しかし、その過程で得られる知的な喜びや、人間としての成長は、何物にも代えがたい価値を持っています。
時間というものだけはやはりコントロールできません。

これからの時代は、知識や情報があふれる一方で、それを取捨選択し、活用する力が求められます。教養を身につけることは、そうした時代を生き抜く上で、大きな意味を持つはずです。一人ひとりが知識と教養を深め、それを社会に還元していくことが、より良い未来を築く原動力になるのではないでしょうか。

知識と教養の意義を改めて問い直し、その習得と活用の在り方を考えていくこと。それが、これからの時代を生きる私たちに求められている課題だと言えるでしょう。


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