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「お節介」と「自己陶酔した正義感」の社会心理学的考察



私たちは日常でちょっとしたおじさんの小さな親切という「お節介」と自粛警察や現行のルールというものを担保にしてそれから外れる者にはどのような仕打ちをしてもいいというような「自己陶酔した正義感」という行動パターンに遭遇することがあります。

というのも、先日、とある銭湯へと行ったときにそのような境界「お節介」に出会ったのです。
その銭湯というのはサウナ付きの銭湯で、サウナを使用するには別途お金を支払って青いバンドをつけていなければいけません。
『僕』はそのバンドをつけていたのですが、もう1人の友人はバンドをつけていませんでした。
そして、サウナに入ろうとしたときです。

後ろから「サウナはお金かかるよ」と声がしたのです。
『僕』は青いバンドをつけていたのでOK
しかし、連れの友達は足止めをくらうのですが、もちろんつけていなかっただけでお金は支払っていますからということで難なくサウナを利用しました。
そのあと、その注意をしていたおじさんに話を聞くと、ここの常連でいつもお風呂には2時間くらい入っている。
そして、たまに間違ってサウナに入る『新顔』に注意喚起をしているとのことでした。
その新顔が『僕』たちのことだったのです。

『僕』たちはお店の人に頼られているのですね、それは仕事で頼まれたりとかしているのですか?と訊くと答えは「いや、勝手にやってるだけだよ」といいました。

そう、この「お節介」ははたして小さい親切のお節介なのかそれとも自己陶酔の正義感になるのかそういうものを考えるキッカケになったのです。

では、まずは お節介とはなんでしょうか
「お節介」は、他人のことに親切心で利他的な気持ちで過度に関わろうとする行動です。
集団主義の文化では、家族や地域社会が重視され、相互依存が常識とされています。このような文化背景のもとでは、他人の問題に関与し、解決を手助けしようとする傾向が強くなるのです。しかし、過度な関与は時に相手の自由やプライバシーを侵害する可能性があります。
小さな親切、大きなお世話とはよくいうもので……

一方で、「自己陶酔した正義感」は、自分の信じる正義を利己的な気持ちで、他人に押し付ける行動です。
この自己陶酔した正義感が表れやすい文化としては個人主義の文化で、個々人の自由や自己実現が尊重されます。その結果、自分の価値観や信念を絶対視し、他者にもそれを求める傾向が生まれるのです。このような行動は、時に他人の意見や価値観を無視する結果につながりかねません。

文化心理学の視点
文化心理学は、文化が個人の心理や行動に及ぼす影響を研究する分野です。この観点から見ると、お節介と自己陶酔した正義感は、それぞれ集団主義と個人主義の文化的特性が反映されたものと解釈できます。

集団主義的文化では、コミュニティの調和と相互助け合いが重視され、これがお節介という行動に結びつきます。反対に、個人主義的文化では、自己の信念や価値観を他者にも適用しようとする自己陶酔した正義感が現れやすいのです。
これを宗教的背景の影響として考えるとわかりやすいでしょう。
これらの行動傾向には、宗教的背景も影響を及ぼします。
例えば、儒教や仏教の影響を受けた集団主義的文化では、他者への思いやりや共感が重要視されます。これはお節介としての行動に繋がりやすいです。一方で、プロテスタンティズムなどのキリスト教の流派では、個人の信仰や道徳観が強調されることがあり、これが個人主義的な正義感に影響を与えることがあります。

グローバリゼーションの影響として顕在化した問題としての捉え方
グローバリゼーションの進展により、これらの文化的特性はより複雑になっています。
文化間の交流は、お節介や自己陶酔した正義感といった行動に新たな側面をもたらしています。個人主義的な価値観が集団主義的文化に浸透することもあり、その逆もまた然りです。

日本でのその在り方というものはとても特殊であるといってもいいでしょう。
日本は儒教の影響を強く受けていて集団行動主義としての生活様式がありながら西洋の価値観をよしとして取り入れて、個人主義へという変換を求め成してきました。
しかし、西洋と異なる点としては背景となる宗教的規範を持ち合わせておらず不完全な個人主義によって社会を形成するようになりました。
このときにその不安を解消するものの宗教的な規範や家族や小さい共同体はその個人主義という利己主義によって解体されてしまっているため、その先はルールという閉ざされた担保を元にしての他人へ向きます。
これが相互監視社会として悪い方へと向くのです。
そして、生まれてくるのが自己陶酔の正義感というものになっているのではないでしょうか。しかし、その正義感というものも歪んでいるのです。
正義感というのは基本は利己的なものが先立ってのものとなるのです。
その思うところはこのルールを俺は守っているんだから、お前も守れよ。ルールを破って俺だけ損をしたくない。そんな気持ちが先立っているのです
何とも浅ましいのでしょうか……

これは昔からありました
関東大震災で鮮人が井戸に毒を流したといって、だったら朝鮮人なら殺してもいいというもので何人が犠牲になったでしょうか
笑いと忘却の書にも書かれています。
また、最近では新型コロナの流行時にはマスク警察のようなものも出てきました。
お上が決めたルールなのだから守れ(実際にはなんの根拠のないものまで含まれます)このなんの根拠がないところまで、何かに閉ざされて行動に移し、排除行為を行う。
これこそ、鮮人虐殺となにが違うのでしょうか
民主主義という中ですべてを「ええじゃないか」と忘れ、それに慣れ、感覚が麻痺していく。
それにすら気づかずに自己の正義感に陶酔する人間が出てくるのです。


お節介と自己陶酔した正義感は、集団主義と個人主義の文化的枠組みを通して理解することができます。
しかし、これらの行動は個々人の性格や経験によっても影響を受けるため、一概に文化だけで説明することはできません。文化や宗教は一つの要因であり、個人の多様性も重要な役割を果たしていることを忘れてはなりません。

このように、お節介や自己陶酔した正義感の背景には、文化や宗教、個人の経験など、多くの要因が複雑に絡み合っています。これらを理解することは、異なる文化背景を持つ人々とのコミュニケーションを豊かにし、より調和のとれた社会を築く一助となるでしょう。

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