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本を読まないということの弊害

本を読むことと文を書くということはまったく異なる行為であるというわけではありません。

少なくとも『僕』にとっては……

いい文章を書こうとするときはいい文章に触れる必要があり、その栄養素である本を読まなければ何と言いますか、スイッチが入らないのです。
また、文を書いているとき、とくに散文のようなものを書いていますと、あれ?自分の文が少しのらないなぁ、稚拙な、ありきたりな表現しか出てこないなぁ……という反省点を感じることが多くなってくると気づくのです。
少し本を読まないとダメかなと

読書とは自分の文を書くときの、または思考をするときの調律をする道具でもあるのです。

思考という類いのものは頭の中で行われるものですが、これにも「言葉」が必要なわけであります。
知らない言葉というものは言語化できませんし、それができないということは認知の機会を喪失しているわけです。
認知できないということはそれについて思考もできませんし、行動もできません。
つまりは人生における選択肢の幅を減らしているということです。

本を読みますと読み進めていくうえで新しい言葉や表現に出会うことがあります。
これが新しい刺激となって既存の考えていた問題へとあてはめてみるとしっくりくるものがあり、その思考はさらに拡張されていくのです。

もちろんこの化学反応が起きるためには”良書”というものに触れることが必須条件でありますが、この本がそうであるという確証をもって本を選ぶことは難しいものです。

それゆえ大量の本を読む必要があるのです。
なんでもそうですが、量が質を担保していくのです。
この場合はどういうものがその本人に刺さるのかは個人差が生じるため、その一個人が粘り強く向き合い続けるしかないのです。

言ってしまえば、ソシャゲのガチャと同じかもしれませんね。
しかし、違いは言わずもがなでその結果は自分の人生を豊かにしてくれるものであると言えるのです。
(まぁ、ソシャゲのガチャでの幸福もあるだろうと言われてしまえばその通りですとしか言えませんが……)

何はともあれ読書は言葉を与えてくれて、ときには感情、抒情的にさせてくれて、思考をするさいの頭の中と心を耕してくれるそういうものなのです。
そこに本を読み知識を入れる。
それを整理して思考の産物を書き物として残す。
そういうものなのです。

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