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名前のない夏

強い日差しを遮るレースのカーテンに夏だなと感じる。
0歳児と暮らしているとどうしても家にこもりがちなので、今年は今年の夏を織り上げていく感覚に鈍い。思い出の中の夏を引き出して穴だらけでも新しい形で今年の夏はできあがっていったように思う。
子の機嫌がよいか悪いかに左右される日々に季節感は少ない。
今住んでいるところは向かいの家と視線が合ってしまう時がある。相手は高いところから、こっちは低いところから。気を使わせてしまったのか、それとも暑いからなのか、向かいの家はカーテンを閉めるようになった。時々大きなテレビ画面からゲームの画面が見えることに「今日も自分以外の誰かが生きている」と思ったりしていた。こちらも申し訳ないし、レースのカーテンをしめているほうが省エネになるらしいのでレースのカーテンをしめるようになった。この明るさを遮るやわらかいほの暗さが、小さい頃からとても好きだった。それは暑すぎる風や強すぎる光から守られているようで、部屋全体に母の気配を感じるからだったように思う。けれど、一人でいると人の気配や空の色が見えないのがなんとなく不安にもなった。
そういえば実家はあまり人の視線が気にならない作りになっていたので、いつもカーテンは開いていた。上記のようにレースをしめるのは午後のあまりにも暑い時や、私や兄妹がうとうとしている時だ。
秋や冬が苦手な私は、強すぎる日の光にあてられることで季節の変わりゆく気配を、不安をしのいでいた。
そんなごく感覚的なものを思い出しながら、今年の夏がすぎていく。そういえばお盆とか夏休みとかボーナスとかビアガーデンとか花火とか、無縁だった。だから思い出すこともなかった。
けれどさみしくはなかった。人と一緒に過ごすことも嫌いではなかったけど、歳を重ねれば重ねるほど世界が狭くなるけれど、手狭な世界には好きなものがあふれている。保守的とか孤立とか、色々と声はあるけれど、孤立しないようにして孤立するなんてことはもう十分だし、どうせ望まずとも世界を広げなきゃいけないときはあるのだから、手狭で保守的で一人で過ごせることは武器であり盾である。

子と過ごす、みえざるものを手繰りよせるような名前のない夏が、いつかまたこの夏が私の中の夏のひとつになるだろう。
季節と時間から離れた存在と共に、私は私の思い出を手繰り、子と過ごしたこともまた私の思い出になっていく。この夏を子と二人で過ごしても、思い出すのは私だけだ。こうしたら笑った、初めてこれを食べた、焦った、喜んだ、変な寝相、可愛い寝顔、繰り返されはしない子と暮らす夏を。二人でひっそりと暑さをしのいだことを。

私はいつか思い出すのだろう。君がやっと(変な時間だけど)寝付いたのを起こさないように、コップを置く音にも咳払いにも気をつけながらコーヒーを飲んで、こうしてパソコンを開いていたことを。
君はいつか思い出せるようになるかな。洗い物の音や換気扇の音、夕飯のにおいやお風呂の湯気のことを。
君がいつかこの部屋で過ごした夏を思い出せるなら、なんともいえない気持ちを思い出してほしい。だから私は平坦なものだけを知る大人かのように、日々を君と過ごしたい。


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