マジョリティによって美化され、歪められ深まっていく差別

スポーツ用品メーカーのナイキがある広告映像を作った。

https://youtu.be/G02u6sN_sRc

私は正直これを見た時に、嫌悪感とモヤモヤ感があった。そして何よりも、これでは在日外国人差別をして故郷に帰れと宣う差別主義者と、CM制作者は大した変わりがないと感じた。

差別ってものはそう簡単に表現できるものではないし、私自身がマジョリティ想定するマイノリティというものに嫌悪感を持っているからである。

マイノリティはマイノリティの中で一括りにはできない。

まず、私がトランスジェンダー当事者で世間的にはトランス女性と表現されうる存在あると話しておこうと思う。ただ正直私自身はトランスジェンダーという言葉自体が嫌いだし、マイノリティという存在の中でもトランスという存在は大きく異質なものではあると感じている。

まず昨今のトランスジェンダーの問題について話させていただきたいと思う。

よくトランス女性という言葉を肯定的にも否定的にも目にする人も最近多いと思いますが、そもそもトランスジェンダーという言葉を細分化する潮流があることはご存知だろうか、トランスジェンダー(TG)、トランスセクシャル(TS)、トランスヴェスタイト(TV)の大きく分けて三つがよく言われるものだ。
トランスジェンダーは社会的な性別に違和感がありその移行を望む人、トランスセクシャルは身体的な性別に違和感があり医療的なケアによってそれを緩和することを望む人、トランスヴェスタイトは異性装をすることを好む人、そのような形で分類されている。
この分類で考えるならば、私自身は社会的な性別の移行はそこまで強く望んでいなかったし、過度に異性装にこだわりたいという気持ちも大きくはなかった、ただ、身体的な違和感は強いものもあり、実際に今年の2月に性別適合手術を受けている。

どのような移行を望むのかということは本当に人それぞれであるし、身体的な治療は望まずに社会的な移行を望む人もいるし、正直私自身の心中には、未だに女性蔑視的な人も多い日本で社会性まで移行したいという気持ちは薄かった。
また違和感の度合いというものも人によってはさまざまであり、トランスジェンダーと呼ばれる中でも、旧態的な過度に性別規範で分離して扱うことが苦痛である人から、様々な面を私にとっては旧態的と思えるくらいに性別規範的に移行したい人もいる。本当に人によって差異は大きいのだ。

このように、同じトランスジェンダーとして扱われる中でも、細分化すれは扱い方としてまったく異なる扱い方が必要なケースも出てくるのである。しかしながら、現在のトランスジェンダリズムの風潮の中で、外科的な治療によって生殖能力を弱められたり、外科的に取り除くことは、トランスパーソンに対する人権侵害であるという論調も大きい。
しかしながら、その外科的な治療によって私が救われたのもまぎれもない事実であるのだ。また同じように半永久的に不妊になることを承知で、いや」望んでまで治療を望む人たちは本当にたくさんいるのだ。その人たちがそういう風潮により、人権侵害に当たってしまうから医療を施せないというほうが、よほどの人権侵害に当たってしまうのではないのだろうかとも思う。

前置きが長くなったが、このように、マイノリティのひとつであるトランスジェンダーでも、一括りに扱うことは困難であり、ひとつの論調に傾倒してしまうことは私は危険なことであると訴えたいと思う。

何故このCMを私は差別主義者と変わらないと感じたか。

肌の色が違ったり、国籍や民族が違うことによって起こる差別に関して、日本は差別大国であるという意見と、日本には差別はあまり存在しないという意見がある、しかしながら私自身は、この日本という国は残念ながら差別が蔓延っている国であると感じる、このCMを制作した人も含めて。

私は現横浜F・マリノスに所属して、現在レンタル移籍でサガン鳥栖で活躍する朴一圭選手の大ファンだ、彼が藤枝MYFCというクラブに所属している時にそのプレーを生で観戦して、虜になった。藤枝の所属するJ3という上から3番目のカテゴリではなく、もっと強いクラブで活躍できると思っていたので、藤枝からFC琉球に移籍した時には、同じJ3で収まるようなそんな選手ではないという気持ちもあり、正直うまく応援したいという気持ちが芽生えなかったこともある。もちろん去年マリノスに移籍して、優勝の貢献者として活躍したことは本当にうれしかった。

私にとってそんな朴選手であるが、そんな朴選手には、仲間想いな面と、ファン想いな面がすごくあり、コロナ禍でJリーグが試合できない際に、インスタグラムでライブ配信等をして、私を含めたファンを楽しいませてくれた。そんな配信に朴選手の国籍が韓国であるから、そのことを中傷するような悲しいコメントもそれなりの数見受けられた。そしてこれが現代日本の悲しい差別の一部であることも感じで私は悲しかった。

朴選手は埼玉県育ちの在日韓国人で、恐らく母語は私と同じ日本語であるし、様々な感覚が日本的な部分もたくさんあると私は思っている。しかしながら、朴選手は自分が韓国人であることにも、同じ韓国人たちにも誇りを持っている、私はそんな朴選手の一面も本当に好きな部分である。

それ故に私は思うのだ、在日韓国朝鮮人の方には、日本で生活するうえで本名ではない通称名を使って生活する方もたくさんいる、また在日の方には煩雑な手続きを乗り越えて国籍を日本に変える人たちもたくさんいる。その中には韓国姓のまま日本に国籍を変える人もいるし、私自身は通称名に日本で生活する上のアイデンティティを持つ方もいると思っているのだ。
ただ何にせよ、私自身は国籍も本名も日本人と遜色ないようになった人たちも含めて、ルーツである国に誇りを持つことは、どんな中傷を受けようとも誰にも侵害できないことであると私は思う。

そんな私が何故あのCMの表現は在日外国人を排除する差別主義者と変わらないと感じるかというと、あまりにも最後の表現が中途半端で、チームやスポーツに対してもリスペクトを感じないからである。

在日韓国人である彼女のユニフォームには確かに日本での通称名が書かれていた、けれども彼女のユニフォームにはチームの一員である背番号も書かれている。そんなユニフォームに、完璧に名前を上書きするでもなく、背番号すら上書きしてしまうような本名であるKIMの文字、なんとも中途半端だしと思った。
私はあまり中傷やヘイトを許したくはないが、在日外国人を快く思わない人々から、これはヘイトだと思われても仕方ない表現だと思ったし、背番号すら塗りつぶす表現、これは事実に有ったことだとしても、CMとして表現することにチームやスポーツへの敬意は全く感じられなかったし、もっと本名を誇りに思える表現のやり方があったのではないかと思う。

私は、このCMの差別や分断を明らかに助長しかねない表現に対して、このCM制作陣は、さらなるヘイトを在日外国人が受けて、様々な人たちの差別や分断を深めさせて、更に生きづらい世の中にしていきたいのか。はたまた差別主義者と同じように、70年前の戦禍で分断された、住んだことすらない故国に追い出すようなことを望んでいる人たちと、なんら変わりないのではとさえ思う。それが私は嫌だからこそ、たとえ啓発する内容だとしても、これ以上の差別や分断は望まないのだ。

私はステータスとしてのマイノリティ理解者はいらない。

私は、現代社会の中で多様性のある社会を認めることを一種のステータスとする風潮があることを感じる。しかしながら、その中に可哀想な人たちだから認めてあげなければならないって目線を感じることも多々ある。
そのような理解の示し方は全く私は快いとは思はない。マイノリティに理解を示すということで自らの価値を上げるという行為に関しては、私はその行為すら差別というものを根底から消し去ることを否定していると感じる。

私自身はトランス女性と表現されうる人間であるが、戸籍を女性へと変更して、実際に私の実情を話さずに女性として働いている中でも、私自身の一般的な女性との差異に気づいて、配慮していただいていると感じることはある。これに関しては社会人として生きる中で、人間関係を円滑にするためのものも感じるために、私自身も仕方ないし、私は望むことではないが好ましいことでもあると感じている。

しかしながら、現代の風潮の中に、トランス女性は女性であるという、どんな見た目であっても、トランス女性は女性と認めるべきであるというものがある。これに関しては全く私は否定したいと思う。男性としてしか見た目的に判断しがたい人に対して、無条件に女性としてすべて扱うことが、社会で生きるほかの女性にも本人に対しても、私は有益とは思えないからだ。
また、トランス女性と扱われる人たちの中には、女性としての認識を持ちながらも、様々な理由で身体的な治療の有無関係なく、女性として扱われることを望まない人たちも存在する。その人たちにとっては、トランス女性は女性という価値観を無条件に向けることは、喜ばしいことではないのではないかと思う。

このようにトランスパーソンの話題だけで考えても、LGBTというブームに乗っかって、LGBTの内にある多様性に目を向けずに、ステータスとして理解を示して、その間違った理解によってマイノリティの一部や多くが生きづらく、更には間違ったレッテルを張られることにより、更なる差別的な苦しみを与えてしまってはいけないだろうと私は思う。
これは、LGBTのようなセクシャルマイノリティだけではない、人種や国籍においても同じことだろうと思う。マイノリティの理解者であるということは、その理解によって差別心を持つ人への差別感情も、マイノリティの中での分断も、大きくしてはならないと私は思うのだ。

マイノリティはマジョリティ達の価値を上げるために存在するわけじゃない。

私は多くの面でマジョリティであるのか、それともマイノリティとしての何かを持ちながら生きているかわからない、たくさんの人と共に生きているし生かされている。その上で、私は一人の人間として胸を張って誇り高くいきたいと思う。同じようにほかのだれかを助けることも起こりながら。
世の中のマイノリティも、確かに自分は可哀想だから助けてくれと主張する人もいる。しかしながら一人の人間として、様々な助けを受けながらも誇り高く生きていたいと思う人もたくさんいると思う。

しかしながらマイノリティとされる人々が誇り高く生きることを好まない人々も、本当にたくさんいることも事実だ。そして私も理解者である人々も、その方々が考える理解や助けが、そのすべてのマイノリティを救うことはできないことも仕方ないことだと思う。
ならば少なくとも理解者であるということを誇りとするためには、好まない人々や差別する人々を、更に深い蔑みや差別に遭わせないことも大事ではないだろうか。マイノリティだって同じ人間なのだ。あなたたちの自尊心や社会的価値を上げるための道具ではない。

だからこそ私は、マジョリティによって美化され、歪められて深められる差別や分断を許したくない。
だからこそ私は、このナイキによる表現が、さらなる差別を生むことであると抗議したい。



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