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社共共闘現在地

 日本で社会主義が上り調子だったのは、ある意味GHQが農地開放を成し遂げるまでで、小作農から自営農家となった農民層はどこの国も同じような事が起こりました。農民層としてはそれ以上の革命は望まず、むしろ国家の保証を受けられる時の政権や保守派への支持が厚くなりました。この点は労働運動も似たようなもので資本主義経済が発展するとむしろ自身の所得増加のため経済成長路線を支持するようになり、その民意を得た政権はネオリベラルと化し様々な労働規制の緩和を行い、多くの「取り残された人達」を生み出しますが、それはもうnoteでも何度も書いてある事です。 
 日本社会党が健在の頃、日本共産党も自身が本流として一定の勢力を持っており何度も革新統一、社共共闘で選挙戦を闘いましたが結果として頭打ちになれば社会党執行部は中道系や元保守との連携に積極的になり支持者や党員は面倒見が良かった社会主義協会シンパが多く常に路線対立の最前線でした。こうした社共共闘の取り組みは革新自治体など多くを生み出します。戦後すぐには革新系の統一。左翼連合政府ができてもおかしくない状況でした。

戦後の社共共闘

 1940年代、都市部より郡部と呼ばれた地域では社共共闘は成立しました。特に長野県は社会党左派の野溝勝などを輩出し、革新の牙城の一つでした。日本の社会主義勢力で民社党の歴史は割と旧民社党関係者が所蔵していますが、日本社会党はその点散逸したケースも多く、大原社研のオーラルヒストリー頼みです。日本共産党の場合は地方の党組織は一体どのような構造になっていたのか、そもそも共産党は資料に残しているのか分からない状況でかなり憶測を交えて語っていきますが、40年代に至って言えば西尾末広や水谷長三郎や社会党右派の大物も特にこれと言って共闘路線反対論はぶっていませんでした。そもそも初期の社会党は右派主導であり、右派が選挙を仕切っていたので社会党自体の勢力を拡大すれば自ずと右派の影響力も高まります。ただある意味派閥の集合体という日本社会党と純化の純化を繰り返してきた日本共産党ではこうした共闘の位置付けが違い、共産党は「社共共闘は日本共産党が汗を流したから」という宣伝に使われてしまうのも実情でしたが。
 こうした社共共闘路線には保守側も協議をしていました。後に自民党内穏健派三木武夫の側近で当時は国民協同党に長野県責任者だった井出一郎太などもこうした社共共闘改め長野県自由懇話会に参加していました。これは現代でも通じる話です。革新系の選挙には、選対本部長は自民党の大物を就けるべきです。これを上手くやるのが自民党で、彼らは陣営に社会党の元地方議員や民社党関係者をつけます。敵の手法を学ぶには敵陣営からヘッドハンディングする事です。これで連合と民主党の選挙互助会は何度も自民党に敗北を喫しています。純化は碌でもないです。個人の良心は強く持つべき。ただ選挙は勝ち方を選んでられない。
 戦後はよくも悪くも新時代の到来を予想させました。とにかく多かった社会党入党希望者も長野県では1400人ほどの党員を集め革新第1党に相応しい組織を持ちました。社会党は県出身者の社会主義有力者が県連を組織したのですが、共産党の場合は必ずしもそうではなく、当時の共産党は人材不足を極めていたため仕方がない面もありますが、地元運動は関係ない人々が県幹部に名前を連ねました。当時の共産党はほぼ壊滅状態からの再建でかなり苦労したと思います。とは言ってもだからと言って組織を独占するのはダメですが。ただ社共共に古い活動家が多かった長野県では共闘するのにさほど障害はありませんでした。ただ社会党は共産党のフラクション活動を警戒し県連も一線を画す立場でした。

40年代社共共闘の崩壊

 当時もいわゆる「市民連合」のような仲介組織はありましたが、やはり公職について揉めに揉めました。特に労働委員会の委嘱は社共譲らず、労働組合は直接行動で長野県知事である林虎雄に圧力をかけました。当時労働組合は日本共産党の影響力の方が大きく、ゼネストによる政権交代を本気で検討していた時代です。GHQ軍政下、革新統一候補、長野県知事としての職責、林虎雄はよく耐えぬいたと思います。とにかく当時の共産党は農民運動も基本的に選挙を通してではなく、直接行動主体で何を決めるにしたって流血沙汰が避けられませんでした。こうした事を見せつけられた社会党側は、ついに共産党とは決別を宣言。特に日本農民組合長野ではミチューリン農法が主軸であり、それを社会党陣営に引き戻すため共産党排撃を唱えます。ミチューリン農法は温度調整によって作物の収穫時期を変える、作物そのものを変形させる例えば小麦から大麦に変える事ができると訴えた画期的な農法でした。デメリットは画期的すぎて、そういう農法は農業の世界では与太話と扱われてしまう事です。現在の無農薬信仰と同じで農作業は人間の技術で行うものですが、コントロールするには相当の訓練が必要で、素人が思いつきで考えた手法は必ず失敗します。
 そんな思いつきをやっていたのが当時の日本共産党でした。社会党内では反共産党の動きが強まるにつれ、党内の親共産党の排撃も行いました。これはかなりリスクのある事です。排除すると言うことはその人の持っている支持者丸ごと排除し組織としてはかなり出血を強いられます。社会党は保守派との闘い、社会主義達成の闘い、社会党系知事林虎雄の支持、日本共産党の闘いを県連の方針に挙げますが当時の県連では共産党の闘いが1番主目的になり、保守派とはあくまで議会内闘争が主軸となりました。
 さてこうした社共の内ゲバは1949年選挙において社会党の壊滅的な大敗と日本共産党の大躍進を生み出します。当時軍国主義の時代も色濃く記憶に新しい事もあり歯切れ良く当時を批判する共産党には一定の説得力がありました。ただ共産党のヘッドハンディングはかなり仁義から外れたものであり、長野県農民組合指導者だった小原嘉などを入党。後に日本共産党から追放された伊藤律は「指導者をもぎ取る運動はどうなのか?」と疑問を呈しています。日本共産党のやり方は現代でも多少その手法が生き残っていますが、できていた組織を乗っとってしまうと言う本当に改めるべき悪癖があります。その手法+民主集中制ですので、一切の歯止めがありません。

現代の社共共闘に求めること

 日本共産党と言う政党は地方組織の考えは握り潰し、基本的に党本部の決定が地方支部の考えになります。40年代社共共闘もかつての人脈を活用したものですが、党本部の日本社会党攻撃に方針を転換した後、長野の共産党もフラクションや直接行動をとって社会党を揺さぶります。当時の日本共産党は社会党最左派よりも親ソ傾向が強く、社会党は「社会ファシズム」と言うレッテルを貼られたものです。集団農業についても前向きで、社会党と共産党では基本政策の隔たりは大きかったです。もし現在共闘を成立させるためには、旧社会党陣営だけではなく、日本共産党も大幅に改革してもらわないと、絶対に上手くいくとは思わないです。いまだに組織の惰性力もあるとは思いますが、長老党員が中央委員会に残留し、若手も中央の保守派と変わらないのなら日本共産党は今後有権者の審判を受けるでしょう。その道は消滅の道です。いっそのこと小綺麗にしないで、バーニーやコービン、メランション、ラフォンティーヌみたいに高齢左翼の教条主義っぷりを見せつける方が動画の再生回数だけは増えるでしょう。そういう実は共産主義なんか来るわけない、党員を騙して党費だけむさぶり尽くすだけの指導部なら潔く選挙で瓦解した方がいいです。
 反共をネタに擦り続ける、勢力もありますしあれはあれで論外なのですが最近の日本共産党の振る舞いは全く褒められたものではなくまともに批判に向き合ってこず、党内の序列だけが自分たちの地位の保証だと思い込んでいるうちは社共共闘なんか2度と起こらないでしょう。

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