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サロンでのお金の話やら、なんやら最近のこと。

この3ヶ月ほど、実はユーックリとただ自分の暮らしを中心にした時間の使い方で仕事をしていました。

開業してからの21年で一番、自分の暮らしにフォーカスした時期だったかもしれない。
自分が何時に寝たくて、起きたくて、何を食べたくて、何をしたくて、何をしたくないのか。今をどう変えたくて、これからをどう創りたいのか。みたい景色、体験してみたいこと、そして、どんな自分を生きたいと願っているのか。

そのことをゆっくり、ゆっくり感じることにした。
そして、それを実行して、経験に落とし込んでみるとこにした。

考えるのではなく、そう生きてみた。

ちょうど何かのバイオリズムにあたっていたのか、それ以外のことにあまり流れがない感じがしていて、実際そうだったので、ならば、「今まで通りにはいかないぞ。どうしよう。」と考えるより、時間というギフトがやってきたんだ。と捉えることにした。

そもそも、風の時代だし、これまで通りには誰も行かないわ。と思っていたし、どこまでの変化を私の魂はお望みであろうか、と興味を持っていたので、今、その時期か、と思って、どっしりと構えることにした。

誰にでも、今まで通りに現実が進まなくなるということを味わったことがあると思うのだけど、その時に、「どうしよう」「不安だ」となりがちだけれど、そういう時って後からその時間のことを思い返す時、どうせ大丈夫だったのだから、お金のことやこれからのことを不安に思って、自分を縮小させるより、開き直って、あれこれしておけばよかったなぁ、と後から思うことが多々ある。

私には、過去にそういう経験がある。結局、ただの変換期だっただけで、そのための一時停止だっただけなのに、自分の持っているものを減らしてはいけないような気持ちになって、先行きの不安から財布の紐を締めたり、行動に制限をかけてしまって、自己肯定感が下がったなと感じた時期があった。まぁ、それも一時的なものなんだけど。

あのアイドリングタイムを後から思うと、あれは、時間やその時持っているお金を自由に使えるボーナスタイムだったよなぁ、と。

あの時、あれだけ時間があれば、あの貯金を使って、あそこにも、そこにも行けて、これだって学べていたはずだ。自分が、自分に与えることに制限をかけなければ。

どんな時であれ、自分に何を与えるか。そこに妥協はしない方がいいと思う。自分が妥協した分だけ、満たされないから。いつもどこかに不足が生じる人生になってしまうから。

自分に与えるとき、経済的なことであれば、減ることを恐れないこと。って非常に大切だな、と思う。どうせ、お金は回ってるし、作れるのだから。

先日、サロンで「お金を使うのが怖い」と話されている方がいた。
でも、お話を聞いていると、旅行に行きたい気持ちは固まっていて、お金を使ってもいいし、問題はないとも思ってる。でも、使ってはいけない。と思えて、決断できない、と。

お話を伺っていると、ひと月に、こんなにもお金を使ってはいけないのではないか?という気持ちがあるんだなぁというのが見えてきた。

別に良くない?あるなら使っても。
減ったら、稼げばいいじゃん。
ひと月に使っていい額で自分を縛らなくてもいいじゃん。
何より、自分に与える経験をケチらなくていいと思うけど?

先延ばしにしているうちに、私たちは自由に動き回れる体力も回復力、頭の回転スピードも失っていくのだから。存分に楽しめる今、動いた方がいい。
体力的なこととは違う点でいうなら、魂の夢がこの世でたくさんの経験をすることなのだとしたら、体験のための投資をケチるのって本末転倒だと思うんですよね。

お金は作ればいい。稼げばいい。それは労働所得でもいいし、不労所得でもいい。自分に与えたい分だけ与えられる状況を作り出していくことは、物理的に豊かになるってことだけでなく、魂の経験値を上げるのにもとても重要だと思う。そのステージでしか味わえないものがあるから。

お金という道具に縛られる。ってのはよくあることだと思う。
でも、「今欲しいなら、今、体験してみてもいいじゃない。」

チャンスは、今しかないかもしれないのだから。
また別の機会っていつ来るん?それって本当にくる?来ないかもしれない可能性だって高いのに、人は結構、次があるって信じ込んでる。でも、次って案外なかったりする。
乗れる時に波には乗っておけ。私はそのように思う。

不確かな次の機会。エイヤーと勇気を出せばすぐに体験できる確かな今。
確かなことより未来の不確かなものを採用したくなるって、どういう楽観性なんだろうね。その楽観性、前倒しで使いたいものよね。

今、この体験をして、お金を使っても大丈夫。大丈夫じゃなかった時は、しっかり稼ご。旅行ってせいぜい、数万円から十数万円でしょ。贅沢しなければ。大体はバイトでもすれば、すぐに回収できるし、その旅での経験や価値が支払ったお値段以上であれば、それを回収しようとは思わないかもしれない。良い買い物をした。と大満足で終わる。また、その経験が呼び水となって、さらに、良き体験をして見たくなって、お金を稼ごうって思うようになるかもしれない。

私は多くの人の中に、「欲しがりません。勝つまでは精神」があると思ってるのだけど、DNAに刷り込まれているんじゃないかと思うその精神は、本当に邪魔だと思う。

欲しがらせないために、我慢させるために、欲しがらないことが自制心の表れや慎ましさとすり替えられて、諦めを植え付けられたのではないか?欲しがる資格がない、欲しがってもいい状況ではないと刷り込まれる。本当に、これって美徳?美しい?自由?

先日、「子供には、自分の要求が通るという体験が必要。だから、子供が親に、もうちょっとこれしたい。と言って困らせるような状況は、子供が主張できるとても良い親子関係なんですよ。」といった内容の言葉を見たのだけど、「どうせ言っても無理だし。無駄だし。」という諦めは、望むことすら忘れさせてしまうと思う。

「夢を叶えるための行動よりも、夢を見ること自体の方が難しい」そういう大人も多いだろうと思う。人は努力はできるもの、でも、その努力の先がないと、途方に暮れたような気持ちになる、満たされない。

だから、もし、自分が何かを望むことがあれば、自分がその要望に応えてみる。そういう望むトレーニング・叶えるトレーニングを私は実は、ずっと続けている。

みんなもどう?

余剰資金があるときに、お金を使うのは容易い。
でも、何かが停滞している時、変換期の時、普段の経済活動が止まってしまうような時、今持っているものをどのように使うことができるか。

それが幸運の呼び水となるのか、ただの消費で終わるのか、どう使うのか、という意識って大事だと思う。どうお金を使うかは、どうエネルギーを使うかと似ている。

私のこの数ヶ月は、自分への投資期間だった。
やってみたかったことをやってみて、やりたくないことをやめて。
そうやって見えてきたのは、細胞の1つ1つが粒立ってきたってこと。そして、それが整列して、なんとも居心地が良くなり始めているということ。

この期間、私は自由を与えるとともに、いくつかの継続する習慣を身につけるためのタスクも与えたのだけど、それをやっていると、どれもやっぱり、やるか、やらないか。だけであると気づく。やれば、心地が良く、その成果も得られる。習慣にしてしまえば、特に辛いこともない。大事なのは、習慣と自分の心の運び方。

やりたければ、やればいい。
嫌だったら、やったあと、元に戻せばいい。

日々、あれこれ試せる時間がある幸せを十分噛み締めたら、いよいよまた忙しくなりそうな気配なので、バイオリズムとはそういうことだよな、と感じている。

良いも悪いもない。
ただ、そういう時期があるだけ。
下半期は上り調子でいくよ。

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