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小説を通して美術館を好きになった話

美術館は、誰もに開かれている場所だ。

マナーさえ守れば、どのように動こうが、何を感じようが、自由。何も感じないのも、また自由。私はこの自由さが好きだ。

美術館は、思ったよりも身近にある。もちろん上野に行けば年中様々な展覧会が開かれているし、ショッピングスポットとして人が溢れる表参道にも、一本道を入れば美術館がある。東京駅を出た目の前にも。

しかし、休みの日にどこかに出かけよう...と考えた時に、選択肢に美術館が入ることは、あまりない人が多いのではないだろうか。一昨年までの自分も、そうだった。

そんな私が、美術館、そして美術に興味を持ったきっかけについて、少し話をしてみたいと思う。

思い返してみれば、私にとって美術館はそこまで遠い存在ではなかった。子供の頃からよく、上野の美術館に連れて行かれたのを覚えている。しかしその頃は、美術作品にそこまで興味があったわけでもなく、どちらかというとその後に待っている外食が私にとってのメインだった。12歳の時、家族旅行でニューヨークに行った時には、ニューヨークにある有名な美術館と博物館を全て回った。この頃は少しは「美術のわかる大人」の顔をしたかったのか、さも吟味している風に神妙な顔つきで館内を回ったことを覚えている。しかしまだ、美術館自体への興味には結び付かなかったようだ。記憶に残っていることといえば、グッゲンハイム美術館の特徴的な作り(かたつむりの殻のようにとぐろを巻いた形になっている有名な建築である)ぐらいであった。

転機となったのは、一冊の本だった。原田マハさんの、『楽園のカンヴァス』

原田マハさんは森美術館、MoMAなどのキュレーターとしての経験を活かし、アートを題材にした小説を多く発表している作家さんだ。楽園のカンヴァスはその代表作の一つで、アンリ・ルソーの絵を題材とした物語である。

あらすじを書くのが勿体無いほどに考え尽くされたストーリー構成なのだが、物語としてはこんな感じだ。

シングルマザーとして高校生の娘を育てながら美術館の監視員として働く早川織絵は、実はかつては新進気鋭のうら若きルソー研究者としてアートの世界で名を馳せていたが、子供を授かってから引退し一介の監視員として日々美術館の名画たちと心を通わせていた。ある時、MoMAのチーフ・キュレーターであるティム・ブラウンから、名指しでMoMA所蔵のルソーの名作「夢」を貸し出す際の交渉相手に選ばれる。実はこのティム・ブラウンと織絵は、15年ほど前にこれ以上ないほど濃い一週間を共に過ごしていた。

時は遡り、ルソー研究者ティム・ブラウンはアシスタント・キュレーターとして上司トム・ブラウンの下に勤めながら、昇進の機会を心待ちにしていた。ある時幻のコレクターと呼ばれる大富豪の美術品コレクターから、怪しげな招待状が届く。その内容は、「ルソーの名作を真作か贋作か鑑定してほしい」というものだった。この手紙はアシスタントの自分ではなくトムに来たものではなかろうかと勘繰るティムだったが、ルソーの知られざる名作、という一言に深く興味を惹かれた彼は、すぐにチューリッヒへと旅立つ。ずっと追いかけてきたルソー、しかもその隠された名作かもしれない絵、そして待ち受けているだろう昇進に胸を躍らせるティムがそこで出会ったのは、当時独特かつ説得力のある研究で有名だった日本人研究者、織絵だった。このコレクターは、MoMAにある「夢」に酷似した絵「夢をみた」を二人に見せ、これから毎日一章の物語を読み、七日目にこの物語の内容からこの絵が本物か贋作かを判断して欲しい、その判定と根拠を評定し、優れていた方にこの絵の取扱い権利を譲渡する、と言い渡す。それから七日間、ティムと織絵はライバルとして絵の鑑定を行うというのである。

夢

<夢 ルソー 1910年 Google Arts&Cultureより引用 MoMA所蔵>

物語はここから、ティムと織絵の関係性を細やかに描きつつ、二人が読む物語の中でルソーとその人生の話を描くという平行した構造で進められる。丁寧に書いているとキリがないのでここは省略するが、平行した世界の中でティムと織絵、ルソーとその恋人や友人たち、という複雑な世界を綺麗に描きだしながら、読者を二つの世界に引き摺り込む技は圧巻だ。気がつけばティムがルソーと向かい合うスイスの豪邸の一室や、ルソーのアトリエの中に引き摺り込まれていた。
ルソーという人物がどのように人生を生きてきたのか、そしてなぜ絵を書き始めたのか、日曜画家だとか、子供の落書きだとか貶されながらなぜ絵を描き続けたのか、果たして「夢」「夢をみた」はどちらもルソーの作品なのか...それらの謎を一つずつ解き明かすように進められる物語の中で、私たちはいつの間にかティムと同じ立場でルソーに寄り添い、わかりそうでわからない謎にやきもきし、織絵の力強さとしなやかさに恋するようになる。

そして何よりもすごいと思うのが、「美術に関して全く知識のない人でも引き込まれる、そして読み終わると美術館に行きたくなっている」というところだ。
ルソーの物語の中では、同時代の画家たちが多く登場するし、その画家たちの代表作などについての描写も少なくない。しかしそれで「わからないし、興味ないし、つまらない」ではなく、「気になる」「どんな絵なんだろう」と想像力を刺激するのがこの本のすごいところで、読み終わった後に登場した絵を検索して見入って、またその部分を読み返したくなるのだ。
原田マハさんの本がこうした効果を持っているのには、二つの要因があると思う。


まずは、それまで何ともなしに見ていた絵が、大きな「ストーリー」を持って迫ってくるようになること。
ただ何も知らずに絵を見るのと、その絵を描いた画家の生い立ち、人生のストーリー、その作品を描いた時期の画家の精神状態などの背景知識を持った状態で絵を見るのとでは全く違う。もちろんこの物語の細部は全て原田さんの創作だが、画家の生い立ちや絵の生まれた背景の大筋は事実に沿って描かれているので、これまでただの「有名な画家」として認識していたルソーやゴッホ、ピカソたちに一気に感情移入するようになるのだ。その状態で彼らの絵を見ると、これまでには湧いてこなかった感情が沸き起こってくるようになる。

そして、美術、芸術というものは、大きな感情の集合だという実感が湧くようになること。
一枚の絵には、まず画家の情熱が迸っている。それは怒りからくる情熱だったり、恋心からくる情熱だったり、単に美しいものを残したいという情熱だったりする。そして、それを描いた画家、画家を支えた、または貶した人々、その絵に感情を動かされた人、ただ通り過ぎた人...長い長い時間をかけて多くの人の目に映る中で多くの人々の感情が吸収されている。
そう考えると、今私が見ている絵の持つ厚み、というか、重み、というか、ぐんとこちら側に訴えかけてくる、そんな気がする。

こうして長々と書いたが、とにかく原田マハさんのこの本を読んでから、私はふとした時に美術館に行きたいと思うようになった。絵を見ているうちに、お気に入りの画家ができた。お気に入りの時代もできた。大学の教養科目では、美術論を選択した。美術史を学んでいくうちに、興味が広まった。全て同じだと思っていた宗教画にも違いが見えてきた。

こうして、私は美術館が好きになった。

「楽園のカンヴァス」では、ルソーが晩年に恋焦がれ「夢」のモデルに選んだヤドヴィガは、「さあ、描いてちょうだい。あたしは、今から、永遠を生きることにしたの」とルソーに言い放ち、モデルとなることを受け入れる。私は研究者でも美術史専攻でもなんでもない一介の学生ではあるが、この「永遠を生きる」という表現...これは的確に、「美術作品」というものについて言い表している気がする。

重ねて言うが、私は美術に精通しているわけではない。これといった美的センスがあるわけでもない。知識もまだまだだし、現代アートはわからない事だらけだ。
でも、だからこそこれからも美術館に行きたい。感情の塊を前にして、感動してみたり、考え込んでみたり、わからないや、と通り過ぎてみたりしたい。

読みやすさも面白さも何も考慮せずに書いた駄文だが、もし最後まで読んでくれた人がいて、美術館に少しでも興味を持ってくれたとしたらとても嬉しいです。

<おまけ>
私が今1番好きな美術館は箱根のPOLA美術館と、東京京橋のアーティゾン美術館です!アーティゾンは都会のど真ん中にありますが所蔵作品が素晴らしいのでぜひ行ってみてください。この記事のヘッダー画像はこの間までアーティゾンでやっていた「琳派、印象派」に行った時の写真です。




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