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「自分」を愛せなかった自分へ。

「レディ・バード」という映画を観た。このあとは少しだけ考察チックになり若干のネタバレになります。観ていない方はぜひご覧になってから、といっても単純に面白いので、少しくらいは大丈夫だと思います。イヤだよ、という方はすっ飛ばして目次を活用ください。


レディ・バードの話

高校生のクリスティン、自称レディ・バード。物語の終盤で「名前」について母親とのやり取りがあった。観終わってからクリスティン、レディ・バードに思いを馳せたとき、どういうわけか涙が止まらなくなった。どうして彼女はレディ・バードを名乗って、クリスティンの名前を使わなかったか。

少し話を飛ばす。以前のnoteで「名前」の意義について書いた。

僕は誰かに名前を呼んでもらうとき、絶対に下の名前が良い感覚がある。苗字よりもスッと心に馴染む感覚がある。上記のnoteの”アイラブユーゲーム”では嬉しくなって泣いてしまったくらいに、ダイレクトに心に触れる感じがする。

名前は「その人を示す第一の言葉」なので、名前を呼ぶ行為は「人の存在を認める」ことであり、名前を呼ぶニュアンス次第で直接的に気持ちを伝えられるものだ。少し捉え方の方向を変えると名前を認めることは「自分」を認めることとも言えそうだ。さらに言えば「名前」を好きになれば「自分」を好きになれる。ひいては名前を呼んでくれる友人、名前をつけてくれた両親を好きになれる。

話を元に戻す。彼女はもしかすると”自分を含む”周りの環境すべてがイヤだったのではないか。自分に自分で名前をつけて、別の人格としてそこに在ろうとしていたのではないか。

現実世界で言うと、ネット上での違う名前や、友人それぞれへの立ち振る舞いの違いなどがイメージしやすいかもしれない。

だからこそ終盤でクリスティンは周りに思いを馳せていく。変わっていく。



自分の話

ここからは「自分」を愛せなかった自分へです。

つい先日まで僕は人を愛そうとしつつも、不慣れなためにうまくいかず、重い思いのすれ違いを起こしながらその人と時間を過ごし、「相手に迷惑をかけてしまった」と思うことがあると悩み、その人に頼りきって自分のために思いのたけをすべて話し、相手に負荷をかけてしまっていたように思う。しがみついていた。

僕はその人に自分のことを話すとき、しきりに自分を責めて傷つけて罰する言葉を選んだ。すべてにおいて相手に非はなく、自分が至らないからこうなってしまったという感じ。

どうしてか話すようになったかというと、僕は中学の頃から思春期特有のささいなことで、女性関係にトラウマができて心を閉ざし続けた。思いが生れてもそれを口にしてはいけないとずっと考えていた。口にしたら相手を不快にしてしまう、傷つけてしまうと考えていたから。しかしこのままでは一生、生まれた思いを口にできないまま、女性を怖がってろくに生きていけないと考えて、克服しようと思った。克服の方法はたったひとつ「女性と関わること」しかない。特に「思いを伝えたい女性」だ。思いを伝えることがトラウマ克服になると信じた。

そのときの僕は「気になるけど好きかどうか分からない女性の友達」が二人いて、本当に長い間、思いを自分の中で殺してきていた。本能では言った方が良いと知っているものの、理性では言わずにそのままの関係を続けていくべきだと考えている。どうしていいか分からないまま、もやもやした葛藤だけが胸の中に残ってつらくなっていった。

そのうちの一人に彼氏ができたと言われ、行動していなかった自分を責めた。その彼氏さんは自分とは真逆のタイプだった。それも災いして一気に思いが頭の中を駆け巡った。その人に後日、中学からの経緯を伝えたうえでどう思っているのかを洗いざらい吐きだし、最後に「告白をするから振ってください」とトラウマ克服のために協力をお願いした。「思いを伝える、告白をしたことがない」という事実を変えれば、何かが変わると信じていた。意味不明なお願いだけれど、その人は快く応じてくれて、言葉を受け止め、振ってくれた。何かは分からないけど、初めての告白をしてスッキリした気がした。以降、僕の協力者として連絡を取ってくれている。本当にありがとう。

もう一人とはご飯に行ったり、舞台や映画を観に行ったりしていた友達だった。先日まで愛そうとしていた人だ。

変われたかもしれないと感じていた僕は、その人には中学の頃~先の告白のことまでをすべて打ち明けたうえで、「気になっています」というのを伝えた。伝えることができた。「好き」という言葉はつかえなかった。まだ葛藤はしていて、少しずつ分かっていけたらというのも伝えた。

その後、またご飯や映画に一緒に行ったりした。気になっていると伝えたからこそ、今までしてこなかった異性の「男」として振舞おうと気を張ってしまい、濃い時間ではあったもののぎくしゃくした時間にした。そのことでまた悩み、会えない日には”つらさ”や”寂しさ”を感じて文字だけでのやり取りではなく、電話をしてもらった。相手が自分のことをどう思っているのか、それが分からなくてものすごく悩んだ。分からないというのは不安そのもので、不安は想像力を刺激する。僕はずっと思い込みが激しかった。

電話では、振り返ればほとんどが僕の悩みの話だったと思う。自分が打ち明けて相手が受け止める、二人の関係を進めるための時間ではなく、自分のための自分の話をする時間にした。何度も「ありがとう」「ごめん」を言った。その人は「どんなことを言われても嫌いにはならないよ」と言い、どんな言葉でも優しく受け止めてくれていると感じていたが、そんなことはない。負荷はもちろんあったんだ。

そのような長電話が何度かあって、最終的に僕が耐えきれなくなり、その人の方から「振っておこうか? 一旦つらくならないように距離を開けようか?」と提案してくれた。僕がその人を今現在どう思っているのか、その人が僕のことをどう思っているのかをお互いに伝えあって、関係性が明確になる振り方をしてくれた。僕とその人はそのとき、きちんと「友達」という関係にすり合った、僕は葛藤が消え、「人を愛する」状態とはこういうことで、だからその状態にならないようにすれば良いのだ、そう思っていた。

これまでで「思いを伝えられなかったり、不安に悩み苦しむ葛藤の状態」と「愛することによって寂しさを感じたり胸の高鳴りを感じる高揚の状態」を経験できたと感じていた僕は、当初の僕とはかなりの差を感じられていた。トラウマは克服できた、そう考えていた。

しかし、僕はその人に対して「人としての愛しさ」と「女性としての愛しさ」をごちゃまぜに感じていた。おそらく、今までの時間でその人の優しさや器量の大きさに触れて、自分の”寂しさ”を分かってくれているただ一人の人だと思っていた。振ってもらってからも、友達のように振る舞いながら、「好きだ」と伝えていた。その人も「好きだ」と伝えてくれていたが、その人は一貫して「人として」という意味でだった。ぶれていない。僕の中でのその人とのすれ違いは収まっていなかった。

とあるきっかけがあって、僕はその人との約束を果たせなかった。どちらも都合があったりして言葉が足りず、約束が流れたという形だったが、僕はそこで不安が湧きだしてしまい、変に膨らませた思いが募った。また電話をしてもらった。

この電話は今までで一番冷たい時間が流れたように感じた。お互いが理性を使って客観的に話し合った。僕は自分のことを吐き出していくうちに、本能的になり今まで相手に感じていた不安に手を出し始めた。あれもこれもと、まるで夫婦喧嘩に良くあるような、今は関係ないだろというやつみたいだった。相手はそんな僕の強い言葉も受け止めてくれた。僕が冷たい暴言を言ってしまって、一番自分が嫌っている「人の悪口を言う」のをしてしまったと自分で罰すると、「自分を傷つけないで」と言ってくれた。心に沁みた。

子どもの頃から自分が嫌いで、自分のことを考えず否定して生きてきた。人から言われた言葉を信じて、自分の言葉を殺して過ごし、何かあれば罰して、何でも理性的にきちんとこなそうとしてきた。昔から罰するのは日常茶飯事だった。初めての告白のあとからは本能的な部分も出てきて、理性の壁をなくした心は裸のまま、罰した。だからこそ以前よりもつらくなっていったのかもしれない。

その電話でその人は僕が抱いていた「女性としての愛しさ」の部分を正してくれた。しがみついていた心をきちんとはがしてくれた。最中で、何とも言えないくらい頭が晴れた。冴えた感じがした。

電話の日の翌日、レディ・バードを観た。涙が止まらなくなったのは、クリスティンに感情移入していったからというより、僕がどうして「思いを伝えるようになろう」「人を愛そう」としてトラウマ克服の道を選んだのかが分かった気がしたからだ。

僕は人を愛したかったんじゃなく、人から愛してほしかったんだと気づいた。誰かを愛するには、まず自分を愛する必要があるんじゃないかと気づいた。瞬間、ぶわっと色んな記憶が湧いてきた。

だいぶ前に先輩の役者さんと僕が飲んで、僕が話している最中になぜだか涙が出てきたときのことを残していた。「自分を愛してほしいと思った」と書いてあって、それを思い出した。ワークショップのアイラブユーゲームで泣いたことを思い出した。みんなが僕を円で囲んで、名前をずっと呼んでくれたとき、とても幸せで泣きそうになったのを思い出した。下の名前で呼んでもらえたとき、心地よいと感じるのを思い出した。誰かに「良い名前ですね」と言われるたび、「大好きなんです」と答えていたのを思い出した。母親に自分の名前の由来を聞いたときを思い出した。

めっちゃ自分の名前好きじゃんと思って、むせび泣いた。ものすごい遠回りをして、精神的に自立するということ、自分を愛して、自分の足で自分の心を支えるというのを学んだ。誰かにしがみつかず、寂しさを押し付けないというのを学んだ。

「じょうじ」という名前をどこまでも大切にしていこうと思った。名前を大切にする、たったこれだけだけど全然違う。間違いないない存在証明だ。呼んでくれるすべての人を大切にしようと決めた。自分を愛するきっかけを与えてくれたレディ・バードは人生の大切な一本になった。
協力してくれた二人への感謝の言葉が尽きない。本当にありがとう。思いは伝える、どんどん伝えていく。誰にでも、いつまでも、我慢せず。

いただいたものはすべて創作活動にあて、全国各地を回って作品をつくったり、地域に向けた演劇活動の資金にします。「たった一人でもいいから、人生を動かす」活動をより大きく、豊かに頑張ります。恩返しはいつになるか分かりませんが、必ず、させてください。よろしくお願いします。