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哲学カフェに参加して「幸福」について考えた

筑波大学の哲学カフェに参加してきて「幸福になるってどういうこと?」について対話してきました。初哲学カフェ!ということで、その場で出てきたテーマを中心に考えたことを言語化しておこうと思います。


自己肯定が幸福の土台

「何を言っても認めてくれる人がいることが幸せ」という別の参加者の発言を受けて、地位・言動・容姿などの外見、さらには内面的な思考や精神状態に影響されず、全面的に肯定してくれる人の存在の重要性を感じた。

究極的には(エゴイズムを乗り越えた上で)自己肯定できることが幸福に生きる土台であると思う。とはいえ、人間は社会的な生き物であるから、土台を築く上で他者からの肯定は重要な要素になる。また、他者に与え与えられることで幸福感は増す。

エーリッヒ・フロムが「愛するということ」で述べるように、人間は孤独を逃れたい生き物であり自律を前提に愛し繋がれることを求めるのだと思う。それは最上の幸福だと思う。

自己肯定には何が必要なのだろう。

身近にいる自分にとって重要な人が、全面的に自分を肯定してくれる経験の蓄積がその土台を作ってくれるように思う。その土台の上に、利害のない友人関係など部分的にでも相互に肯定し合える人間関係が自己肯定感を高める。私自身も誰かの自己肯定感を支えられる人間でありたい。

また、自力救済の一つとして強力な手段は「自分に対する期待値を下げること」があると思う。

どうしたら自分に対する期待値を下げられるのか?

視野を広げることだと思う。

一つは横にズレてみること。
同質性の高いコミュニティから離れてみる。自分とは全く違う育ちの人で構成される集団に入ってみる。世界を旅してみる。海外に住んでみる。
ある特定のコミュニティ内での「ねばらなぬ」が存在しない場所がたくさんあることに気づく。

もう一つは時間軸を大きく遡ってみること。
歴史を遡って、さまざまな出来事や思想の変遷に触れると、いまこの瞬間のこの場所での「ねばならぬ」は一時的なものでしかないことに気づく。

あとは具体的だけど、SNSをやめること。
現代社会ではSNSを通じて(見せかけも含め)”成功者”の姿に晒され続ける。経済的な成功、美しい外見、幸せな家族生活… 各カテゴリの”成功者”が”いいね”を書き集め、アルゴリズムによって大衆に浸透させる。
それらは無意識の中に成功モデルとして刷り込まれ、自分の人生に対する期待値を気付かぬうちに上げている。インスタやTikTokのユーザーは幸福度が低い傾向にあることと無縁ではないだろう。

自分はSNSはやらない。仕事で使わざるをえない時にFacebookを開くと、いつも同じ人が同じようなことで投稿していることに気づく。すると、SNS上で見える何かは決して世界の”ねばならぬ”ではなく、あるところで部分的に起きている何かでしかないとわかる。

嫌な人との関わりが生む苦しみにどう向き合うか

私は嫌なことを受けれ入れられるようになったときに成長を感じる。20代のとき、「当時の自分にとって」嫌な人と仕事をしたことがある。

しかしいま振り返ると、あのときの経験があったからこそ受け入れられることが増えた。あのとき必死に考えて向き合ったからこそ「他人は変えられないが、自分の意識を変えて受け流すことはできる」とわかった。

怨憎会苦は人生につきもの。
相手を変えようとせず、かといって相手に合わせすぎようと無理をせず、憎しみや嫌悪の感情をそっと手放す。ただ起きていることと自分の中に湧き上がる感情に目を向けて、流れていくままに受け流せばよい。時々向き合ってみても良い。受け入れられることを増やすきっかけになるかもしれない。

一方で、社会としてはハラスメントが人を追い込むことを看過してはいけない。組織や社会は個人の責任にせず、嫌な人の暴走は止めなければならない。

成長と幸福

目標達成のための成長をギャップアプローチというらしい。

私もかつてはいつもギャップアプローチだった。勉強にしても仕事にしても、目標数値を決めて逆算して突っ走る。もちろん、いまも社会人としてそのアプローチを使っている。

でもギャップアプローチは「ねばならぬ」思考なので、疲れることもある。
常に目標を達成した自分を想像して欲求を喚起したり、人生に対する焦りを表出させ、欲求不満を動機として自分をドライブする。
エーリッヒ・フロムはこういった状態を「能動的に見えて、じつは「受動的」である」という。

私は目標達成を目的として成長を手段とするギャップアプローチではなく、成長そのものを目的とすることの方が心地よい。

昨日できなかったことが今日できるようになる。
昨日思いつかなかったことが今日思いつく。
昨日知らなかったことを今日知っている。
昨日受け入れられなかったことが今日受け入れるようになる。
昨日大切にできなかったことを今日大切にできている。

小さな変化や小さな成長そのものが嬉しい。毎日が楽しみになる。成長が目的で、むしろ、目標達成が手段と捉えられているいまはとても心地よい。自分にとって幸福と言える。

「あなたが好きなことをやりましょう」を巡る中庸

好きなことを「やらねばならぬ」ような気がしてしまうこの社会に違和感を感じることがある。ことあるごとに「やりたいこと」を聞かれ、「個の尊重」の大号令の下に「好きなことをやること」を啓蒙される。好きなこと、得意なことをやっていないとダメなのではないかと思わされる。

個の尊重はたしかに人類が勝ち取った権利である。日本も開国と同じくして啓蒙主義が輸入され、個人の権利の獲得、自己実現の尊重と、近代化とともに確かに歩みを進めてきた。大事な権利だ。

しかし、押し付けすぎてはいないだろうか。
好きなことをして生きて良い心地よさを通り越して、好きなことをして生き「ねばならぬ」という義務になっていないだろうか。

2010年代くらいからYouTubeの「好きなことで生きていく」のCMに代表されるように、「好きなことをやる」「個別最適な快楽」が成功であるかのように啓蒙される時代を生きている。何を隠そう、私自身、必死にやりたいことを求めて、好きなことを仕事にして、さらには「なりたい自分」を目指すことを啓蒙してきた。

私は悟りを開いているわけでも、悟りを開きたいわけでもないので、できるだけ好きなことをやって生きたいし快楽も得たい。だけれども、やりたくないことや不快も自分を成長させてくれるということ。すなわち、後の幸福につながるということ。それらを受けれいれることも含めて「なりたい自分」である。

私にとって幸福は、自己を肯定できること(肯定してくれる他者がいること)>成長を感じられること>好きなことをしていること といまは思う。

そう考えると、好きなことを「しなければならない」と感じる必要はない。好きなことができればそれは嬉しいけれど、できなくても良い。
牛肉が食べたいけど鶏肉でも良い。グラデーションの話で、せめて肉が食べられている幸せを感じたいけれど、その程度の話だと思う。

細分化しすぎない方が良い気がしている。わがままになりすぎて受け入れられないことも増えてしまう気がする。(とはいえ、この権利がある現代に心から感謝したい。)
一方で、個別最適が極限まで進む社会にも思えるから、細分化された上で快不快を自己認識し、その上でどう生きるのかを能動的に決められるように進化しなければならないのかも、とも思う。

哲学カフェの場でこの違和感を口にしたときに、教授が「社会として両極端を体験しているこのプロセスが、社会としてバランスをとっていく中庸のプロセスそのもの」的なお話をしてくれて、非常に納得した。歴史を振り返れば思想は、自然哲学→神話信仰→人間主義→科学主義、みたいに揺れ動くものなのだ。私たちはこれからも良きあり方を模索し続けるのだろう。

社会の違和感にわざわざ反抗せずとも、個人としての心構えとしては「ねばらぬなんて存在しない」と捉え、軽やかに生きていきたいもの。

主観は刷り込みでできている。ということをメタ認知することが大事。という刷り込みの重要性

「99%あるいは100%、自分の意志なんてない」という話があった。というのは、遺伝子、環境、経験、他者など、さまざまな刺激による「刷り込み」によって、自分の言動は決まっているという。

自分のこのnoteだって、「自分の考え」だと思って心地よく書いているけど、読んだ本やだれかの発言、社会の風潮、あるいは受けてきた教育、親の影響といった無数のインプットによって構成されている。

参加者の一人が関数のようなものといっていたのが妙にしっくり来た。言動や幸福を目的変数としたときに、生きている中で触れているものすべてが説明変数であり、触れるものの強度によってその係数が変わるのだろう。

とすると、少なくとも今持つ自分の意志らしきもの(も刷り込みによる結果でしかないのだろうけど)を使って自分の人生をより良くするとしたら、自分の言動・思考・意志らしきものは刷り込みでできているということをメタ認知して、その刷り込みの質を高めることだと思う。

良き本を読み、良き人に出会い、良き活動をして、良き思考・良き言動・良き意志を生み出していくことだろう。



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