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気持ちと言葉、烏合の衆

調子が右肩下がりだった11月。ほとんど毎日のようにサンボマスターで自分を鼓舞する1ヶ月は幸い間もなく終わりを迎えそう。

新しい日々が始まるようにと、生きることに汗臭さと美しさと祈りを持って寄り添ってくれるロックバンド。深夜のカラオケで熱唱して何度喉を潰したかわからないくらい特に20代のころ幾度となく支えてもらった。付き合っていた人の車にCDを仕込んだら、叫んでいるだけだと浜崎あゆみのアルバムに差し替えられた記憶がうっすら蘇ってくる。歌詞を聴かない奴だった。今はそうでもないけれど、他人と音楽の趣味が重なることは案外大事な要素かもしれないと当時は思った。


紹介したい人がいる、と見知らぬ人と引き合わせようとする人をあまり信用していないが、稀に例外があり、過ぎた夏から関わることになった人と本を持ち寄りご飯を食べた。名前だけは知っていて、同じ島内でよく2年も交わらずに過ごせたなという距離で暮らし働いていた。

借りていた本は日記を詰め合わせたようなエッセイ。気が向いたら当てずっぽうでページを開き、引っかかる言葉の数々にたくさんの付箋を貼って返した。
貸していた本は井口淳子さんの「送別の餃子」、三輪舎の「本を贈る」。読後のアウトプットが小さな青い冊子になって一緒に返ってきた。丁寧とも律儀とも言い表せそうだけれど、なんだか少し違う。まだよく知らないなりにも人柄が出るというのはこういうことを言うのだなと思った。
読書感想の持ち寄りのなかで、読みながらお互い自分の仕事での場面を紐づけしていることが共通点として浮き彫りに。異なる業種で働いているとはいえ、理解の及ぶ領域もあり面白みのある時間が過ぎていった。

わたしの住まいは飲食店の集中する港界隈からは遠く、気軽に呑んで帰ることができないためタクシーを使うことが多い。この日は家からいちばん近い商店で降り、ほんの少しの距離を歩いて帰宅した。
空は澄んで当たり前に無数の星が転がっていて冬の星座がはっきりと浮かぶ。不意に街灯の光量に視力を奪われ側溝に落ちない程度に下を向いて歩いた。強すぎる光を避け反対側に顔を上げると、連なる山の稜線には小さな半月。摘んでちょんっと置いたようにかわいらしく迷わずLeicaを搭載したスマホを向けたけれど、何回撮ってもわたしの肉眼に映った夜は残せなかった。カメラの細かな設定が違ったのかもしれない。ぼんやりと青暗い画面に残像のような白い光がおさまっただけだった。いま見たのは、これじゃない。

こういうことは、よくある。見たもの触れたものに湧き上がった気持ちはどうしてもそのままは残せずに、日々が、一瞬一瞬が、時間にさらわれていく気がする。写真の話ではなく、思いのこと。自分の口から放つ言葉ひとつひとつ、納得感がないまま会話していると、何も言えていない疲れで相槌を打つことに終始することがザラにある。思っていることとズレた言葉を使うくらいなら話さないでおきたいとさえ思うくらい、考えていることと言葉に距離を感じて結構辛くなってしまう。自分には語彙力というものが無いんだ、教養がなくて話すのも下手なんだと思っていたけれど、実際のところ自分の内側で起こる心の機微に言葉が追いつかないのだと思う。半ば諦めも抱きつつ、それだと会議体など人との交わりに一歩も二歩も遅れて迷惑をかけてしまわないかという不安。人々の観察をしていると、なんでそんなにすぐ「わかる」「そうだよね」って相槌が打てるのか、次の一言が出てくるのか、そのスピード感に驚き懐疑心さえ湧いてしまう。けれど、わたしが単に追いつけないだけだ。
そういえば普段は食べるのが結構遅い。味わってちびちび食べたいから多くはいらないし咀嚼が長い。のんびりしていると周囲が食べ終わりそうになっているのに気付いて無理やり食べ物を押し込む場面がある。受け取った言葉は丁寧に咀嚼したいだけなのに、なにかが難しい。
そしてこんな事をタラタラと考えている自分をしょうもないとも思う。褒められたり認めてもらう事が苦手な反面、自分を認識することは諦めてはいけないという意志を、はじめてのおつかいに出てくる子どもたちのようにぎゅっと握りしめてはいる。本当に面倒くさい。

帰り間際に青い冊子をくれたその人と「なんかやりたいですよね」と言葉を交わして解散した。次は年末あたり、仲介者も交えてまた違う本を持ち寄れたらいい。

そういえば先週、海の見える会議室で初めて話した人からは秘密基地を持つといいと聞いた。

その時々のことを残しておきたいという、ただそれだけの純度で、それを、つくろう。


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