書くことは誰にも止められない

嶋津さま

 第二回教養のエチュードというタグをつけて下記の文章を公開しました(してしまいました)。

 時が経つにつれ周りのレベルの高さに震え上がり、何の気なしに書いてタグをつけてしまった文章をその中に放り込んでしまったことを後悔しました。でも心のどこかで誰かに読んでもらいたいという気持ちもありました。そこで今回のわたしの失敗はなかったことにするのではなく先行きを見守ろうと方向転換しました。

 主催者の嶋津さん、「読むこと」は教養のエチュード#9で、コメントをくださりありがとうございます。noteで文章を書いている理由と「書く」という行為そのものについて、嶋津さんへのお手紙として書きます。


この文章を書いている理由

 まずは簡単な自己紹介をします。社会人3年目27歳です。学校事務をしています。社会人2年目の冬大きく体調を崩しうつ病と診断、2ヶ月休職しました。
 この流れには焦りはしましたが正直驚きませんでした。というのも大学院にいた頃にも人間関係とハードワークに疲れ似たようなことが起きていたからです。院生の時も恐らくうつ病状態でした。その時は修論を書き切り就職先を得ることで回復したと思っていましたが根本的なことに向き合ってはいませんでした。

 そして社会人になり2回目の大不調。このままの生き方では繰り返し倒れてしまうと思い、まずはほぼ毎日ノートに日記を書き続けました。日記を書き続けることで自分の思考の整理だけでなく何が好きで何が嫌いか、いままで向き合わずに鈍感でいた部分と対峙する必要がありました。書きに書いて1ヶ月と少し、日記を書くことで気づいたことをnoteに書くようになりました。

 このnoteは、わたしの頭の中のぐちゃぐちゃ→日記に書き出す→さらに頭の中で熟成→という手順をの最後にあたります。嶋津さんの指摘する思考の整理です。そして他の人が読むことのできる状態で文章を発信しているのは『病気のことも含めて日常を語りたい』からです。(このことについては別のノートに書きました→→→)

『病気のことも含めて日常を語りたいの』 

嶋津さんのお手紙を読んで

 書くことはセラピーになる、と書いてくださりました。書くことで思考が整理され、自分の本心を知ることができています。あるいは見つめなければいけない辛いことにも書くという作業が支えになり向き合うことができています。

 さらに気づいたのは「書く」という行為は誰にも止めることができないということ、誰にも邪魔されないということ、でした。

 この二十数年間の人生でさえ、わたしの生き方に口を出してくる人、行動を邪魔してくる人、多くの人に出会いました。それでもこの書くという行為は、誰にも止めることはできませんでした。関わるとしんどい気持ちになる人たちから逃れるために乗り切るために日記を書くこともありました。書くことがセラピーとして、わたしを支えてくれていたのかもしれません。嶋津さんの言葉で気づいたことです。ありがとうございます。

教養のエチュードに参加してみて

 成り行きを見守ろうと決意して良かったと思います。良質な文章に触れ書くことでつながる喜びを知ることができました。皆さんの書く文章は外側を向いており、読む誰かのことも考えられていました。己の文章は、というとまだまだ内側を向いたままです。わたし、という言葉を多用してしまうのも、内側を向いている証拠でしょう。いつか、誰かに向けて文章が書けるようになりたいなと思います。人を支える「書く」という行為を他者に向けてみたい。まずは書くことで自分を丁寧に知ってあげることからが、わたしの再スタートです。

 嶋津さん、改めてありがとうございました。
また何かの折に「書く」を通じて交流ができることを楽しみにしています。

くぅ

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