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幸せという不幸せ


最近気づいた不幸と、ずっと感じている幸福の話をしたい。

今年に入って、バンド活動をしているという人と友達になった。会社で。
曲を世に産み落としているというのは、とてもかっこいいと思った。羨望のまなざしだ。なんてバンドか教えてよ、と教えてもらって、Apple  Musicで検索した。
普段は聞くことのないようなその音楽は、叙情系ハードコアというジャンルらしい。

聞こえてきたのは怒りで、憤りで、叫びで、痛みだった。

いつしか私から去ってしまった物たちだ、と思った。

何度もいうように、私は物を書くことが好きだ。いつか物を書いて生きていきたい、と思っていたこともある。本音は今も少し思っている。が、現実は、書くことがない。書きたいことがない。書いて世に放つほど訴えたいことがない。

幼いころから大学に入るぐらいまで、いつもいつも怒りがあった。世の中に対して、人間の性や、あの事件や、なにもかも、この世を構成している物に、納得できないことに、怒っていた。書きたいことがふつふつと湧いて、桃源郷ははるか彼方にあった。

許せないことが多かった。それは友達とか親とかいう次元ではなく、この世の不条理や産み落とされたことに対して。いわゆる厨二病みたいな物だったのかもしれない。当時憤りを感じ、叫びたくて、そうして書きまくったものは今も色々と残っているけれど、まだ恥ずかしくて見られなかったりする。

いつの間にか消えていたもの。

どうして消えてしまったのか。どこへ消えてしまったのか。いつから消えてしまったのか。なにも分からない。少しずつ書かなければいけない、と思うことが減って、いつのまにか書きたいことは無くなった。

代わりに、今幸せだと思う瞬間が増えた。増えすぎたのかもしれない。満ち足りていて、枯渇していない。街を歩いていて、五感全てをフル稼働して感じられる空気や匂いや風や眩しさに、幸せだと思うようになっていた。ふと漂う花の香りが美しくて愛おしかったりする。

この満ち足りている、という感覚は確実に私を幸せにした。けれど、物書きになりたかったあの頃の私の夢は叶えてあげられない、と思う。

もちろん、この国のこと、この地球のこと、このままでいいとは思わない。危機感はある。けれど飢餓感がない。書きたいことがない理由はこれだったのか、と、叙情系ハードコアを聴きながら思う。

尊敬する芸人も、物書きも、音楽家も、芸術家も、桃源郷や理想があって、そこへ向かう方法としてそれぞれ芸を磨き、世に放っている。と、少なくとも私は思っている。それがどうだ、私にはできない。この世界を許せる大人になってしまったので。誰かの怒りに共感することでしか怒れず、誰かの叫びに共鳴することでしか叫べない。不幸で、でも満ち足りている気持ちは幸福だとも思っていて。

こうした矛盾した気持ちを綴る日記みたいなものしか、書くことができない。何者かになりたかった私が、羨ましそうにバンドマンを見ている。

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