夫の恋人
「好きな人がいる……」
夫から告げられた時、来栖(くるす)はさほど驚かなかった。
ああ、そうだったのか……。この数ヶ月、理人(りひと)の様子がおかしかったのは、このせいだったのだ。
一緒にいてもぼんやりと上の空で、何かを思い悩んでいるのが手に取るようにわかった。だけど、どんなに問い詰めても「何でもない。仕事で疲れているだけ」の一点張りだった。 夜遅く帰って来ることがしばしばあったが、きっと彼女と一緒にいたに違いない。夜食を作って待っていた自分がひどく間抜けに思えた。
来栖は身の内にあるプライドと理性をかき集め、決して取り乱すまいと静かに息を吸い、そしてゆっくり吐いた。
「その人…幾つ?」
「……三十九」
自分より七歳年上と聞いて、一瞬優越感が頭をよぎった。そして次の瞬間、そんな自分に腹を立てた。年齢という陽炎みたいな儚いものにすがっている自分が惨めでたまらなかった。
二人の間にあるテーブルに置かれたお揃いのマグカップから柔らかな湯気が立ち上っている。日曜日にはいつも遅く起きて、前日にどちらかが調達しておいた美味しいパンとコーヒーと季節の果物の朝食を食べながらながら一週間の出来事を話し合うのがいつの間にか習慣になり、来栖はいつもそれを楽しみにしていた。
いつだって二人とも話したいことがたくさんあって、気がつくと二時間くらい経っているということがザラだった。「笑い」や「怒り」のツボが同じで、一緒に大笑いし、一緒に怒って溜飲を下げた。だから面白いことや腹の立つことがあるとスマホにメモしておいて、日曜日にそれを披露するのを心待ちにしていた。
年をとって髪が真っ白になっても日曜日の朝食を楽しみに待つのだと、来栖はつい数分前まで無邪気に信じていたのだ。まさか、こんな話をされるとは夢にも思わなかった。
「これから、どうするつもり?」
「ごめん……」
「だからどうしたいのよ。理人、ちゃんと答えてよ」
「離婚して……欲しい」
焼き鏝(ごて)を押し付けられたかのように、鋭い痛みが全身の血管を奔った。体の芯は熱いのに、なぜか寒気に襲われて体が小刻みに震え出した。胃のあたりから上がってきた大きな塊が喉をふさいで言葉にならない。
理人はうなだれたままで、来栖の視線から逃げ続けている。
「本当にごめん。来栖は少しも悪くない。すべて俺の責任だ」
「……もしかして……その人妊娠してる?」
「違う」
やっと視線を合わせた理人の顔はひどく青ざめて、下瞼にくっきりと濃いクマが浮いていた。おそらく夕べは一睡もしていないのだろう。
訊きたいことも言いたいこともたくさんあるはずなのに、来栖の頭には何一つ思い浮かんでこない。夫に好きな人ができて離婚したがっている。それがすべてだ。それ以外のことを知ったところで、それがいったい何の意味を持つというのだ。
「あなたの両親とうちの両親にも言わなきゃ……」
「うちの親には昨日伝えた。本気で勘当されたよ。もう息子じゃないって。来栖さんに申し訳ないって泣いてた。もし会ってもらえるなら直接会って謝りたいって」
「もちろん会うよ。この先もこの絆を切りたくない」
「うちの両親が、これからは来栖さんだけが我が子だって言ってたから喜ぶよ」
「親不孝者」
「わかってる。うちの親には一生許してもらえないと思う」
再婚して孫が生まれたらすぐに許してくれるに決まっている。心の中でそう思ったが、来栖は口には出さなかった。
「お義父さんとお義母さんには、この先もずっとお誕生日とか母の日父の日にはプレゼントだって贈りたいし……」
「ありがとう。ほんとにありがとう」
「失うのはあなただけでいい」
その一言に強い思いを込めた。しかし離婚したら失うのは理人だけじゃないとわかっている。理人と別れるということは、ユメを……自分の命以上に大切な、愛しい愛しいユメを失うということなのだ。全身が粟立(あわだ)ち、皮膚も骨も削られるように痛かった。
来栖の部屋で一緒に暮らすことになった時、理人が抱えてきたのは服と靴とパソコン、そしてユメだった。
近づくと「シャー!」と全力で威嚇した白猫のユメは、二日目にはチュールを近づければ警戒しながらも恐る恐る食べ、三日目にはなでさせてくれて、四日目には抱くことができた。
夜中に喉を鳴らしながら起こしに来る寂しがり屋のユメ、仕事から帰るといつも玄関で前脚を揃えて迎えてくれるユメ。大好きなカニカマを食べる時、別猫のように目つきが悪いユメ、ソファーの上で仰向けになって万歳した格好で爆睡するユメ……。
ユメの右目は水浅葱色、左目は菜の花色のオッドアイで、時折もの言いたげに視線をとらえて離さない。その瞳に映っているのは、もしかしたら人間には見えない未来だったり、この世とあの世の境界線だったりするのだろうか。
大好きな祖母が亡くなった日の夜の出来事が記憶の泉の中から立ち昇ってくるたびに、来栖は今でも不思議な感覚に捕らわれる。
理人の帰りを待ちながら布団の中で泣きじゃくっていたら、ユメが頬を優しく肉球で撫でて頬にキスをして、添い寝をしてくれたのだ。まるで赤子をあやす母のように……。
来栖は信仰を持たないが、あの夜のユメを思い出すと、何とも言えぬ敬虔な気持ちになって心が鎮(しず)まってくる。
しかし理人と別れたら、ユメが映る全てのシーンが、心痛む想い出になってしまうのだ。
猫の平均寿命を数えたら、あと十年も残っていない。大切な時間を共に過ごすことも、看取ることも許されないのか。
別れるとなったら理人はユメを連れて行ってしまう。瀕死の状態だったユメを道で拾ってスポイトでミルクを与えて命を救ったのは彼なのだ。そしてあり余るほどの愛情をユメに注いできたこともずっとそばで見てきた。ユメが胃腸炎になって夜中に救急病院に車を走らせる理人の頬を濡らす涙も、ぐったりしているユメを撫でながら「代わってやりたい」と何度も呟いていた声も心に刻まれている。物欲とか、あらゆるものに対して執着心が薄くて淡白な理人だが、ユメにだけは全身全霊で執着しているのだ。彼にとってユメは自分の命以上に大切な存在だということを来栖は、他の誰よりわかっている。わかっていても、心が激しく抵抗するのを止められない。今では理人と同じようにユメを自分の命以上に愛しているのだ。
「お願いだから、ユメを私にちょうだい。あとは何も望まないから」
長い沈黙が部屋の空気を湿らせて重くした。理人の無言が心を打ち砕いた。
「……だめ……だよね……」
涙を必死にこらえた。分かりきったことを口にした自分の愚かさが情けなかった。
二人の間に落ちたピリピリと引きつるような翳を払うかのように、ソファーで寝ていたユメがあくびをしながら立ち上がった。白いソファーと一体化して、ここにいることに気づいてなかった。
理人はそっとユメを抱き上げた。
「俺……行くね」
「もしかして……迎えに来てるの?」
小さくうなずいた理人の横顔は、見知らぬ人のようだった。
声もなく立ち上がったとたん、身体中の血が床に吸い込まれていくような目眩を感じて足元が揺らいだ。
離婚は、夫婦が別れるだけじゃない。今まで共有していた色々なもの、共有していた想い出、それらがみんなバラバラになってしまうということなのだ。
迎えの車に乗り込んだ時、開口一番彼女になんて言うのだろう。「ちゃんと終止符を打ってきたよ」なのか「長く待たせてごめんね」なのか。それとも何も言わずにそっと彼女の手を握るだけなのだろうか。これからは彼女がユメを一緒に暮らすのだと思うと、体の芯から熱くて不透明な泡(あぶく)がふつふつと吹き上がってきた。
いつの間に用意していたのか、玄関にはもうボストンバッグが置いてある。
くるりと玄関の方を向いた理人の背中に、来栖は声をかけた。
「ねえ理人……私を……愛してた?」
思わず口をついて出た言葉を、あとで思い返してきっと後悔するだろうとわかっていた。それでも訊かずにはいられなかった。
振り向いた理人は濁りのない澄んだ瞳でまっすぐに目を合わせた。
「今までも、今も愛してる」
なぜ別れの時にそんな嘘をつくのだ。私を捨てて行くくせに……。
今このマンションの下には、夫が世界で一番愛している女が待っている。それがわかっていても、来栖は彼に取りすがって泣きじゃくりながら「行かないで!」と叫びたかった。
理人の腕の中にいるユメが来栖を見上げて「ニャア」と可愛い声で鳴いた。
ああ、ユメ、さよなら。さよなら、ユメ。あなたは私の魂の半分を持って行ってしまう。
玄関の三和土の前で、理人はユメの美しい瞳を写し撮ろうとするかのようにじっと見つめ、そのふわふわした首筋に唇を押し付けた。そして今まで見たことのない悲痛な眼差しとともに、ユメを来栖の両手にそっと抱かせた。
「ユメは……置いて行く……」
来栖はその言葉の意味がわからず、理人とユメを交互に見た。
「置いていくって……。まさか、まさかユメを私にくれるの?」
理人はゆっくりと二度うなずいた。
そして何かを振り払うようにドアに手をかけたが、一度開けたドアを静かに閉めて来栖に向き直り、体を真半分に折った。
それはほんの二、三秒だったが、来栖には長い長い時間のように感じられた。
理人はあふれ出る涙を拳で拭って、ドアに体当たりするように勢いよく出て行った。
心も体も焼け付くように疼(うず)いた。いつかこの生々しい痛みが癒される日が来るのだろうか。一年後? 二年後? それともずっとずっと先?
「こんなの耐えられない……耐えられない。耐えられない」
来栖はユメを抱いたまま外に飛び出した。
エレベーターを待つ時間ももどかしく階段を駆け下り、エントランスホールから外を見ると、ちょうど理人が黒いSUVの助手席に乗り込むところだった。
名前を呼ぼうとしたその時、運転席から手が伸びて理人の頭をクシャクシャと乱暴に撫でた。
「えっ?」
思わず息を飲んだ。
髪を短く刈り上げた精悍な顔立ちの青年が、いたわるように大きくうなずき、陽に焼けた筋肉質の腕で理人の肩を抱き寄せた。その時、未完成のパズルのピースがおさまるべき所におさまって、一幅の絵が立ち現れた。それは恋が成就した瞬間を切り取った美しい絵だった。
来栖は膝から崩れ落ちそうになりながら、時折理人の瞳に浮かぶ昏(くら)くて深い海の色を思い浮かべていた。
「今までも、今も愛してる」
理人の言葉が耳の中で聞こえた。
腕の中のユメに目を落とした時、何かがストンと腑に落ちた。
あの言葉は嘘じゃなかった。私は彼にとって親友であり愛する家族なのだ。今までも、いまも。だから夫婦じゃなくなっても、会えなくなっても、理人の愛は行く手を照らし続けてくれる。それを証(あかし)してくれたのがユメなのだ。
「そうだよ」と言わんばかりにユメが小さな甘え声をあげた。
視線の先に止まっている車のエンジンがかかった。
「さよなら、理人。さよなら」
来栖はくるりと背を向けて歩き出した。そして一度も振り返らなかった。
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