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なぜ努力できることは才能と言われるのか

前書いた記事の前提条件、補足の話。

「努力できるのも才能の内」なんてフレーズ、みなさんも耳にタコが出来るくらい聞いたことがあると思います。

じゃあなぜそう言われるのか?

それは「才能があったから努力できた」というケースが少なからずあるからです。

これは例え話ではなく自分語りになってしまうのですが、僕は高校時代センター試験の現文で全国2位でした。有名私大の赤本でも現文は満点以外ほぼ取ったことがないです。

↑の記事でも書いてある通り、授業をサボりまくってるような人間なので、勿論自主勉もしてません。

でも現代文だけは勉強しなくても満点が取れました。
(まぁオタクは現文だけは異常に得意って奴が多いので、別に珍しくもないかもしれませんね……)

いきなり自慢か? とブチギレてる方もいるかもしれませんがちょっと待ってください。一応「努力出来るのは才能かどうか?」に関わる話なんです。

客観的に見て、なぜ自分が勉強してなくても点数が取れるのか。
それは単純に、他の人よりも小説を沢山読んでるからってだけなんですよ。

子供の頃ネグレクト気味だった僕は、常に家で一人小説を読んで過ごしてました。母親が読書家で家に沢山小説があったから、暇つぶしに読んでたんです。その時の習慣が小中高と続いた結果、他人よりも文章を読み解くのに慣れてただけなんです。

小説を読むのが苦痛、小説はつまらないと考える人からすれば、これは“努力”のように映るかもしれません。でも僕は、これを努力だと認識していません。だって好きで読んでただけだもん。

ここに「努力できるのは才能だろ派」「努力は努力だろ派」の認識の壁があると思うんです。

好きこそものの上手なれと言うように、実際自分が上達したいと思ってる分野がどれくらい好きかって一種の才能なんですよ。

創作において“好き”は何よりも強い原動力です。
当人は好きだから沢山練習する。
他の人はうまくなりたいから練習する。
練習するのはキツイ。だからつい途中で辞めてしまったり、集中出来なかったりする。
なのにアイツは、ずっと練習してる。
やっぱ努力できるのって才能だよな。

好きであること=才能
好きであること=努力できる
努力できる=才能

というワケですね。

更にいえば、同じ練習量でも才能(ここでは絵の)がある人間とない人間では、勿論結果は違ってきます。
なんだってそうですが、上手くできてすぐ成果が出る方が楽しいに決まってます。
楽しいから積極的にする。積極的にするから上達もするし好きになる。好きになるから練習する。以下無限ループ。

努力すること=練習やその物事に積極的に取り組むこと

という認識ならば、“努力できること”と“才能”は切っても切り離せません。

じゃあ努力してきた人間は全員偶々努力できる環境にいたか、努力出来る才能があったってことかよ!?

と問われればそれは違います。
過酷な環境に居て、なんの才能も……“努力の才能”がなくても努力している人は沢山います。むしろそれが大多数かもしれません。

努力するにも才能がいるってのは一部分的には正しいです。
でも人間は、才能がなくても努力します。

ただ、才能がないから努力を苦痛に感じるのです。
苦痛に感じるから、その努力を認めて欲しい。
だから努力は才能だなんて、切り捨てるようなことを言われたくないんです。

努力が出来ることは才能かもしれない。
でも、才能がない人間が最後に縋り付く救いが努力なのです。



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