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努力できることは才能なのか

人間は本質的に努力“したい”生き物だと思います。
誰だってなりたい自分みたいなのはあると思うし、その理想に近づくことが人間の幸福です。
自分の“理想”“現実”のギャップ。
その差異の少なさが=で幸福度です。
そして、その為には努力が必要なことも理解しています。

でも努力って個人差があるんですよね。
学校の勉強でも、仕事でも、スポーツだろうと芸事だろうと。
「なんでそんなに頑張れるんだ?」って思うような人いるじゃないですか。
一方自分はそこまで生活を犠牲にしてまで何かに打ち込めない。

努力できる人間って、やっぱ自分とは先天的に何かが違うんだ。

そう思っちゃいますよね。
実際そういう部分もあると思います。
でも努力ってそんな単純なものじゃない気がするんですよ。
“努力できること”にだって色々種類があるんじゃないかな?

例えば、ここに「絵、うまくなりたいなぁ」と思っている二人の人物がいたとします。
一方をAさん、もう一方をBさんとしましょう。

二人は同じタイミングで絵を描き始め、元の絵のうまさや経験も同じくらい。
でも3年後、Aさんはメキメキと頭角を現す人気絵師に、Bさんはとっくに絵を描くのをやめていました。

仮に二人の絵の才能(どういう練習をすれば効率的か? などの部分も含め)が同程度だったとして、二人にはどんな違いがあったのでしょうか?

やはり練習量、努力の差でしょうか?
Bさんには努力の才能がなかったのでしょうか?

これは一部分では正解で、一部分では不正解です。

確かにAさんはBさんよりも多く練習時間を取っていました。
でもそれは、別にAさんが特別勤勉な、努力できる人間だったからという訳じゃありません。

単純に、Aさんには努力できるだけの環境があったのです。

例えば、Aさんは親のマンションや駐車場を引き継ぎ、不労所得で生活費を得ていたとします。なんなら、何もしなくても毎月両親が生活費を振り込んでくれるという仮定でもいいです。

Aさんは働いていないので、時間はいくらでもあります。一日の大半を自由に遊んでいたとしても、一日1,2時間絵の練習にあてる心の余裕があります。なんだったら筆がノってきたから絵を徹夜で描いちゃうぞ! と実行しても、翌日に仕事が入ってないのでモーマンタイです。

基本的に練習というのは苦痛です。自ら進んでやるには中々に精神的負担があり、それこそある程度の心の余裕がなければどこかで折れてしまいます。

Aさんは絵の練習を「仕事のようなもの」と割り切ってこなしていました。
一日の大半を自由に使えるからこそ、絵の練習を“仕事”として組み込んでも我慢できたワケですね。

さらに言えば、練習絵でも本番絵でも、褒めてくれる身内が何人か居ました。
芸事は少なからず承認欲求を満たすことが目的でもあるので、一般的に「うまい」と持て囃される前段階で認めてくれる人がいるのはモチベになります。

こうしてAさんは毎日絵を描き続け、気付けば人気絵師となりました。

ではBさんはどうでしょうか?

Bさんはどこにでもいる一人暮らしの会社員です。
平日は朝起きて会社に行って仕事して、家に帰るのは23時すぎ頃。繁忙期は会社で寝泊まりすることもあります。家に帰ったらまずシャワーを浴び、ご飯を食べ、寝るまでの僅かな時間をyoutubeやSNS、若しくは持ち帰りの仕事をし、「明日も仕事かぁ」と思いながら眠りにつきます。

休日は溜まっていた家事をこなし、時には家でも仕事したり休日出勤をして過ごします。
そんな彼がふと「絵、描けるようになりたいなぁ……」と思い、そのためにやるべきことを考えます。

人体構造の把握からツールの使い方の勉強、模写やクロッキー、デッサンなどの基礎練、作品作り。

試したい練習法も色々浮かびますが、全部を試している時間はないのでひとまずジェスドロだけでもやろう! と決意します。

それで実際、一日に30分でもなんとか時間を作って練習をし、10日ほどは続きました。
でも仕事の繁忙期に入ったせいで30分の可処分時間も取れず、暫く練習できない日が続きます。そこでBさんは考えました。

「貴重な可処分時間を使ってまで絵の練習をする意味があるのか?」と。

少しでも無意味だと思ってしまったこと、成果の見込みがないことを続けるには、心と時間の余裕が必要です。

Bさんにはそれが圧倒的に足りていませんでした。

これでもBさんはAさんに比べ怠惰だったと、努力する才能がなかったと言えるでしょうか?

AさんもBさんも、「絵がうまくなりたい」という思いに対するモチベは同じでした。

二人の間で決定的に違うのは“環境”ではないでしょうか?

Aさんには努力できる環境があり、Bさんにはそれがなかった。

努力できるかどうかは環境によります。

勿論、Bさんのような環境でも、睡眠時間を削ってでも絵を描き続けうまくなる人はいるでしょう。それは間違いなく“努力の才能”です。“絵を描く”という行為に対する努力の適正があったと言い換えてもいいでしょう。

“努力できること”にも、「環境によるもの」「生来の資質によるもの」の2種類があるという話です。

「努力できないこと」を嘆くひとは、まずは自分の環境を見直す。もしくは、「たとえ結果が出なくても続けるぞ」と思えることを見つけるといいかもしれません。

一つの対象で努力できなかったからといって、全てにおいて努力の才能がないとは限らないのですから。


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