蟹と戦争

 とにかく俺は蟹の夢に脅かされてた。
 起きたら砂漠のど真ん中に建ってる真四角の塔に寝てて、強烈な光で目が覚めたんだ。何事だと思って、窓から地平線を見ると、遥か彼方に虹色のキノコ雲がひとつ。そして、無数の巨大な蟹が津波のようにガチャガチャガチャガチャ、灼熱の熱湯と化した海から逃げ、泡吹きながら、そのクレーンみたいな脚をゾゾめかしてこちらに走ってくる。目は正気じゃない。蟹の正気も狂気も区別はつかないけど、その状況だと何もかも狂気に見えるよね。俺は世界の終わりを見た気分だった。実際、砂漠とキノコ雲と蟹しか居ない世界なんて終わったも同然だし。

 酒ばっかり飲んでたんで、頭がイカれたのかと思った。実際、寝るたびにそんな夢を見て、怖くて怖くてたまらないんだから。何とか治そうと薬を飲むようにした、何の薬?知らないけど、貰ったやつだよ。効くでしょ?薬なんだから。そしたら、今度は寝てないのに悪夢を見るようになった。そいつがまた凶悪で、血の気を引き抜くにはもってこいのスペクタクルだったんだ。顔がドリルみたいに捻れたお袋が、いつまで寝てんの!なんて怒る夢。まったく、母親というやつはどうしてこう物分かりが悪いのかね。

 ある時、俺の友人のカズヲが言った。中国人は悪党だ!韓国人は悪党だ!と。俺は思った。では、日本人はどうなのかと。彼らはいつも誰かを悪党にして、自分だけ生き残ろうとしている。俺に言ってどうするの?と俺が言うと、君なら分かってくれると思うんだ、と、こう言う。確かに分かった、アジア最弱決定戦が催された時、カズヲがテレビの前に釘付けになるって事だけが。こいつは多分、戦場では何の役にも立たないだろう。魚雷に乗って突っ込めも言われれば、土下座して誰かにその責務を押し付けようとするだろう。きっと切腹はしない。それは正解だが、自分にはできないと分かっていないカズヲの目の輝きは一体どこからやってくるのか不思議だった。俺は誰も憎まないが、こうした無垢無知純粋を混ぜ合わせて作った空っぽのピストルだけは嫌いなんだ。殺せない武器で重装備。怖いのは分かるけどさ。

 アジア最弱決定戦はこの地球で密かに行われている。インターネットと同化した人民の神経は、蟻のような意思共同体になりつつある。けど蟻ほど可愛くない。酸性の情報、その海に浸された脳みそはみんなの物。俺はいらないけど、食べ放題のデザートみたいにぷるぷるしてる。聞けば中国では回転するテーブルの中心にサルの首を出して脳の甘美な舌触りを楽しむそうだ。カズヲがそれを非難したが、俺はカズヲの脳こそ火星人に食されるべきだと思った。

 その証拠に、カズヲが言った。原子炉の有る町に住めば、様々な特権が得られるのだよ、と。俺は金輪際、カズヲの事は信じないと決めた。なぜって?カズヲは安全な場所に住んでいるからさ。言っている事とやっている事が一致しない者、俺は信じない。俺がなぜこうまで争いを憎むのかというと、争いを憎まない人に教えてあげたいからだ。俺は無理矢理憎んでいるんだよ。誰もそれを知らないけどね。
 
 無数の蟹に蹂躙される痛さを、炎に焼かれる熱さを、知らないだろ?あんな痛いものはない。試したから本当だよ。身体中を瓶で切りまくり、腕にガソリンかけて焼いた。おかげで、笑い者だ。みんな笑ってた。バカだってな。それでも、知らないくせに何か言う愚者にだけはなりたくなかった。俺には必要な事だったんだ。最大の衝撃は被爆者の写真に他ならない。なぜ見ただけで苦しさや辛さが分かるのか、小学生の俺は心臓を抉り取られた。ああ、もう昨日まで見たテレビや本はみんなつまらない。これが人間?しかも人間がやった事?こんな凄い事がこの世にあるの?分かったよ、僕もこうやって死ぬんだね。そう思った瞬間、俺は学校など二度と行かないと決めた。いや、行かされたけどね。子どもは無力だから、仕方ない。それにしても、平然とそれを見ながら給食のシチューやマグロのオーロラソースをパクつく餓鬼達の姿には震え上がった。こいつら将来は戦争をやるだろうと確信したもんだ。学校に何かを教える力があるのだろうかと思った。銭の数え方と人の騙し方と徒党を組む有効性は教えてくれるけどね。俺はいまだに足し引きさえ危うい。

 こうして大人になってみると、世の中が如何にバカげた構造をしているのか分かる。友達はみんな変態だし、上司はキチガイだし、部下はバカ。そんで彼女は訳がわからないし、他人はどいつもこいつも、蟹みたいに冷たい血を流してる。その時、俺は知る。あの夢はこの事だったのか!と。

 蟹を食べる時はみんな喋らない。パキパキと甲羅を破って、汁をばら撒き、肉片と残骸でテーブルをこんなにして。後始末もしないで。シミだらけ。
 まさに戦争だよ。野菜も食え、野菜も。


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