違ったままで一緒に居たい
日本人は白黒はっきりつけずにグレーに会話をする。イエス・ノーをはっきりいわないことに日本人の素晴らしさが隠れているとも思う。
そして、わたしもグレーな会話をする人だったし、今もそういうところがある。
傷つけるかもしれない
嫌な気分にさせるかもしれない
嫌われるかもしれない
排除されてしまうかもしれない
そういうこわさ。
でも思う。人間だれしも深い所でつながりたいと思っているのではないか。誰もが自分の意見を大切にされたいと思っているのではないか。
だとしたら、表層的な会話を卒業して“深くつながる”のためには一歩踏み込んだ会話が欠かせない。
他人に興味がない
これは少し前のわたし。そうして人生の8割を過ごしてきた。今も少しは残っているかもしれない。なんて寂しい人生だったんだろうと感じる。
でもその気持ちは段々と薄れていった。
自分への理解を深めている内に、気づけば他者を知ることや話を聴くことが好きになっていった。なにをその人は感じていて、どんな背景があるんだろう。そんなことが知りたい人になっていった。
違いを分かち合えることに喜びを感じる人になっていった。
これは、わたしが自分を深めていった中で一番喜ばしく感じること。なぜなら、自分のことを誰のことにも興味のない、冷たい人間だと自己認識していたところから、そんなことはなかった!と思えたから。
わたしたちは、分かってほしい生き物
人間は自分の価値観を否定されるとネガティブな気持ちになり、価値観を肯定されるとポジティブな気持ちになる。
これは、人間というものがこの地球上に誕生して今日まで栄え、生き抜くために身に着けてきた能力。
色んなものが発展し、進化しているけれど、人間の基本的な能力や構成要素は変わっていないってどこかで聞いた。
それを聞いてわたしはラクになった。
意見を否定されて悲しむことも、肯定されて喜ぶことも当たり前。わたしの器が大きいとか小さいとかそういうことじゃない。人間としての生存本能が働いてるんだぁー!すごいわたし!!って思えるようになったから。
それまでは、自分の意見が採用されなくて悲しんだり、イライラしたりすることは器が小さいからだと思っていたし、意見が採用されて喜ぶと、また褒められて喜んでいるわたし。承認欲求かーー!って…
どっちになっても、なんて小さいヤツだろうって自己否定に入っていった。
でも違う。
人間という動物はそういう生き物。わたしだけじゃない。みんなそうなんだよ。そう思えた時から、カチカチに固まった心がほぐれていった。
恐れないで話してみる
「わかってほしい」という気持ちばかりが先行すると会話にズレが生じだり、話しているのに話していないような気持ちになったりする。
いつだって先出し。それが心地よくスムーズに、楽しく人生を生きていくための秘訣なのかもしれない。わたしはそう信じていて、ここ最近肝に銘じている。ついつい忘れちゃうから、銘じてます。
目の前の人とどんな風につながりたいのか?
それが自分にとっての心地よさにつながっているのか?
「自分はどうしたいのか」それさえ掴んでいれば、一歩踏み込んだ会話をすることに対しての恐れは小さくなっていく。
「違い」を感じたとしても、排除されることも殺されることもない。だから違ったって大丈夫だよ。って人間という動物である自分に何度も伝えていきたい。
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