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他人の間違いをほおっておく勇気

突然ですが、あなたは他人の間違いを指摘しますか?

間違いを指摘する人、しない人

エスカレーターで片側を開けてない人、信号無視している人に注意したくなること、あるかもしれません。インターネットなどで、「私はそうは思わないな」とか「明らかに間違っている」意見を見るケース、よくあるでしょう。

もちろん、誰かが危害を加えていたら、注意した方がいいかもしれません。が、実害が発生していない状況では、どうでしょう?

私は以前日本にいたころ、誰かの間違いを逐一、指摘しないと気がすまない性格でした。それが相手のためになると思っていたし、「正義」が重要だと感じていました。小学校でずっと「他人が間違っていたら指摘してあげる」訓練もしましたから。あと正直にいえば、正義を発動させるのって気持ちいいんですね。

なので、あちこちに出かけていって、それは間違っているとか、そんな考え方おかしいんじゃない、などと指摘したりしていたわけです。

ところが、コミュニティの外に出ると、これがうまくいきません。エスカレーターの議論にしても、いや関西では左側を開けるんだとか、子連れはどうするんだとか、そもそもメーカーの考えではエスカレーターを歩いちゃいけないんだとか、いろんな意見が出てきます。

「遅刻はだめ」と思っていましたが、雑誌の編集部なんて、始業時間があってないようなもので、時間に来ない人がたくさんいます。

だんだん、意味がないのではないかと思うようになりました。

間違いを指摘し続けるとどうなるか

こんなツイートが回ってきました。

このツイートには続きがあって、英国でも人によって、意見がいろいろあるようです。

ここから学べることは、自分の常識を押し付けることは、相手にとってときに暴力になるってことです。他人の間違いを指摘し続けていくと、違う文化の人とは、果てしない論争になってしまいます。

もちろん、固定して流動性がほとんどないメンバーの中では、ルールはどんどん厳格化できます。多分、日本はそうやって細かいルールをどんどん作ってきたわけです。しかし流動性があり、多様性のあるメンバーの中ではルールは曖昧になっていく。

なぜ外国人の間違った日本語を許せるのか

日本でも少し前、お箸の持ち方について大議論になりました。固定化したメンバーでは、ルールを厳しくしていてもあまり問題になりません。

ところが、多様性のある世界では、全員が同じ育ち方をしていません。「日本文化を知らずに育った人」「そもそも不器用で持てない人」「指がなくて独自の持ち方になる人」「教育を一切受けていない難民」いろんな人がいるわけですよね。

そういう人に「お箸の持ち方」を強要できるのか? ミックスの場合はどうするの? 日本人の血が4分の1の人は? 日本人だけど、日本で育ってない人は? 被虐待児は? いろんなケースがある。文化を保持するというのは、結構難しい。

ハンコもそうで、外国ルーツの人が入ってきた途端に曖昧になるルールです。

日本人は、外国人が使う日本語に対しては、敬語など多少間違っていても許すわけです。じゃあミックスの子はどうする? 日本で育ってなかったら? 

多様になると何が間違いかわかりにくくなる

こんな風に、多様性を意識しだすと、何が正しくて何が間違っているのかがだんだん曖昧になってきます。固定化しているコミュニティでは良いのですが、それがその人が信じる宗教や、所属するコミュニティによって、常識はガラッと変わる。

例えばマレーシアでは、お酒を飲むのは悪いと思っている人たちがいます。けれども、他民族、例えば日本人の酒飲みに対し、うるさく注意したりはしないんです。間違ってると思っても放っておく。内心軽蔑してるかもしれませんが。一方で、割と固定化されたイスラムのコミュニティの中ではこっそり飲んでいると注意されることもあるようです。

戌年「犬の置物を公共の場に置くか」が議論になったことがあります。イスラム教では犬を忌避する人たちもいるため、配慮するべきではないかと言う議論が巻き起こったのです。

しかし国全体で「犬を飼うのを禁止しよう」とはなりません。他の宗教の考えを黙認する。

こうやって他人のやっていることに目をつぶり続けていかないと、たちまち社会が不安定になってしまうのではないでしょうか。この国は多様なのでしょうがない、となる。

間違いを指摘し続けるときりがない。そしてそれは、私の世界は正しくて、あなたの世界はまちがっている、と主張することになり、好戦的で危険でもあります。

じゃあどうやって文化を保持するかといえば、それは固定的な小さなコミュニティの中で保持していくようになるのかな、と。

多様性とは、嫌だなと思う他人を放っておくこと

その代わり、多様性を保持する社会では、最低限の相手へのリスペクトについては割と厳しめなルールが形成されています。

それが最近、私がよく書いている、差別発言を公的にしない、他人をリスペクトする、という新しいグローバルな社会のルールなのではないかな。最近、ハーバードの入試でも「差別発言をした学生を受け入れない」と表明して話題になりましたよね。

なんであそこまで厳しいのか。

おそらく、多様性を認めると言うのは、この人の考え方は到底理解できないな、と思う人を直さないで放っておくこと、ではないかなと理解しています。もっと言えばどんな嫌な考えの人も「そこにいて良くて、我々は敬意を持って接する」という態度かと。

この「結論を出さない」感じ、白黒つけず、曖昧な感じで共存している感じ、慣れるまでちょっと気持ちが悪く感じる日本人は多いと思います。何しろ、「正解がある」教育を受けてますから。

もちろん、政治などで白黒つける場面もあるのですが、そこでいちいち相手の人格まで否定するような言い方をしない、というのが大事かと。

だから、多様性のある社会を知りたい、という方は、自分と違う意見をTwitterやFacebookで見たときに、特攻していかないでスルーする勇気も必要かなと思います。相手をあえて見ないということです。

私も、「この意見はさすがに間違ってるな」と思うこともあるのですが、あえて黙っていることが増えました。そしてその方が、結果的に相手とうまくやっていけることが多い。

それから間違いを指摘するときには、いちいち人格否定をくっつけない、ということも重要かなと。「帽子くらい脱げば。ほんと常識知らずだね」と言わずに「帽子を脱いでください」といえばいいんですよね。


その時に正しかった(と思われた)ことが、5年後も10年後も正しいかと言えばそうではない。正しさなんて、時代や所属コミュニティによって変わる曖昧なものです。ルールも時代によって変わっていくから、必要以上に厳格にしても仕方ない。

例によって答えはないのですが、正しいか、正しくないかにこだわらず、中途半端なままにしておく勇気も、ときには必要なのではないでしょうか、と思います。

ではまた。

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