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明日は、君がいない

悼むという行為は美しいと思う。

生まれながら課せられる死という名の絶対法則。
それを拒絶せず、さりとて肯定もせず。
死を死として等身大に受け入れながらも、
そこにはもういない人に思いを馳せる行為。

不謹慎な物言いになるが、千の愛の言葉を並べるよりもそれはロマンチックであるというのが僕の価値観だ。生と死で区分された関係は、なによりも不変なのだから。

だからか僕は、特定の人物の死と語り部が直面し懊悩する物語によく焦がれている。

『Demolition』『ドライブ・マイ・カー』『川っぺりムコリッタ』『Loveletter』『はい、泳げません』『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』──とか。

そうした作品の一例として、
岩井俊二の『ラストレター』にこんな台詞がある。

”誰かがその人のことを想い続けたら、死んだ人も生きていることになるんじゃないでしょうか”

良い台詞だ。
しかし、その言葉を鵜呑みにするつもりはない。

だってそれは気休めで、御為倒しで、自分を納得させるような、自分に言い聞かせるための”慰め”だから。

死は死でしかない。だから、美化をしてはいけない。
心の中で生き続ける人は、もうそこにいない人なのだ。

けれど、あえてその言葉から教訓を受け取るならば。

思い出されなくなった人は、
つまり生きながらも死んでいるに等しいのである。

そこまで考えて──思い至る。
僕は自分の人生の関係者を、はたしてこれまでどれだけ殺してきたのだろうと。

忘却なかったことにして、
誰かの命日を作ってきたのだろうと。

僕はそうしてまた間違える。

うっかりしていた。
だって今日は、悲しまなくてはいけなかったのに。


「クオリティ落ちてない?」

僕の本棚から拝借した漫画の頁を、レモンスカッシュを基調とするネイルの付いた指先でぺらぺら捲りながら。美澪みれいちゃんはそんな明け透けなことを言った。

「あれ。あのパルムの奴って何話だっけ。あの回はまあ好きだけど、それ以降は文の癖が弱くて普通ですね。もしかして手癖で書いてます?」

彼女が品質低下を憂いたのは今読んでいる漫画のことではなく、僕が現在書いているエッセイのことのようだった。彼女にそれとなく薦めた作品に不満がないらしいのは結構だったが、編集気取りのお小言には不満がある。

感想も批評も貰えば嬉しいものだが、彼女の言葉になんとなくの反感を覚えるのは、その間柄ゆえだと思った。

ひとりぼっちの地球侵略/全14巻発売中
⇒愛読書である。

「あたしが義兄おにいさんの文章を読みにくいと思うタイプの人だからってのもあると思うけどさ。もうちょいマジな書き方じゃないと出ますよ、ボロが」

脱力を感じさせる海鼠トーンの、敬語とタメ口が入り交じる変な喋り方。I WANT YOU!! と声優事務所がスカウトするような美声ではないが、特徴的な声をしている。

英語のリスニング問題を読み上げる時の声音が、真っ裸でくつろいでる時の声と書けば伝わるだろうか。

要するに、襟を正せと言いたくなる調子の声だ。

「未開の部族みたいな求愛してる回は中の下。原稿用紙が勿体ない!! が正直な感想でしたね。事情を知らない子があの束とか渡されたら普通怖くて泣く」

「や、僕なりのラブレターだったんだけど……」

「知ってる? 愛情って、相手に伝わらなきゃ意味がないんだよ。あんなの無価値です」

██美澪は、僕の弟の交際相手である。

※苗字はNG。名前の方は漢字を適当に変えれば、別に気にしないよ よくある名前だしとのことだった。

二年前──弟が高校三年生.彼女が大学一年生の頃に交際を始めたらしく、その頃より、彼女とはよく顔を合わせている。頻度で言えば平均して2ヶ月に1度。多い時期は2週に1度の時もあった。彼氏に位置する弟を差し置いて二人で出掛ける機会があり、形容すると腐れ縁に近い。

食べ物の好み、嫌いな漫画家の作品批判、元彼が自殺した時の話、将来の夢、セックスにおける弟の変な腰の振り方、冬場ファッションの拘り──色々と聞いている。

その辺の経緯を話すと長くなるのだが、特に誰かに恥じるような後ろめたい関係ではないし、それに親族の交際相手と出かけるのはそう不思議な話でもないだろう。

よくある付き合いの一環である。

ただそれでもファーストコンタクトは印象的だったので、本題からやや脱線するが書き留めておこうと思う。

「██のお兄さんですか? はじめまして、██の今の彼女です。ちょっと会いたいんですが、幡ヶ谷のコメダで会えませんか?」

弟の交際事情もよく知らない当時の僕に、いきなり弟から電話が掛かってきたと思ったら、第一声がこれだった。変な女に引っ掛かってる……と慄いたものである。

とはいえ事更に断る理由もなかったので、
呼び出しに応じて後日 現地に向かった。

彼女──美澪ちゃんは、コメダ珈琲のマークと右隣のファミリーマートの間で仁王立ちで僕を待っていた。

僕とは性的指向が、というか女性の趣味が正反対の弟が好きそうな娘なので、体躯の都合も相まって その迫力には著しく欠いていたが。

「思ったより普通ですね。██の方が顔も格好いいし」

そんな僕の没個性コンプレックスを、ちくちくと刺激する挨拶もそこそこに、食事の席に着くことになった。

見た目に依らず彼女には健啖家の気質があるらしく、かつパンとポテサラトーストそれにシロノワールを頼んでいた。僕はメロンソーダだけを頼んだ覚えがある。

よく見知った弟と愛情や身体を重ねてるらしい女性となにを話したものか分からず、その注文が届いてからも、しばらくは無言の咀嚼を二人で楽しむことにした。

それから5.6分経った頃か。
そうだ、なんて彼女はわざとらしく前置いて、

「義兄さんって胸の大きい女性が好きらしいですけど、じゃあ あたしのこと好きじゃなさそうですよね!」

けらけらと笑いながら、そんなことを言ってきた。
急な自虐にもなぜか露見してる僕の性癖にも面食らったが、まあ、話したい空気を察したので話すことにした。

「そんなことないよ。女性の価値は胸の大きさでは決まらないと思うし、女性を見る目はあるつもりだから。時として僕もHカップの女性とかもいいなと思ったりもする」

「それおっきい胸の基準、必然的にI以上になってません?」

I思う故にIありってことだね。あとは髪の綺麗な女性にも憧れるかな」

「は? ワケ分かんないんですけど。なんか、適当に喋ってます? 全然面白くないですよ。それともあたしが歳下だからって舐めてんですか?」

こんな感じで。
この日以降はそれなりに打ち解けて、僕らは仲良しになったのだった。それにより彼女の僕に対する接し方が軟化した結果として、この変な喋り方が定着したという運びである。弟の恋人とはいえ、あまり気安くするのもな……と考え、最初は美鈴さんと呼んでいたのだが、

「さん付けで呼ばないでください。キモいんで」

なんて、ぴしゃりと言われてしまったので、今現在は彼女のことを美鈴ちゃんと呼んでいる。

ちなみに僕は彼女のことが好きではない。

それは性格や体型が僕自身の好みと掛け離れているからという理由ではなく、家族面が鬱陶しく明け透けな態度が目立ち時間や約束事に関して極めてルーズだからだ。

あと本当になんとなくだけど、苦手意識がある。

彼女の言動を目にしてると、不思議と苛々な感情が芽生えるのだ。僕の人生のジャンルがラブコメディならば、実は僕は彼女が好きでした──なんてオチが、華麗にカットインするのだろうが、はっきり言ってそれはない。

今の僕には好いている女性がいるし、
その彼女の総てがこれ以上ないほどに自分の好みに綺麗に符合しているからだ。

たとえば声帯。
澄み透った艶のある声は、仄かに篭もる甘さと大人らしさを備えている。聞き心地が良く、僕の人生に副音声解説があるならばその語りは彼女の声に委ねるだろう。

だから、
その一点を拾い上げても。

目の前でホワイトアッシュでウルフカットなヘアをした美鈴ちゃんとは、あまりにも似ても似つかない。

二人の共通点といえば交際相手が既にいるという点くらいだ。しかし僕も好き好んで、他人の彼女を好きになる趣味があるわけでもない。肉親ともなれば尚更である。

ともかく。彼女ちゃんとは別の意味で、
美澪ちゃんは僕の苦手なタイプの女性だった。

「あと話が今だったり昔のことだったりと忙しいから、話の時系列が分かりにくい。エッセイだからってなんか甘えてません? 」

なかなか耳に痛い指摘だった

たとえば今回する話は──正確には去年の8月の暮れの時の話であり、彼女が僕のエッセイにかような批評を下したという点だけに関しては執筆直近の出来事である。

時間軸の意図的な混合。
あまりこういうことはしたくないが、そっくりそのままの時系列で話を並べて面白くなるような濃い人生を、普遍的な僕は過ごしていない。

それでも改めて整理するなら、
原稿用紙で告白、背泳ぎ絶対拒否戦線、砂糖菓子同好会との遭遇、今回、めいろさんとの和解、パルムの買い出し、水泳──という感じの時系列になる。

「というか漫画は貸すけど、読むなら弟の部屋で読んでくれない? 」

この時期は、いわゆる帰省の時期だった。

彼女は変人で、その割にコミニュケーション能力には長けていたので、長期の休みの時は都内に彼氏を放置して単独で彼氏の実家にお邪魔することがあった。

まあ僕も家族も、彼女をあえて邪険に扱う理由もないのでそこはいい。

ただ僕のベッドを占有しないでほしかった。弟の部屋の、弟のかつてのベッドの上で、幾らでも読めばいい。

「ムラつくからやです」

たしかにあのベッドをブラックライトで照らせば、弟が少女体型を想って射出した劣情の残滓による前衛芸術が浮かび上がるのだろうが……。

パンクシーだって顔負けだろう。

でも、そんなの知らない。
勝手にやっとれ。

「東京に較べたらかなり涼しいですけど、やっぱり暑いには暑いですね。義兄さん、なんかアイス買ってきてよ」

好みの女性に顎で使われるのは吝かではないが、好みではない女性に従うのには抵抗感がある。ただしかし、そのお願いを断るほど人情に欠く性格をしていなかった。

僕は机に座って読んでいた小説──入間人間の『電波女と青春男 3巻』──を置いて、私室を出る。

どうせだから彼女ちゃんを買い出しに誘うことにした。

数度のノック。
隣の部屋に這入ると58インチのテレビジョンを前にして、上裸にスキニーデニムという開放的な姿で胡座をかき、彼女はゲームをしていた。

昔、父親が使っていた古びたプレステーション2。

画面を見ると、
極彩色でサイケデリックな番組セットを舞台に人の形を模した人形がバラエティ番組の真似事に興じている。

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音楽に合わせ肩を揺らして、その慎ましいパフィーニップルを微震させる姿を黙々と眺める趣味はなかったので、経緯を説明して、ちょっとした散歩に誘ってみた。

「暑いからヤダ。あとあそこのコンビニ、パルム置いてないじゃない。だから私が行く意味がない。一人で行って」

釣れない態度だった。
本日の髪型。アニメキャラクターさながらのツインテールを、ぶんぶんと首と共に横に揺らして拒否された。
ハワイアンブルーが、チカチカと、視界にうるさい。

まあ、僕としてはどちらでも良かったので、これといって残念ということもなかった。

彼女は、
僕の良心のメタファーを名乗る僕の幻覚である。

僕が東京の自宅でSwitch片手にギャルゲーに興じていると、『この女なんか清楚ぶってるけど絶対ヤリまくってるよ食欲と性欲が比例してるタイプそんな女が好きなんだ趣味悪』なんて茶々を入れてくる。そんな存在だ。
ちなみにバニーガーデンをプレイした時は、どの彼女ヒロインを選んでも小言を言われたのだが、美羽香を選んだ時は特に馬鹿にされた。超好みなんだから仕方ないだろ。

画像はバニーガーデンのヒロインの1人である凜
⇒胸

名前も渾名を付けられるのを嫌うが、いささか不便なので、彼女(かのめ)ちゃんと僕は勝手に呼んでいる。

「いってら〜〜〜」

踵を返して、階段を降り、玄関の方へ。

ポケットに入れていたワイヤレスイヤホンを装着。太陽を盗んだ男のサウンドトラックから『YAMASHITA』を選曲して、旋律と共に土くれで汚れたサンダルを履く。

外では蝉が鳴いていた。
生まれ出づる悦びを、声で体現するかの如く、決死に。

そういえば昔、蝉を題材にした短歌で小さな賞を取ったっけとか思い出しながら。夕刻ならではの纏わり付くような暑さを覚悟して、扉を開け、外に出た。


「人のこと見下してんだろ。分かんだよ。そういうムカつく目ぇしてる。自分以外のことみんなどうでもいいみたいな顔してるしよ。そんなにどうでもいいなら、人に迷惑掛ける前に、お前なんか──さっさと死ねよ」

中学時代。
なぜか僕のことを忌み嫌っていた女子から、よくそんなことを言われた。

そこまで恨みを買うようなことをした覚えはないし、そこまで手厳しいことを言われる謂れもなかったが、”返す言葉がなかった”ということは僕もまたその”意見”に納得していたということなんだろう。

そうは言っても。
まだ死ぬ気はなかったので、首を吊ったり飛び降りたり腕を切ったりすることはしなかったが、彼女からすれば役立たずにして迷惑な存在らしいので極力は避けることにした。狭い世界なのでどうしても限界はあったが。

ある時、体育の時間だったか部活の時間だったか。

彼女のシーブリーズがベンチの近くに置かれているのを見付け、ついでにその蓋が別の配色の物と交換されていることに気付く。交際相手との恋のジンクスって奴だ。

嘘だろ、あんな女に交際相手なんかがいるのかよ。

無性にムカついたので、衝動的に彼女のシーブリーズを川に遠投することを決めた。即遠投。

ぽちゃん。

世界に抵抗の意を示した音としては、それはあまりにもしょぼい落下音だったので逆に気分が落ち込んだ。お前に出来ることはそんな物だと、神様に言われた気がしたから。無力な自分を知ると、途端に、死にたくなる。

「なになになになになになに!?」

すると、困惑の声を上げる男が横合いから現れた。

まるで日本昔ばなしのようなテンポ感である。

健康的な小麦色の肌に一重の瞳とイカした髪型の、一言で表現するなら陽キャっぽい奴。なんだ。誰だこの人。

話を聞いてみると、件の彼女の彼氏様らしい。
あの女の好みっぽいな〜〜とかその時 思ったりした。

気付いたら自分の彼女のシーブリーズを川に投げ捨ててる不審な奴がいたからと、慌てて駆け寄ってきたらしかったが、投げ捨てたのを見られていたのは誤算だった。

そのまま無視を決め込んで帰っても良かったが、変に誤解されるのも嫌なので、懇切丁寧に説明することに。

お前の彼女が嫌な奴だから、シーブリーズを投げ捨てることにした。でも投げたら嫌な気分になった。なんか弾みで死にたくもなっちゃった。だから謝る気はない。でも弁償のお金は払うから、見た事を黙っていてほしい。

と、深深と頭を下げて彼に頼み込んだ。

彼はそれを聞くと、困ったように笑い「お前最高」と僕の肩を叩いた。そのへらへらとした笑顔には余裕があった。一方で僕は、どういう感性してんだと彼に恐怖した。この世において、次に何をしでかすか分からない風変わりな人間ほど恐ろしい者はいないからだ。

リュウジ。

それが彼の名前だった。
苗字はもう覚えていない。

それから、三週に一回くらいのペースで彼と言葉を交わすようになった。でもあれは会話じゃなかった。本当に二言三言の言葉を交わし合うだけ。それだけの関係。

僕としては自分を毛嫌いしている女の彼氏とつるみたくはなかったし、彼としても自分の彼女が嫌ってる男と絡むのはまあ問題があったのだろう。

だから僕らは友達ではなかった。
ほんの少しだけ、他人からはみ出した存在。
居ても居なくても自分の世界が回る些細な人材。

それから半年くらいが経った。

上級生である三年生の卒業式。
全米が泣いたと言わんばかりの感動の押し売りさながらの遣り取りの数々を目にして、右も左も前も後ろも啜り泣く中、僕は真顔で校歌を歌い切っていた。

元より人付き合いの悪い僕だ。
親しいと言えるような先輩も多くなく、いたにはいたけど涙は流れなかった。自分はとても薄情な人間だなと、嫌な気分になったのをよく覚えている。

卒業式を終えると、体育館の入口から校門に向かって生徒や親御様が乱れに乱れる道が出来る。あちこちから祝いの言葉や感謝の言葉 今更のように泣く声も聞こえた。

人情味溢れる暖かい場所とは、
ああいうのを言うのだろう。

なんだかばつが悪くて、僕はその場を離れる事にした。

一人で教室に戻るべく階段を登っていると、リュウジが上階より駆け下りてくる。手洗を済ませていたらしい。

「よっす」

そんな腑抜けた挨拶と共に、
彼は踵を返して、僕に追随してきた。

身内の元に戻らなくていいのかと聞くと、喧しくて面倒だからとそんな素っ気ない答えだけが返ってきた。

教室に戻ると僕ら以外にも何人かが、卒業式なんて関係ありませんみたいな面で座っていたので、なんだか彼らと一緒になるのが嫌で教室には入らず廊下で駄弁ることを決める。関係はある、あるが、共感出来ないだけ。

安いプライドだ。

僕らはそこで適当な話をした。
卒業式が終わったばかりで疲れていたし、趣味や境遇の異なる彼と僕とでは感性の距離も遠く、それはお互いにお互いの言葉に合わせるような気まずい時間だった。

「君ってこういう時に泣いたりしないんだ」

そんな折、少し意外だったことを聞いてみた。

彼女の方はぼろぼろ泣いていた──どういう理由であれ、あの女が泣いてるのは心がスッとした。きみは泣き顔が世界一似合うねとか煽りに行きたかったくらいだ──ので、その冷めたような、距離を置いた態度が妙に印象的だと思ったのかもしれない。

「そういう京樹も泣いてなかったじゃん」

そう言われると返す言葉はないが。
しかし僕と彼では生き方が違うし、どちらかと言えば彼は卒業式で泣く方の生き方をしている。どちらが優れているという話でもないが、少なくとも僕はそういう時に泣けないことを恥ずかしく感じていた。

自分はなにかを致命的に間違えている。
漠然とした、そんな感覚。

悲しみを前に、そのことにちゃんと悲しめない自分に強烈な嫌気が差して死にたくなる、あの感覚。

「でもさ。泣くことが悲しいの全部じゃなくね?」

気さくな調子のあっさりとした一言。

当時の僕にはない考え方だった。
だからこそ受け入れ難く、それを適当にあしらい、また別の話をして その場を終えた。

振り返れば、それは幼気丸出しの対応である。
彼に虚を突かれたのが不快だったのかもしれない。
そう考えると、なんだかひどく格好悪かった。

それ以降は話したり話さなかったりの間隔が更に不規則になり、その距離感のまま、卒業の日を迎えた。

進学先は違くて、卒業の日も顔を合わせたりせず、別れ際に彼のことを思い出すようなこともなかった。


目的地のコンビニまでは約25分。
都会の距離感に慣れていると相応に遠く感じるが、音楽好きの僕からすると、実のところ そこまで苦でもない。

音楽を聴きながら歩いてる時の気分は、さながらレッドカーペットを歩く流行最前線の大人気俳優である。良い感じのフレーズを演技ぶって口にしてみたり、脳内で展開される存在しない映像を夢想して身体を揺らしたり。

そんな現実のMV化に暇がない。

カノエラナの『恋する地縛霊』を聴き終えた辺りで、国道246号線に出た。交差点。コンビニのある向こう側に渡るには地下道を用いる必要がある。そういう場所。

その向こう岸に、見慣れた電柱が見えた。

何の変哲もない──もう血の跡なんて残ってるはずもない電柱。けれどそれを見る度、僕は彼のことを否が応でも思い出してしまう。薄情な人間の僕だとしてもだ。

我ながら、これは出来すぎな話だと思う。
しかし誓って言うがこれは嘘ではない。

ウチの近所に位置するあの場所で、
かつて彼が事故死したことは。


彼が事故で死んだと知ったのは、
高校一年の秋の終わりのことだった。

「え、リュウジなら先々月 事故で死んだよ」

なんて軽い調子で、
中学時代の友人から彼の死を聞かされた。

バイクを運転していたら、電柱に激突して、その時の当たり所が悪かったようでそのまま死んだそうだ。

それは劇的でも詩的でもない、よくある死の形。

はっきり言えば僕はぜんぜん悲しくなかった。

「そうなんだ」

そんな一言で彼の死に対する反応を済ませた。
何故なら僕は彼の友達ではなかったので、そのことを悲しむ資格も、流してやる涙もないと思ったからだ。

彼が死ぬ前に走馬灯を過ぎらせていたとして、そこに僕の出番はきっと一秒だってなかっただろう。彼と彼の人生に何の影響も及ばさない背景化された存在。

それが僕という人間だった。

だから。
話はもうそれで終わりのはずだったのだが、よくよく聞けば、彼が死んだのは僕の家の近所と言うではないか。彼と例の女の交際は続いていると聞いていた。せっかく縁が切れたのに、僕の近所にあの女が訪れる可能性が生まれたことの方が、遥かに印象的で普通に嫌だった。

そんなとこで死ぬなよ、と。

結果的にそんな危惧は杞憂だったけれど、その交差点を通る度、彼が死んだ場所に飲み物や菓子類が置かれているのを幾度も目にすることになった。

そして、それはその年だけに限らなかった。

毎年毎年 彼が死んだ時期になると、同じように電柱の傍にはお供え物が置かれていて、上京して実家が帰省する為の場所になってからもその光景をよく目にしていた。

人望があって羨ましいと思った。
仮に僕が同じように死んだとして、遅くとも半年後にはそんな人もいたっけと早々に忘れ去られるに違いない。
所詮は誰かの人生に背景化する気薄な存在が僕である。

──それは、僕が好いている彼女にとってもだろうか。

少し考えてみる。
希望的観測としてほんの少しは悲しんでくれるとしても、それが心残りになったり、何某の心の傷に成り得ることは絶対にないだろう。なんなら、そんな人もいたねすらも、僕にとって都合が良い理想論だ。

そんなとこ私に見えるところで死ぬなよ、って。

……なんとなく、嫌な気分になる。
直視したくない。
しかしそれは悲しくとも妥当で適切な現実像だ。

陽炎のように曖昧ではなく、蜃気楼のように茫漠ではない、当然至極の見え透いた解答。

話を戻そう。

ともあれ彼の存在が忘却されることはないようだった。
結構なことだ。僕は彼のことをよく知りはしないから、その厚い友情だか恋愛だかの価値を測れないけど、きっと彼は僕が知ってる以上に良い奴だったんだろう。

そんな想像をすることは容易だった。

しかしそれでも、僕がその場所で彼のことを悼んだことは一度だってなく、その場所を通る度に彼のことを思い出すもただただ通り過ぎ続けた。それは他人事で、他人事だからこそ僕がその場所ですることなんてなかった。

僕と彼の距離関係。
それは人生という名の数多くの人が行き来する交差点で、顔を見合せ立ち止まることもなく、何度かすれ違っただけの気薄な関係。

僕にはそれがよくよく分かっていた。


その地下道は、黒ずんだ横長の階段と蜘蛛の巣が張った通路で舗装されている。

これに関しては昔からそうで、一向に綺麗にされる気配もなく、衛生観念C-の状態を維持し続けているのだ。もう慣れ親しんだ死体が埋まってるような異臭の中、必要以上に肺に空気を送らないようにして、僕は地下道を渡って外に出る。

正面に横断歩道、
そして手前に例の電柱。

歩行のための信号は赤を示していた。
所在のない視点を、なんとなく電柱に向けてみる。

「…………」

そして、僕は”それ”を目にして、瞬間的にブチ切れた。

信号が青に変わったから、僕は立ち止まらず、コンビニの方へと気持ち早足で向かう。

「いらっしゃいませー」

僕が無性にムカついたのは、たとえば彼の悪口が書かれていたとか、あるいは彼の死を冒涜するようなことがあったとかではなく。

そういうことではなくて。

その場所に”何も置かれていなかったこと”に、
僕は激しい怒りを覚えたのだ。

その日はきっと、彼の命日じゃなかっただろう。
ただ時期が近いだけだ。なんなら今日に限って置かれていないだけで、昨日や一昨日は違ったのかもしれない。

そもそもちゃんとした墓があるはずで、
死んだ場所にお供え物が何年も何年も置かれ続けるという状況が特殊である。参るならば墓に参るべきだ。

でも、そんなことは僕には関係なかった。

思えばこれは勝手な話である。
七年以上も彼の痕跡を見て見ぬ振りをしてきたのに、その痕跡がなくなったと認識した途端、行き場のない身勝手な怒りを僕は芽生えさせているのだから。

僕は彼の友達ではなかった。
なかったから、好きな飲み物も菓子類もぜんぜん分からなくて、そのことがなんだか無性に恥ずかしかった。

「ありがとうございましたー」

誰かがその人のことを想い続けたら、死んだ人も生きていることになる──だから、目の前で、彼が二度目の死を迎えている。

そんな姿に僕は耐えられなかった。

ああそうさ。
明日は、君がいないのかもしれない。
もしかしたら、その次の日もその次の週もその次の年も、彼はもう悼まれることはないのかもしれない。

でもそんなのあんまりじゃないか。

僕と彼の距離関係。
それは人生という名の数多くの人が行き来する交差点で、顔を見合せ立ち止まることもなく、何度かすれ違っただけの気薄な関係。

たとえそうだとしても。
それくらいのことをするのも、されるのだって、そんなのは当たり前であるべきはずだ。

今日、彼がいたことを思い出す誰かがいていいはずだ。それが他人に等しい間柄だった僕だとしても。

そうすればきっと、彼はここに居るということになる。

ひと時の気持ち。
明日には消え失せる気まぐれ。

でもこれは決して同情じゃなかった。
僕はただ、ムカついただけだ。

僕は買い込んだ飲み物と菓子類を電柱に添えて、なんとなくその場所に数分だけ留まり、家に帰ることにした。

薄情な僕だから、彼と会うことはもうないのだろう。
機会があっても数年後とか。

そんなことを考えながら、地下道の階段を降る。

千二百六円の思わぬ出費。
それでも、なんとなく、気分がスッとした気がした。

「…………あ」

地下道を渡り終えて、
しばらく歩いたところで思い出す。

美澪ちゃんから頼まれていたアイスをまだ買っていなかった。衝動的に彼へのお供え物を買ってそれきりである。つまり僕に求められるのは情けのないUターンで。

つまり、彼とまた顔を合わせる羽目になる。

その場をいい感じに立ち去ろうと思ったのに、まったくもって格好が付かなかった。

馬鹿をやるほど図太くなく、深刻ぶっても様にならない。憂鬱面があまりに画にならず、さりとて楽観的にもなれない。葛藤と戸惑いの中、決断と選択を間違えて。

今日もこうして不本意なやり直しを繰り返す。

要するに、
やっぱり僕は格好悪い男だった。


「元彼のこと、今はどう思ってる?」

美澪ちゃんに、コンビニで購入したハーゲンダッツ──帰るに遅れたなりの誠意である──を渡しながら、ふと気になったので聞いてみた。

しかし聞いてから、流石にこれは配慮に欠く質問だったかなと思い至る。訂正と謝罪の言葉を考えていると、

「あ、それ覚えてたんだ」

意外そうな声を上げて、素直に驚いていた。

「いや、なんかもう興味ないのかと思ってたので……義兄さんはあたしの話とかほぼほぼ忘れてるとばかり」

人に誇れるような記憶力はしていないが、聞き流しの達人さながらの評を受けるとそれなりの不服がある。

対面に座る美澪ちゃんは、銀匙でハーゲンダッツを弄びながら、んーっと少し悩む様子を見せた。

”話しにくい”というよりは、
はたしてなにを話せばいいのかに悩んでる様子だった。

「よく分かんない。が、正直な気持ちかも。呑み込めてないし、呑み込む必要もない気がする。でも少なくとも言えるのは、今はもう悲しくないってことですね」

ほんの数年前のことなのに?

「ほんの数年前のことなのに。なんていうか人間ってそんなもんじゃない? 自殺されたから私も死んじゃえとはまあならないよ。だって私と彼は他人で、それと健全な関係だったしね。物語みたいにずーーっと引き摺るお別れなんてあんまないですよ。てか基本ない。なんなら最新版の彼氏もいるしさ。ペニスは元彼の方が大きかったですし、身体の相性とか趣味が合致してたのも元彼の方ですけど」

誰もそこまでは聞いてない。
このまま明け透けな惚気に突入されたらどうしようとちょっと身構えたが、流石にそれは杞憂に終わった。

「でももう自分がそれを悲しくないと思ってることがちょっと悲しい気もして──そういう矛盾した気持ちって、すっげぇダルい。そういうの考えたくないんですよ。極力。だって疲れるじゃん。よくわかんないフリしてたいんです」

元彼や元カノは、その人にとって死んだ存在になる。
世の中にはそんな言葉がある。
今してる恋こそ正しく初恋だと、そう言わんばかりに脳味噌を恋愛脳へ切り替えていく。

残った気持ちや問題を自覚的に曖昧にして。

「人って、曖昧なまま幸せになっちゃダメなんですか?」

考えることを放棄して。
悩ましさから逃避して。

「別に逃げてもいいでしょ。感情のままに何もかもぐちゃぐちゃにすればいい。責任なんてそんなの知るか〜って台無しにしちゃえばいい。恋愛の本質は感情下の打算だから。……と、あたしはまあそう思いますね」

同意できない考えだった。
納得出来ないことがあるなら人は納得出来るまで考えるべきだと僕は思うから。誰しも その責任を放棄してはいけないし、問題からの逃避が意味するのは自分や他人が尽くした誠実さに対する裏切りだ。

それは絶対に許されない。

「そういうところありますよね。あたしからすれば、それってなんか怖いですよ。そこまで拘る意味あります? てか、義兄さんって何考えてそんなことしてんですか」

呆れたような声を伴わせ、彼女は僕を批評する。

感想も批評も貰えば嬉しいものだが、彼女の言葉になんとなくの反感を覚えるのは、はたして何故だろうか。

「怒らないで聞いてくれますか?」

ハーゲンダッツを食べ終えて。
美澪ちゃんは、改まってそんなことを言ってきた。

「分かった。怒らないよ。言ってみな」

「貴方を見てると──イライラする」

流石にショックな断言だった。
好かれているとは思っていなかったが、そんなにも嫌われてるとは思ってなかったので。

「嫌いとかじゃない。嫌いだったら仲良くしてません。ただよく分かんないんですよ。そういう生き方。誰に言い訳をしてるんですか。それって自分に言い聞かせてるだけじゃないですか。人間なんだから、もっと無責任になればいいじゃないですか。義兄さんの本音って本当に”それ”ですか?」

僕は応えなかった。
よく分からないからか、
よく分かりたくないからなのか。

考えることを放棄して。
悩ましさから逃避して。
曖昧であることを選択した。
不本意ながら。

「もしかして義兄さんは、自分がなにをやってるのか。なにがしたいのか。ホントはもう、自分でもよく分からなくなってるんじゃないんですか?」


「達観しちゃって馬鹿みたい」

庭先のウッドデッキの欄干に座り込み、彼女ちゃんは生まれたての少女みたいにシャボン玉を吹いていた。

流石に外なので、先程とは異なり服を着ている。
涼し気な寒色を伴うサマーニット。
厳密には僕以外には彼女の姿は見えないから、服とか着る必要はないのだが。

僕は彼女の隣に座って、ふわふわと宙に浮いては弾けるシャボン玉に目を向ける。

僕らの視線は交わらない。
だって隣にいるから。
隣にいれば、その人の本当の姿形と正面から向き合わなくて済むから。信用してる振り。理解してる振り。心の底にある本音を見抜かれずに済むからこそ、安心する。

「憂鬱な顔してれば世の中の全部が分かるって顔してる。ははは、笑えるわ。そんなわけないでしょ。アンタはただ、自分勝手な感傷に浸ってるだけ」

シャボン玉の対極を往くような、刺々しい口調だった。

「そして、人の死を体良く利用してるだけ。どうせこのことだってエッセイとして書くんでしょ。いったい何様なのかしら。人の死を悼めたからって、それが良い人の証明だとでも言うつもり? 誰も言わないなら私が言ってあげる。アンタは、とんでもない人でなしね」

彼女が僕の方を見た気がした。
視線が交わるのが怖くて、僕はそれでも宙に視線を向け続けた。シャボン玉はもうそこにはないというのに。

「アンタからすれば彼は他人に等しい存在だったんでしょう。そうね、アンタは薄情な人間だからそう思うのかもね。でも彼も同じだったと考えるのは傲慢でしょ。自分が他人にとって大した存在ではない──そう思うことこそが、なによりも自分や他人に対して無責任なのよ」

そこにいるというだけで生じる責任。
好かれたり、嫌われたり。自分に向けられる眼差しを、自分で決めることは出来ない。

それってあまりにも無力だ。

「だからアンタの人生は、きっと一人称でしか機能していない。馬鹿馬鹿しい。本当に馬鹿馬鹿しいわ。そんな みっともない真似──さっさと、やめなさいよ」

それだけ言って、彼女ちゃんは欄干から降りて、家の中へ戻って行った。僕はただ一人その場に取り残される。

蝉が鳴いていた。
あとは死を待つばかりなのに、嫌になるくらい、必死に。

それを聴いて。

うっかり。
本当に、うっかりだけど。
死んでしまいたいと思った。


2024/7/29 都部京樹
執筆BGM
『Os-宇宙人』エリオをかまってちゃん
『そなちね』Tempaley
全体プレイリスト
https://open.spotify.com/playlist/4F2A0A5x6T5DZLZXDXuEoB?si=bh3iMOhbQniu_qIMVf7gXQ&pi=a-CUC9eucKSwag

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