大浦天主堂|観覧ルート #22~26
22.告解室(木製)
信者が自らの罪を司祭に告白し、神にゆるしを得るための場です。告解室、告解部屋などと呼ばれており、カトリック教会における秘跡の一つである「ゆるしの秘跡」のために設けられた部屋です。伝統的に聖堂の中に設けられています。
部屋は司祭と告白者で区切られ、また格子によって仕切られています。
複数の告解室を持つ教会もあります。
プティジャン神父の記録によると、天主堂創建当時、浦上をはじめとする潜伏キリシタンたちは、痛悔(ゆるしの秘跡)についての本を読み、暗唱できるにも関わらず、その意味を理解していなかったそうです。彼らはプティジャン神父が告解を聴く司祭であると知って、大いに喜びました。
23.楽廊への階段(立入不可)
入口の上部(2階)に設けられた、オルガン席や聖歌隊のためのエリアに上がる階段です。
大浦天主堂の楽廊エリアはおよそ2間ほどで、ここには古い典礼用のオルガンが置かれています。
フランス・パリ在住のオルガン製作技師、アルフォンソ・ロドルフ父子によって製作されたものと伝わっており、貴重なものですが、現在は使用されていません。
2階からは、正面壁にとりつけられた尖塔アーチ形の高窓を通して、長崎の港が一望できます。
24.創建時ステンドグラス(バラ窓)
創建時の大浦天主堂の正面壁には、バラ窓と呼ばれるステンドグラスがはめ込まれていました。
バラ窓とは、特にゴシック建築において、ステンドグラスを用いて作られた円形の窓を言います。
正面に飾られていたバラ窓は現在、南西にある礼拝室側面壁に付けられていますので、建物の外側から見ることができます。
両側壁の窓やその他の窓に使用されているのは、プティジャン神父の書簡によると、フューレ神父が長崎の商人を介して購入した色ガラスです。
これらは原爆の被害は受けず、大部分が当時のものと考えられます。
25.旧羅典神学校
天主堂の創建から間もない頃、プティジャン神父らは直ちに神学生を募集し、初代司祭館の屋根裏を利用して、日本人神学生の育成に着手しました。
1867年の浦上四番崩れの後、キリスト教徒への迫害の危険が迫ると、神学生たちを2度に分けて海外(マレー半島ペナン神学校)へと避難させます。
やがて禁教令の高札が撤去された後の1875年に「長崎公教神学校」が開設されました。
就学期間は予科と本科を合わせて12年間、当時の授業はラテン語で行われていたため、「羅典神学校」と呼ばれました。
1882年に第1回卒業生の中から3名の司祭が誕生し、その後も多くの日本人司祭を輩出しました。
近年、この建物の設計図が、長崎市外海地区の旧出津救助院に保管されていた遺品資料にあったことから、ド・ロ神父の設計であることが確実になりました。
堅牢な木造建築で、1972年に国の重要文化財に指定されています。
26.旧長崎大司教館(旧司祭館)
長崎に赴任し、大浦天主堂の建造を目指したフューレ神父らは、天主堂に先立ち、まず執務や居住のための司祭館を建設しました。
数回の増改築を重ねたこの建物は、明治末頃には老朽化が進んだことから、1915年に現在の建物に再建されています。
設計は当時外海地区の主任司祭であったド・ロ神父によるもので、敷地の高低差を巧みに利用した煉瓦造り(及び木骨煉瓦造)の建物です。
「教会建築の名手」といわれたド・ロ神父は、完成の前年に工事半ばで逝去してしまったため、この建物が最後の建造物となりました。
1959年5月に長崎教区が長崎大司教区へ昇格し、同年に山口愛次郎司教が大司教に任じられたことに伴い、「長崎大司教館」と称されるようになりました。
その3年後の1962年に司教座聖堂が浦上へと移されたため、以降は「旧長崎大司教館」と呼ばれています。
2011年に長崎県の有形文化財に指定されています。
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