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大浦天主堂の観覧ルートをイラストと写真でご案内します。案内図の番号は、記事内の見出しの番号に対応しています。
これからご訪問の方は参考にしていただけますし、ご訪問を終えた方には追体験としてたのしんでいただければ嬉しく思います。

番号順に、記事をわけて公開してまいります。


大浦天主堂境内図

8.小バシリカ銘板

2016年4月26日、ローマ教皇庁により大浦天主堂は「小バジリカ(Basilica Minor)」の称号を与えられました。
「バシリカ」とは、建築形式を表す他、教皇によって特別な役割を持った教会堂であると認められたことを意味します。
大バシリカ(Basillica Major)と小バシリカ(Basilica Minor)とがあり、前者はローマの四大聖堂(サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂、サン・ピエトロ大聖堂、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ聖堂)にのみ与えられています。
大浦天主堂は、日本で唯一の小バシリカ(Basilica Minor)です。

9.洗礼室

中央に六角形の木製洗礼盤の設えがある一画には、かつて洗礼を受けるイエス・キリストの絵画が掲げられてあったそうです。
洗礼の秘跡は、ローマ・カトリックにおいて。非常に重要な儀式です。
伝統的に、カトリックでは幼児期に洗礼を行いますが、成人となって受ける場合もあり、その場合、聖書や教理を学ぶなど段階を踏み準備を経たうえで、洗礼式が行われます。

洗礼室

10.聖フランシスコ・ザビエル像

フランシスコ・ザビエルは、1506年にスペイン・ナバラ王国に生まれました。
1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたことで知られています。
パリ大学に在学中、同郷のイグナチオ・デ・ロヨラと出会い、1534年8月15日にイエズス会を創立したメンバーの一人です。
1537年に司祭に叙階され、宣教のためにゴアやマラッカを訪れました。日本人アンジローと出会いがきっかけとなり、1549年に日本後を踏むこととなりました。
中国への宣教を目指す途上、上川島じょうせんとうにて帰天し、1622年3月12日に列聖されました。

聖フランシスコ・ザビエル像

11.聖ヨセフ像

イエス・キリストの母マリアの夫であるヨセフは、新約聖書の『マタイによる福音書』『ルカによる福音書』に登場します。ナザレの大工職人でした。
イエス・キリストが生まれた後は、ユダヤの王・ヘロデによる幼児殺害の命令から逃れるため、エジプトに避難しました。王の死後にイエスとマリアと共にガリラヤのナザレで暮らしたとされます。
アトリビュート(象徴)は鋸や定規といった大工道具、幼子イエス、百合の花で、守護の対象は全教会や労働者の他、家庭や未婚女性などとされています。
1870年に教皇ピウス9世によって「普遍教会の守護の聖人」であることを宣言されました。
記念日は5月1日です。

聖ヨセフ像

12.イエズスの聖心像

イエスは、母マリアの処女懐胎によって、ベツレヘムに生まれました。パレスチナのユダヤの地、ガリラヤ周辺で宣教活動をしたと言われています。
彼は様々な教えを説き、病人の治癒など数々の奇蹟をおこし、多くの弟子がいました。代表として12使徒がよく知られています。
新約聖書によると、過越祭及び除酵祭が近づき、多数の巡礼者が訪れる時期にエルサレムに入城したイエス・キリストは、ゴルゴタの丘で十字架刑に処せられました。そして自身の予言のとおり、3日目に復活し、そののちに昇天しました。
「聖心(みこころ)」とは、イエス・キリストが心臓を指し示している様子を表しており、かつイエス・キリストの人類に対する愛の象徴、またそれに対する崇敬を意味しています。

イエズスの聖心像

13.プティジャン司教の墓所(聖体拝領台床下)

大浦天主堂の聖所の床下には、プティジャン神父の墓所があります。プティジャン神父が浦上の潜伏キリシタンたちと出会った際、跪いていた場所と伝えられています。
プティジャン神父は1875年に渡欧し、日本の教区を南北に分割する申請をしました。その許可を得て南緯教区長として数年を過ごした後、心臓発作に倒れました。
一時は持ち直したものの、長年患っていた肝臓病なども重なって衰弱し、1884年10月7日の午後に息を引き取りました。
日本に来て22年、司教となって18年を過ごしたプティジャン神父は、55歳の生涯を長崎で終えました。
聖所の壁には石板墓碑が据え付けられており(⑰)、ラテン語と漢文による碑文にはプティジャン神父の功績が記されています。

プティジャン司教の墓所(聖体拝領台床下)

14.司教座

司教座(カテドラ)とは、教区長である司教または大司教の司式においてその権威を象徴する椅子です。
司教座が置かれた聖堂を司教座聖堂(カテドラル)と言います。
長崎における司教座聖堂は、1865年の創建以来、大浦天主堂におかれていました。
この司教座は、1962年に浦上天主堂に移されるまで、大浦天主堂が司教座聖堂であったことを示すものです。
大浦天主堂の聖所に現存する司教座の上部には、壁面から木製の天蓋が吊り下げられています。
天蓋を含む全体にゴシック調の木彫が施されており、周囲の調度類とよく調和しています。

司教座

▽観覧ルート #1~7


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