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学校の「当たり前」をやめた。

 
 公立中の校長先生(工藤勇一さん)が書いた本です。ベストセラーなので、すでに読んだ方も多いかと思います。個人的には「それはどうなの???」と思う部分もありますが、概ね賛同できる内容です。

※違う人間なのだから意見が違うのは当たり前です。考え方が何でもかんでも100%完全に一致するのは安倍さんとトランプさんくらいですよね(-_-;)
 教員なら一読する価値はある本だと思います。

 今、日本の学校で行われている教育活動の多くは、学校が担うべき、「本来の目的」を見失っているように感じます。加えて、その事実に多くの教育関係者が気づいていないことに驚きます。
 子どもたちに必要な力をつけるための「手段」であるはずの学習指導要領や教科書が「目的」となり、消化してこなす対象となってしまっているのです。このような「手段の目的化」は、学校の至る所で見られます。服装指導などはその典型で、「何のために」という目的もよく考えられないまま、多くの教員が続けています。

 この「手段の目的化」が大きな問題だと、私も常々思っています。もともとは生徒たちのために始められたことでも形骸化し、「本当にこれは生徒のためになっているのだろうか?」と思いながらやってる仕事ありませんか?
 そして率直に意見を出し合えない雰囲気。これは学校だけじゃなく、日本社会全体に言えることだと思いますが、上司が好まない意見は出しにくかったり、なんとなく慣例通りに済ませたり。行動の基準が「よりよい教育にするため」ではなく、「怒られないためにはどうするか」になってる時ありませんか?

 以前、将棋棋士の藤井聡太7段が、担任教員に「授業をきちんと聞いているのに、なぜ宿題をやる必要があるのですか?」と聞いたことが話題になりました。その後、担任が宿題の意義を説明し、藤井7段は納得して宿題を出すようになったそうですが、彼の主張はとても的を射ているように思います。日々、将棋の世界で自らの技能を磨き、追求し続けている彼はすでに十分に自律した人です。自分が何をすべきかという優先順位が分かっている彼にとって、その宿題に費やす時間がもったいなかったのだと思います。
 かねてから宿題の存在意義に疑問をもっていた私は、赴任2年目に、まず夏休みの宿題をゼロにする方針を打ち出しました。その後、段階的に宿題をなくしてき、4年目を迎える頃に「全廃」に踏み切りました。当初、私が宿題全廃の方針を出したことに、一部には疑問を持ち、抵抗感を示す教員もいました。当然のことだと思います。
 私はこう説明しました。「批判や誤解を恐れずに言えば、教員が宿題を出すのは子どもたちの『関心・意欲・態度』を測り、評価(通知表)の資料とするためではないですか。もっと私たちは専門性を発揮しないといけない」と。
 学校で宿題を出されて子どもが勉強机に向かっていれば、勉強の習慣がつくと、保護者は安心するに違いありません。しかし本当に大切なのは、勉強時間よりも勉強の中身です。自律的に学ぶ経験を積まないと、決して工夫して仕事ができる人にはなりません。
 もっと言えば、私は、学校でしっかりと勉強をして、家では、好きな音楽を聴いたり、本を読んだり、スポーツをしたり、あるいは、ぼんやりと思索する時間の方がよほど有意義だと思っています。そうした時間の中で、自分自身の内面や思考が整理され、大切なことに気づいたり、思いついたりすることは、たくさんあるに違いありません。

 これも「どれだけ覚えたか」を競う入試のあり方や、「成果より長時間がんばることを尊ぶ文化」なども変えないと難しいとは思いますが、教員も保護者も意識改革が必要だと思っています。何でもかんでも学校に管理してもらうのではなく、自ら考え行動できる、自律した人間を育てるためにはどうすればいいのかを考えていきたいですね。


 それを考えるためにも、教員自身にもっと余裕が必要です。

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