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橋本遊郭が見に行けるレトロモダンに

時は1600年ほどの江戸の最初、その頃にはもう橋本には遊郭があった。
最古の花街である島原より古い遊郭。

橋本は東海道五十三次には入っていませんが、東海道の延長で大阪の京橋までの京街道が設置され、東海道五十七次とも呼ばれます。このように京都と大阪の淀川は交通の要所でした。

1932年には駅前の小さな区域に貸座敷が86戸、芸妓3名、娼妓675名が在籍。石清水八幡宮への参道でもあり、精進落としとしても遊郭が栄えます。

しかしその後、1957年の売春防止法により遊郭は下宿や料理屋に。
淀川温泉を開発したが冷泉。旅館は繁盛せず橋本は寂れていってしまいます。

京阪橋本駅を降りてすぐ目の前ある遊郭跡

老朽化が進むが売却しようにも、妓楼は大きすぎて住宅用に転用がしづらい。リノベーションするにも当時の雰囲気を残す必要があり、大きく技巧を凝らした遊郭の修復は非常に高額になる。

遊郭ということから、違和感を覚えてそっと引っ越していく人。
住んでいても地域に関することに口が重い人と非常に繊細な土地。

こうしたことから、ひっそりと遊郭が当時の姿を残したまま少しずつ朽ちていっています。

そんな中、「建物は悪くない。壊してしまってはもったいない。」とリノベーションをしている「橋本の香」という元・遊郭があります。

旅館やマッサージで利用ができる元・遊郭「橋本の香」

外観は唐破風に欄間、色ガラスと遊郭らしさが残っている。
近くの遊郭跡もステンドグラスやタイルが施され、非日常を演出してます。

中に入るとまた意匠を凝らした玄関。
一階は経営者の部屋と張り店(遊女を見せる場所)。
お客は2階にあがり、案内場(相談室)に移動。
そこで「ひっこさん」(遣り手ババ)が遊女の部屋へお客を誘導していたのだそうです。

経営者の部屋

遊郭の真ん中が庭になっているのは空気が循環するため。
欄間があるのも肺が悪い人の対策で、昔の知恵がつまった建築でした。

2階には3.5畳の押し入れのない小さな部屋がいくつも並ぶ。
(大和郡山の遊郭などはもっと狭かったそう)

楼主から遊女は部屋を借りていて、「居稼ぎ」なら掃除をし、生花をして客を迎え入れる。
「送り込み」ならチェンジなしで男性客たちは「公娼(公に営業を許された娼婦)」たちと遊んでいった。

知らなかった色町の痕跡。
でもそれだけではなく遊女たちは元々、ファッションリーダーのような存在で、文化を担っていたということも知りました。

遊郭から花街ができた。
遊女たちが文化を担当していましたが、江戸に色ごとと文化が芸者と娼妓に分離。
演舞場(京都では歌舞練場という)で芸を磨き、検番は遊女にならないようにと置かれました。

与謝蕪村「若竹やはしもとの遊女ありやなしや」
というように歌にも残る橋本遊郭。

寂れた町が少しずつ復活していく姿は何か嬉しい。これからも応援していきたい。

ほかにも色々と数ヶ月に渡り取材した内容はオマツリジャパンの
京都「橋本遊郭」妓楼が茶楼に!見に行ける遊郭へ潜入して当時の様子を聞いてみた
という記事も読んでいただけると嬉しいです。

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