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この洋書のなかで、三島由紀夫について言及してる部分があるよって、三島由紀夫に興味ある人にどうやって知らせたらいいの?

A Partial Enlightenment:
What Modern Literature and Buddhism Can Teach Us About Living Well Without Perfection

「完全ではない悟り:解脱しなくても、現代文学と仏教がよりよく生きるために教えてくれること」
by Avram Alpert
April 2021 (Columbia University Press)

三島由紀夫の研究者は、どうやって三島について言及している本にたどりつくのか?

題名や副題にMishima=三島と入っていれば検索でヒットするだろう。

最近ではハワイ大学出版局(University of Hawai'i Press)から、「ミシマ、美のテロリスト」Mishima, Aesthetic Terrorist: An Intellectual Portraitというのがでている。

でも、題名にも副題にもMishima=三島の文字がなかったら?

今のところ、本の内容までは検索サイトでヒットしない。

たとえば今回紹介する本は、題名からだけでは三島由紀夫について言及していることはわからない。

英語の解説文を読んで初めて、「戦後日本の三島由紀夫」Yukio Mishima in postwar Japanという文章に出くわし、どうやらこの本は、三島由紀夫について何か書いてあるらしい、ということがわかるのだ。

こういう本を、三島由紀夫研究者や、三島由紀夫に興味のある読者に、どうやって知らせたらいいのか?どうすればたどりつけるのか?

だいぶ前に、新刊カタログを読んでいて、Makoto Shinkaiという名前に出会った(Shinkai Makotoだったかもしれない)。「だれだろう?」と思って、ググってみたら、どうやらアニメの監督で『言の葉の庭』というのを撮った人らしい。『言の葉の庭』のオフィシャルサイトがあったので、見てみて驚がくした。

ゆっくり流れていく雲。地面にあたって跳ね返る雨粒。風にそよぐ木々のゆらめき。圧倒的な映像美。

な、なに?これ?

新海誠監督が『君の名は。』で大ブレイクする前のことだ。私が新海誠という名前を覚えたのは、そのときだった。

ところが、今、Makoto Shinkaiと解説文に名前の出てきたその本がなんだったのか、覚えていないし、探しても見つからない。どうやって探したらいいのかもわからない。

自社で扱ってる本だというのに情けない。

なんかこういうの、探せるツールがないもんかなぁ~

で、先ほどの問題に戻るけど、その情報を必要としている人に、どうやったらたどりつけるのだろうか。これってマーケティングの基本のキというか、あらゆるマーケティングはそこをめざして奮闘しているんだよね、きっと。

洋書で、題名や副題にはないけど、内容には宣伝したいことが入っているものを紹介する場がほしい。必要とする人が検索したときに、どうにかたどりついてほしい。

私がこのnoteをはじめた理由って、そういうところもある。というか、まじめな理由ってたぶんそれだ。

まあ問題は、私のnoteを読んでいる人がえらく少ないってことだけど。。。

それはさておき、この本は、三島由紀夫についての本ではない。仏教についての本だ。

以下は、この本の解説文を抄訳したもの。

「今日、仏教はグローバルな宗教になった。悟りの境地とは、内面の平安と世界との調和をもたらすもの。ほかの宗教哲学が抽象的で現実から遊離しているのに対し、仏教は悟りの境地にいたる手段として、瞑想という実践を提唱してくれる。より多くの人が仏教徒として悟りの境地に到達すれば、世界は確実によくなる。
そんな考えはしかし、長いあいだ批判にさらされてきた。それは西洋からみたファンタジーであり、仏教徒のアクチュアルな経験とは何の関係もない、と。」

まあそうかもしれない。だいたい、そんなに簡単に悟りの境地になんて達しないと思うんだけど。。〇時間瞑想すれば悟りの境地に入れますよ、なんてマニュアルないしね。

ファンタジーとまでは言わないけど、悟りがそんなにかんたんなものじゃないってことは、仏教を少しかじればわかってもよさそうなものだ。仏教に対して、エキゾチックなあこがれによる勘違いがあるように思う。あと、仏教の悟りについて、ずいぶんお手軽なものに矮小化されちゃったな、って気もする。瞑想するだけで悟りが開かれるなんて、そんな甘いもんじゃない。悟り、なめんなよ。

「著者のAvram Alpertは、現代小説を読み解くことと、個人的な経験とをつうじて、現代仏教のもう一つの見方を提案している。つまり、仏教とは、完全に満ち足りた状態へ到達するための手段ではなく、むしろこの混とんとした世界でなんとか生きていく意味や目的を見つけるための材料、あるいは知恵、そんなものを提供してくれるものなのではないか。」
著者のAlpertは、ラドヤード・キップリングや三島由紀夫、ベッシー・ヘッドなどの小説を紹介しつつ、この世界がいかに苦しみに満ちているか、そして完全なる悟りの境地というのがいかに遠いものであるかを説いている。
しかしそのかわりに、完全ではなくとも、ある程度の、部分的な「悟り」への可能性は示してくれる。完全な悟り=十全感をもとめることはやめて、この不完全な世界となんとか折り合いをつけていくすべを、そのヒントを、現代の仏教は与えてくれるのではないか。

これも仏教を矮小化していることになるのかな。でも私は、こういう考えに好感をもった。悟りの境地を否定はしないが、それは本当に仏教をきわめる求道者がめざすもの。フツーの人は、この生きにくい世の中を、今より少し生きやすくするような、風通しをよくするような、生きるヒントを与えてくれるものとして仏教を取り入れていけばいい。そういわれているような気がして、なんだか気持ちが楽になった。

三島由紀夫は仏教に大いに関心があり、仏教の思想を彼の最後の小説『豊饒の海』に取り入れた。

この本で三島と仏教の関係がどのように書かれているのか。三島研究者や三島ファンは、ぜひ手に取って読んでみてほしい。

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