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フクシマ・フィクション、あるいは3.11東日本大震災の文学

Fukushima Fiction:
The Literary Landscape of Japan's Triple Disaster

「フクシマ・フィクション:東日本大震災の文学的風景」
by Rachel DiNitto
May 2019 (University of Hawai'i Press)

今年は、3.11東日本大震災から10年目の年である。

この10年、洋書業界でも3.11にかんする本は多数出版された。地震や津波、原発についての自然科学、理工学、医学関係の書、大災害にたいする政府や行政の対応、経済的、社会的な影響などの社会科学関係の書。このような分野は、比較的早い段階から研究書が出はじめた。

でも、文学研究は、この2,3年でようやく出てきたところだ。作家が3.11のことを書き出して、ある程度「震災文学」のような形になるまで、時間がかかる。あの未曽有の大災害を、さまざまな作家が作品にしていった。それを「3.11の文学」として包括的に論じた文学研究書が本書だ。

類似の研究書としては、城西国際大学の芳賀浩一准教授のThe Earth Writes
The Great Earthquake and the Novel in Post-3/11 Japan
がある。これは、2018年に水声社から刊行された『ポスト〈3・11〉小説論:遅い暴力に抗する人新世の思想』の英訳、あるいは部分的な英訳だと思う。目次に重なる部分が多い。

ちょっと脱線するけど、洋書にすでに邦訳があるかどうか、あるいは、もともと和書で出ていたものの英訳版だとかっていうことがすぐにわかるデータベースみたいなのがあればいいのになー。

たとえば、和書で出ていたものの英訳版の場合、とうぜんながら日本国内で英訳版は売れない。だって日本語で読めるから。それから、邦訳が出版されると洋書は売れなくなる。だって日本語で読めるから。ということで、仕入冊数をどうするか考える場合、和書があるかどうかはけっこう重要な問題なのだ。そういうことを調べずに「よーし、日本にかんする本なら売れるだろう」と気前よく発注してしまうと、全然売れずにあとで痛い目にあう。在庫が残っていると、上の人間にチクチク言われる。かといって控えめに発注して全然足りなくなると、それもチクチク言われる。「仕入れあるある」だ。

この葛藤は、仕入れ担当者の宿命なんだろうなー。

あ、こんなこともそのうちAIのほうがうまくやってくれるようになるのかなー。なんか悲しい。。

それはともかく、和書があるかどうか、今のところは地道にググって調べるしかない。もっとも、洋書が元で邦訳があとのときは、いつ邦訳が出るかわからないから、いちいちチェックしてられないんだけど。。。

さて、今回紹介する本の著者は、オレゴン大学准教授のRachel DiNittoという日本文学研究者である。内田百閒についての研究書や、内田百閒の作品の英訳などのほかに、丸尾末広のマンガ、金原ひとみの『蛇とピアス』、鈴木清順の映画についての論文もあるらしい。なんかこのラインナップをみただけで、かなりマニアックな研究者とみた。

本書では、3.11の文学のなかでもとくに「純文学」に焦点をあてて、著名な作家から新進の作家まで、そして短編から長編小説まで、さまざまな作品をとりあげている。

おもな作家は、古川日出男、重松清、川上弘美など。

古川日出男さんは、先にあげた芳賀先生の『ポスト〈3・11〉小説論』でもとりあげられている。福島県出身の作家が、フクシマのことを書いているからかな。読みくらべてみたいところだ。

私が読んだ3.11文学というと、いとうせいこうの『想像ラジオ』、木村友祐の『イサの氾濫』、佐伯一麦の『空にみずうみ』ぐらいかな。少なくてスミマセン。。

読んでいて読むのがつらくなってしまうのだ。石牟礼道子の『苦海浄土』だって、つらくてつらくて何度も本を閉じた。それでも読まなければ、と自分をふるいたたせて、なんとか読み進めたけど。

読んだなかで、いちばん印象に残っているのは、『空にみずうみ』だ。宮城らしき県で生活する作家の早瀬と染色家の柚子のしずかな日常が、淡々とえがかれる。そのなかに、ときどき、3年前の「あのこと」が顔を出す。3年前は染物の材料の植物がとれなかった、とか、3年前は毎年手作りしている食べ物を仕込めなかった、とか。

そのさりげなさがリアルで、だからこそ怖かった。

今日で、阪神淡路大震災から26年。

今後も、3.11をはじめとした震災の文学は生み出されていくことだろう。作品として残すことで、少しでも風化にあらがって、あの大災害を忘れないように。




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