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高校を卒業してから1週間が経った。離島だった。

高校を卒業してから1週間が経った。

今僕は、誰もいない実家のリビングで西陽に照らされている。文字通り、「あっ」という間に時間は過ぎ去った。

中学3年の秋、僕は受験勉強の疲れと自分の想像の範疇に収まりそうな高校生活への不信感から「高等学校進学」という門の扉に背を向けていた。

勉強をすれば偏差値は上がり、選択肢は増えていく。夏にはいくつかの高校の見学へと足を運んだが、どれだけ幅が広がったところで心が躍るような高校を見つけることはできなかった。

そんな時だった、「こういう選択肢もあるんじゃない?」そう父から渡されたスマホの画面に映っていたのは、『島留学』なるものが特集されたネット記事だった。

自分の中で何かのスイッチが入ったようだった。気づくと僕は深夜まで『島留学』なるものについて調べていた。ついに疲れてベッドに入ったが、胸の高鳴りが止むことはなかった。

「多分、ここが俺の居場所だ。」そう思った。ここぞという時の勘は当たる方だったし、埼玉の田舎で燻っていた僕には、まさに「救いの手」のように感じられた。

勉強も運動も人間関係もパッとしない自分を変えたかったんだと、今は思う。どうしようもない絶望感と共に、「自分には特別な何かがあるはずなんだ」と信じていたかったんだ。

そして、15歳の僕は「日本海に浮かぶ小さな島」で進学することを決めた。

それからは、母親や担任教諭の反対、少し特殊な受験も乗り越え、2020年4月に入学した。同級生は60人だが島の過疎化の影響もあり、島内生(島出身の子)よりも島外生(僕と同じ)の方が多かった。島外生は学校近くの寮で衣食住を共にし、島の生活を満喫した。

入学してからの3年間は新型コロナウイルスに苦しめられたながらも充実した時間を送ることができたし、このような環境だったからこそ感じられたことも多くあったように思う。

そしてなんといっても「島」なので、アミューズメントパークはもちろんのこと、コンビニすらない。高校生が遊びそうな場所は皆無だ。ゼロ。だから時間があれば、散歩をする。海を眺める。本を読む。音楽をする。写真を撮る。なんなら、高校の友達や島民と「話す」というのが大きなエンタメの一つと言っていい。

だからだろうか、「自分と他人、世界の」違い、繋がり、面白さ、ちっぽけさ、莫大さ、そんな手に取れそうで取れない、答えがありそうで誰も分からない、実態のない「本物」を探し続けていたように思う。

実際はここでは到底書き切れないほどの学びを得ることができたし、大切な経験、言葉も多くもらった。しかし、島に来て何が一番大きかったかと問われると…

「世界の見つめ方を教えてもらったこと」と自分は答えるだろう。それは、写真家を目指すものとしてでもあり、いち人間としてでもある。

見つめ方次第で、世界は大きく変化する。全ての瞬間が「すばらしい奇跡」なんだと感じることだってできる。今の僕は、自分の写真や心の持ち様、生き方が「島での生活で得たもの」で溢れていると思うし、それがとても嬉しくて毎日にやけてしまうんだ。

それを教えてくれたのは海であり、空であり、山であり、人生の先輩方や友(自分でも考えられないほど良い関係を築けたと思っている)である。

卒業式当時はとにかく泣いて、とにかく笑った。この島で3年間全力でぶつかり合い、全力で笑い合い、全力で青春した自分たちがとても誇らしかった。

友の顔を見て泣き、答辞で泣き、最後のクラスルームでのスピーチだけは泣かないと決めていたのに、結局涙が溢れてきて、変な喋り方になった。

「3年間本当にありがとう。これから僕はみんなのことを一生自慢しながら生きていくと思います。校長先生は(卒業式当日の)式辞で『自分の人生の主人公であれ』と言っていたけど、僕はここで他人の人生の良い脇役であることの幸福さも学んだ気がします」みたいなことを話した気がする。恥ずかしい。

その後、中学時代は書くことの叶わなかった寄せ書きをページいっぱいに書き込み、一生の友になるであろう奴らと一旦の別れを交わした。書き込みや同級生や後輩からもらった手紙が嬉しすぎて、家宝にしようと思っている。

連絡船で島を後にし、夜行バスに乗り込んだ。泣き疲れていたのか、バスではぐっすりと眠った。翌朝、新宿に着いたバスを降りると、空は青くどこまでも広がっていた。

この空があの島まで繋がっているのだと思い馳せながら、バスタ新宿前の交差点を渡った。頭の中ではエレファントカシマシの『四月の風』が流れていた。

また帰ります。


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