フランス退屈日記♯2: 一渦抜けたな、と。
最近のSNSは1年前に一体自分が何の渦中にいて、どんなことを思っていたのかということをご丁寧にも教えてくれる。そんなことがある度に「あぁ1年というのは短いようで意外と長いものだな」と不本意にも考えてしまうのだから成長というものがなくて困る。時間というのは本当はとても良い加減なものなんだろう。これはそう考えた方が楽だからという話で、地球がコーヒーテーブルのように平らであると村上春樹が便宜的に説明してくれたのと同じことだ。進化しないな人間は。
この国に来てから2ヶ月半。もう硬水が飲みにくく感じるなんてこともなければ、急にバスの路線や時間が改変されたって何も思ったりしないし、なんだかんだ日本に居た時と何も変わらぬ心持ちで生活できるようになってきた。もうパリに1人で行っても少しの物悲しさを感じることもなければ、メトロの中で堂々とシャッター音を響かせてしまう。
フランスの人たち(特にパリの人たち)は「自分が他人から見られている」という意識がかなり強いとなと感じる。僕が視線やカメラを向けると、そこがまるで舞台であるかのようにちょっとした役を演じて見せてくれたりもするし、笑顔を送ってくるし、何人かは「写真の邪魔をしてはならない」と日本人ばりに視界から避ける。この人たちめちゃくちゃ周りを気にしてるなと、周りをめちゃくちゃ気にしてる人間からすると分かるわけである。少し意外だった。日本人なら言わんとしていることが分かるのではないかと思う。最近、「カルチャーショックはあった!?」と聞かれる機会が増えたが、正直あまり覚えていない。特にこれといって辛いこともない。でも一つ思ったのは、人間はその環境に生かされているだけで真ん中はそんなに変わらないということで、そこに関してだけならば新宿にいた時もパリにいる時も心の変化はあまりない。
でもそれとは反対に、どうしようもないほど自分が「日本人」であるということへの自覚が強まっていくのを感じる瞬間もあり、この感情を一体僕はどこに置いていけばいいのかと迷う。あるとき友達が言った「君の悩みはすべて君の外側で起こっている気がする」と。そんなことを言われては、どこにこの感情を置いてくればいいのか。それとも、これは冬が僕を貶めようと画策しているだけなのかもしれないし、はたまた僕が冬に構ってほしいだけなのかもしれない。こんなことを書こうと思ったのだっけか、恥ずかしい。部屋にいると恥ずかしい事ばかり浮かぶ。いや違う、今朝ふと思ったのだ。「写真で掬い上げられなかった感情を文章にしているのかもしれない。写真は自分の中で絵画よりも文章に近いな」と。それと同時に、こうやって全て写真の話に持っていってしまう自分がいることにも怖さを感じた。
でもそんな再放送の嵐と少しのコペルニクス的転回のおかげもあり、たくさんの機会にも恵まれた2ヶ月目だった。詳しくは言えないが、やべぇ神な方々にも会ったし、久しぶりのあの人にも会ったし、まさかのあの人と出かけもした。そして来月には12月になる。これはいい兆しだ。だが、これも映画やドラマのようにはいかない。どんなに革新的な一日を過ごしたとしてもその喜びはそう長く続くものではない。結局のところ次の日はそうでもない。このルーチン化した孤独と絶望を明日はどこに置いてこようか。あと(これは結構重要な問題で)、今月は呆れるほどに授業をサボってもいる。これは多分今の家が学校から遠すぎるというのもあるし、環境の変化への答えなのかもしれないし、単に授業が疲れるからかもしれない。本当にどうしようもない人間である。来週は頑張って全部行こう。そしてその波に乗ってそれからも休むことはやめよう。そうしよう、そうしなければなのだ。3ヶ月もいるくせして全くフランス語ができなくて恥ずかしいのは誰でもない僕自身であるし、「でも」とつい声が漏れそうになるが、流石にもう少し努力しないと誰かに叱られる。誰か叱ってくれ、誰か一言「まずいと思うよ」と。そしてまた生活に向き合えたら、この取り留めも無く、自意識が強すぎる日記も許されることだろう。
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