常識を疑うには?
前回は常識を疑うことについて土居先生の著書「国語授業の常識を疑え」から書きました。
常識を疑う良さについては詳しくは前回の記事をご覧いただければと思いますが、指導の改善につながるというのが大切なところだなと感じています
では、常識を疑う良さが分かったとしてここで考えてみてほしいと思います。
はたして学級、授業でどんな常識が思い浮かぶでしょう?
いくつ思い浮かぶでしょう?
少し考える時間をとりますね。
いかがでしたでしょうか?
なかなか見つからない人もいるかもしれません。
少なくともわたしはなかなか思いつかなかったです。
なぜかと考えてみると、それが常識すぎて、常識の中にいる自分を認識できないからではないかと思っています
空気を実感するのは空気が薄くなったり、空気がなくなったりした時、もしくは思い切り空気を吸った時でしょうか?
抽象化して考えてみると
ちょっとした違い、つっこんで言えば違和感を意識できるか
ということではないかと思います。
・漢字が定着しない
・音読が上手にならない
・筋道立てて話せるようにならない
・相槌をしながら聞けるようにならない
・段落を意識してかけるようにならない
・登場人物の心情を様々な観点で読めない
様々な事情があると思いますがこれを子どものせいにしていては自分の指導の改善には繋がりません。
指導した上で出来ないのであれば、今まで教えられた、学んだ指導の仕方が常識となって足枷になっているかもしれません。
しかし、常識が常識として定着しているのはメリットがあるから。
なので全てを捨て去り、型無しの指導法になってしまうとこれもまた指導の改善には繋がりません。
常識とされる指導法の何が問題を生み出しているのかを考えて行くことが大切です
常識を疑うスタートとして考えたいのは
違和感を逃さないということ
そして、その時にもう少し踏み込みたいのは
もしかしたら指導があっていないかもしれない?と自分に原因を探す勇気てす。
きっと改善して何かをやってみようと思う時には先生たちのやる気が子どもたちに伝わると思います。
そして子どもたちの違和感に気づけるのは目の前の先生しかいません。
一緒に指導の改善をして行ければ嬉しいです。
2学期からの指導を考えていくキッカケになりました。
指導の改善のためにやって見た事を2学期あげていきたいなと思います。
本日はこれでおしまい!
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