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【社会学ワンダーランド 第二回常識をうまく手放す 集計データから考える】学び振り返り

【学融合・学際について】
学問の様々な分野をまたいでいくことを「学融合」「学際」と言い、現在とても重要視されているという。細分化された各分野において「課題を解決する」ということばかりに重きが置かれているが、なぜその問題が生じたのか、本当に解決する必要性があるのか、解決したことによって他に何か問題が生じてしまうことはないのか、等、問う必要がある。それらのことが「問題解決」に比べてとても軽視されている現状がある。デカルト・パスカル等それぞれ哲学者・宗教家・数学者…と複数肩書を有しそれぞれの分野において大きな業績を残し活躍していた。17世紀18世紀ではとても自然に学際が実践されていたが、19世紀から徐々に学問が細分化していた。そもそも○○学というものは単なるラベル付けであり、分野をはっきりと明確に切り離すこと、厳密に定義づけすることはできず、「学際」というのは学問の本来の姿を指すのかもしれない。知識爆発が起きている現代において、その「学問」という範囲が広がりすぎてすべてを網羅することはあまりにも難しくなっている。細分化された一つの分野の中で学びきることさえとても難しいことであるのに、その枠を広げることは無謀なことのようにも感じる。ただ、自分が深めているのは広い広い「学問」というものの中のほんの小さな一片でしかないということを自覚し、自身の学びの「深める」と「広げる」の偏りについて立ち止まって考えてみること。特定の何かに鋭く特化していくことは本当に大切なことなのだろうかとも思ってしまう。そして「得る」ことまた「生む」ことへの責任を負わなくてはいけない。そこから生まれる波紋の広がりを忘れてはいけないし、ずっと先まで思いを馳せなければいけないということ。

【データを疑う姿勢をもつ】
量的なデータは客観的なものであり、対して質的なデータは主観的なものであると捉われがちであり表や図で示されたとたんに疑うということをせず、そのまま受け入れてしまうことが多い。数字の幅はどれくらいなのか、メモリは不自然ではないか、誰が調べたデータなのか、拾う範囲が極端に狭かったり広かったりしていないのか。示す数字の大きさによって1割の増減の指す意味は大きく異なっていくことを忘れてはいけないということ。

【「断言」に惹かれてしまうけれども】
「断言する」ことの強さと愚かさについて考えてしまった。不安定で漠然とした移ろう社会に身を置き、色んな不安に囲まれていると、「断言」というその強さに惹かれてしまう。藁にもすがる思で、「断言」に飛びついてしまう。なるべく手軽に簡単に「わかりたい」とそう望んでしまうけれど、そもそも白黒はっきり決め付けるなんてことは不可能だ。多様化しているこの社会を1つの簡単な言葉でまとめあげることはできるはずがないということ。強気に言い切り、キャッチ―でカリスマ性のある言葉や枠組みに触れることは自分を豊かにする一つの方法であると思うから、必要以上に遠ざけることはせずに、自分の思考によってその隙を探るように付き合っていけたらと思う。慎重に疑う気持ちを常に宿しながら物事と向き合うことはおのずと幅広く知を深めることに繋がってゆくのかもしれない。

【賢くある、とは】
聡明でありたい、賢い人でありたいとそう思うけれど、凄く難しい目標だと思う。何か主張することが学問の道を進んでいくことではなくてはならないことなのだろうか。歴史に名を残せないとしても愛知人として幅のある人ではありたいと思う。きっとどこまでも個人的なことなのだろうけど、それでも静かに自分に深みを足すように生きていけたら。それが私の理想だと思う。
「何か一つを言い切ろうとするときには、それをなるべく遠く遅らせて、たくさんのコストをかけて、たくさんの裏付けをしていくべきである。」

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