「「物語」の楽しみ方をもう一つ」  【山極寿一・作られた「物語」をこえて】

図書館では実際に学校で現在用いられている教科書が観覧できる。

新学期、新しい教科書を渡されたときのあの心の高まりをふと思い出し、手に取ってみた。
国語の教科書が何よりも好きだったな。
兄が使っている教科書もこっそり引っ張りだして読んだりしていたな。
受け取ってすぐに、さっそく隅々まで目を通していたな。
そんな静かな思いでが蘇ってくる。
今の教科書にはどんな作品が載っているのだろう。

山極寿一著「作られた「物語」を超えて」

山極寿一さんの書籍は何冊か読んでいて、私の視野を広げてくれた人の一人だ。
ゴリラを研究からこそ気づけるその思考は、たった数年の人間経験のない私の思考をとても優しくほぐしてくれた。
私にとって凄く大切な出会いたったからこそ、その名前が中学校の国語の教科書に載っているのがとても嬉しくもあり、
10代で山極寿一さんの言葉や思考に触れることのできる今の学生さんを羨ましく感じた。
この1つの作品がどんな形でどんな子たちの支えとなり勇気となったのだろう、そんなことに思いを馳せて胸がときめく。

すぐに力を持たなくても、学校で学んだことって、時を経てふと立ち上がってくることがある。
わからなくてもいいから触れるって凄く大切だと思う。
一旦自分の中を通してみる、想像以上にしっくりすることがあるかもしれないし、違和感とか苦味とか疑問とか漠然とした嫌悪感とか、生まれたそういうも全てに意味があると思うから。
その時に価値が感じられなくても、ときを超えてまるで壮大な伏線回収のように、大きな役目をはたしてくれたりするから。
先生の何気ない一言だったり、授業でやった一句だったり、教科書の作品もその一つのような気がする。

山極寿一さんのこの作品も誰かにとってそんな存在になってほしいと願う。

この作品は人間の言葉が作る「物語」が誤解や偏見を生み、争いをもたらすということについて書かれている作品だ。
昔の探検家が誤解をした為、「ゴリラは好戦的で凶暴な動物だ」という「物語」を作り出した。その物語によってゴリラはとても悲惨な運命をたどることになった、という。

物事はいつも中庸であり、それを私たちがどう見ているかの違いだということ。
いま目の前にある対象を本当に正しい物語を宿すことが果たしてできているのだろうか。

 
”過去があって、今の僕がある。でも今あるのは今の僕であって、過去の僕ではない。僕は今の僕とうまくやっていくしかない。”

私の好きな村上春樹さんの言葉。
「物語」の更新を忘れてしまいがちだと強く思う。
私が日々を重ねているように、私以外の誰もが皆、日々を重ね、確かに変わっている。

他人に対して、過去の色々なことを持ち出してそれだけを材料にして物語を作り、判断してしまってはいないだろうか。
自分だったら、その決めつけは悲しい。
過去の自分と今の自分は違うよ!今の私を見て!と伝えたくなってしまうから。

私の残す「物語」がどれほどの力をもっているかはわからないけど、
発信し続けることに小さな意味はあるのだと思う。
人の「物語」によって偏見が生まれる。そして、「物語」によってその偏見を立て直すことも可能なのだと思う。

自分の発する言葉が届いた瞬間から「物語」がそこに出来上がっているということ。その責任感も忘れてはいけないと思う。

それは一個人の考えたかたであり、今の私の視野は限界があって取りこぼしてしまっている物が沢山あるということ。
そして受け取った物語も同じ条件であるということ。
言葉、物語に説得力をもたせるためには、人一倍の努力だ。学び、経験すること。

自分は言葉を生業にしたいとは望んでいないが、言葉を綴ることはなるべく長く続けていきたいと思っている。
矛盾や葛藤、ジレンマ。
宗教。
倫理学。
善悪。
生き方。
ここに言葉を残す以上、責任を持って、裏打ちされた言葉を紡げるようにしていきたい。

あたり前に受け取っている「物語」もその根本には誰かの経験がある。
どんな言葉にも経験は敵わない。

“人間は言葉を発明して、自分が体験したことを語ることができるようになった。
そのおかげで、人間は多くの知識を共有できるようになった。”

“言葉には自分の体験を脚色したり誇張したりする力もある。
実際には見ていないことを、あたかも経験したかのように語ることもできるのだ。
それは人の口から口へ、またたくうちに広がっていく。
最初の話が誤解によってつくられていると、その間違いに気づかないうちにそれが社会の常識になってしまうことが良くあるのだ。”

“言葉や文化の違う民族の間では、誤解が修復されないまま「物語」が独り歩きをして敵対意識を増幅しかねない。
今でも世界各地で争いや衝突が絶えないのは、
互いに相手を悪として自分たちに都合のいい「物語」を作り上げ、
それを世代間で継承し、
果てしない戦いの心を心に抱き続けるからだ。
どちら側にいる人間も、その「物語」を真に受け、反対側に立って自分たちを眺めてみることをしない。”

あまりに大きな規模で、漠然としたものになると一番根本の確かな「経験」の声を聞くことは不可能になってしまう。
自覚も疑問もなく受け取っている「物語」が偏見を作り出しているのかもしれない。

「相手を考える」となんとなく意識しているつもりでも、「物語」の反対側に心を置けているかと考えるとそうではないと思う。反省する。
家族や友人、恋人、いつも身近にいる人。日々の中で交わる人、それぞれの「物語」を意識することが必要だと思う。
自分の「物語」が全てであるという考えを捨てたい。

“私は人間の、自然や動物、そして人間自身を見る目がいかに誤解に満ちているかを知ることができた。
その誤解を解くためには、相手の立場に立って、1つ1つの行動にどんな意味があるのかを考えることが必要である。
「物語」によってつくられた常識の陰に、虐げられている生き物や人間がいないか、意味を取り違えて排除していることがないか、思いを巡らすことが大切だと思う。”

“ゴリラのドラミングが戦いの宣言だという「物語」の誤解を超えた先には「ゴリラが人間とは別の表現を用いて平和を保っている」という私にとって新しい価値を持つ豊かな世界が広がっていた。”

私自身「物語」を受け取って、それを楽しむことも沢山ある。
どうしても自分の経験によって手に入れるには限界があると思うから。
そして、選ぶことができるとしたらなるべく正確で美しく魅力的で素敵な物語を受け取っていきたい。そこに自覚的になりたい。物語が次々に届くからこそ。

「物語」の信ぴょう性を確かめることも大切だ。
自分の目で、口で、鼻で、肌で。
その中で「物語」の誤解を解くことができるかもしれないし、新たな物語を展開する立場にもなれるということ。
私は物語を進める側にもいたいと思う。
そちら側にも。

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