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【書評】吉田健彦「哲学の再生に向けた果敢な試み――上柿崇英『〈自己完結社会〉の成立』を読む」

 ここでは、環境哲学/メディア論の研究者で、現代人間学の共同研究者でもある吉田健彦さんが『環境思想・教育研究』(第15号、2022年)に投稿してくださった、拙著『〈自己完結社会〉の成立』についての書評を、ご本人および発行団体の許可を得て再掲しています。

吉田健彦(2022)「哲学の再生に向けた果敢な試み――上柿崇英『〈自己完結社会〉の成立』を読む」『環境思想・教育研究』、環境思想・教育研究会、第15号、pp.108-110

哲学の再生に向けた果敢な試み――上柿崇英『〈自己完結社会〉の成立』を読む


 上柿崇英『〈自己完結社会〉の成立―環境哲学と現代人間学のための思想的試み』(農林統計出版、 2021)は上下巻で 600 ページを超える大著であるが、この重厚な書において彼が問うているのは、現代社会においてなぜ私たちがこれほどまでに生きることに困難を覚えるようになってしまったのかという、ある意味真っ当で素朴な疑問だ。

 しかしこのシンプルに見える問いの根底には、ある近代的人間観の本質的問題が隠されており、上柿は緻密な論理にこれをよって追い詰めていく。

 確かに、改めて考えてみればここには奇妙な矛盾がある。私たちは極めて高度に発達した社会システムやテクノロジーに囲まれた生を送っている。そしてそうであるのなら私たちの生は少なくとも以前よりもはるかに楽に、あるいは自由になっていなければおかしいのではないか。

 そしてある面においてこれは事実ではある。私たちは――ここでいう「私たち」とは誰なのかについては十分注意が必要だが――より健康的な生活を送れるようになっているし、成りたいものに成れるようになっているし、望むものを手にできるようになっている。にもかかわらず私たちは直感的にある種の息苦しさを感じざるを得ないし、行き詰まりの世界観を生きているようにも感じている。この生きづらさは何故生じたのか。

 上柿が明らかにするのは、本来であればその生きづらさを解消し私たちが本来あるべきはずのかたちになるのを阻害しているものを取り除いてくれるするはずだった社会システムやテクノロジーこそが、近代的人間観と結びつくことによって却って私たちを生の隘路へと引きずり込み続けているということだ。

 その人間観とは例えばシェーラーによる次のような定義、「人間とは、無制限に「世界開放的( weltoffen )」に行動しうるところの X である」(上 p.90 )に端的に象徴されるものであり、そしてそれに対置されるのが本書において常に準拠点となる「そもそも抑圧が存在しない〈関係性〉など想定し 得ないという事実」(上 p.228 )なのである。これはそのまま、シェーラー的人間観の果てにある〈無限の生〉に対置される、本書の結論であり人間存在の原理でもある〈有限の生〉の肯定へとつながっていく。

 このこと自体は、既に近代的世界観に疲れ果てている私たちにとって、実は表面的にはそれほど抵抗なく受け入れられる主張かもしれない。だがやはりそれだけではない。

 私たちが本書の主張に表面的に同意し、あるいは一部であってもそこに価値を見出すとき、そこでは相変わらず私たち人間はその困難を乗り越えて共同し、協働し得る存在なのだという既存の、そして暗黙の人間了解から逃れ得ていないのではないだろうか。

 しかしここで本書が主張しているのはより本質的に、徹底的に、この私にとって他者とは「意のままにならない」ものなのだということだ。この差異は些細なもののように見え実際には近代的人間観に対して大きな転換を迫るものとなる。

 無論、だからといって上柿は人間の共同性が不可能であり、強権あるいは不信を基盤にしなければならないなどと主張しているのではない。むしろ意のままにならない他者と共同しなければ私たちの生が不可能であるが故にこそ、私たち人間はその存在史において様ざまな作法や知恵を生み出してきたのだし、まただからこそそれらは柔軟な強度を持っていたのだと彼はいう。

 他方で、では近代的人間観はどうかといえば、そこでは本来私たちがそうであるものとしての像が措定されそれに向かっての無限の歩みが強要されてきたことを彼は指摘する。

 現実問題、私たちは無制限に解放されてはいない。そうであるのならそれを阻害する何ものかを私たちは排除しなければならない。到達不可能な理想の像を目指すその歩みはまさに無限であり、私たちはどこかで疲弊し、脱落することになる。それを避けるためにシステム/テクノロジーが用いられるが、やがてそれはそれらへの過度の依存を引き起こし、私たちの生はますます空疎なものとなっていく。無限の歩みはいったい何のためのものなのか。そしてそれはどこへ向かっていくものなのか。

 この短い書評において上柿により構築された巨大な論理構造をあまさず説明することはできないが、その道程は精緻に磨き上げられ整然と形作られた理路であり、また上柿自身によるガイド(1)もあるので理解そのものに不安を感じる必要はない。最終的に「有限の生」が持つ美しさ、そして「信頼」への痛切な願いへと至る彼の思想の道程は、ぜひそれぞれに読み、同意し、あるいは批判しつつであっても感じ取ってほしい。

 ただ、そうはいっても本書固有の言葉をひとつひとつ定義し――たとえばここでは「〈ユーザー〉としての生」や「〈生〉の舞台装置」、そしてタイトルにもある「自己完結社会」など独自の魅力的な言葉が紡がれていく――積み重ねながら組み上げられていく長大な論考を追うのは、特に一般的な論文の書法に慣れた身体には厳しい面もある。

 しかしこれは上柿にとってこの思想を生み出すためには絶対に必要なものだった。読者は本書を読むことを通して彼の思考の形成過程が持つ必然性について表層的ではない追体験ができるだろう。

 評者が上柿の思想に触れるとき常に思い起こすのは、かつて上柿が編著者として参加した『環境哲学と人間学の架橋―現代社会における人間の解明』(上柿崇英、尾関周二編、世織書房、2015)の書評にて、彼の担当章に対するコメントとして「周知のマルクス的疎外論であるといってよい」(2)というものがあったことである。

 上柿の思考スタイルはこの当時から一貫しており、したがってこのコメントは本書に対するよくある誤解にも通じるものがある。人文学、少なくとも哲学においては、先人たちが積み重ねてきた思想的な営為を理解し踏まえた上でそこに新しい一層あるいは一点を加えることができれば研究として成功だといえよう。けれども忘れてはならないのは、それら先人の思想がいまだに光を失わないのは、その人びとがそれぞれに生きた固有の時代状況においてその時代性を真摯に引き受けて紡ぎだされたものだからこそだということだ。

 無論上柿はそれを十分に承知しており、その上で、その枠組みを超えざるを得ないほどいま私たち人間の生が、あるいはそれが存在する社会が変化してきていると彼は見ている。彼が指摘するところの従来の近代的人間観に基づいた分析で対応するにはこの変動はあまりにも大きい。だからこそ上柿はその近代的人間観に内包されていた本質的な問題を明らかにし、新たな人間観を構築しなければならないと考えるのだ。

 本書においても詳しく論じられているが(下 p.193)、そもそもマルクスの疎外論には潜在的に本来あるべき人間の姿が措定されており、本書はその虚構としてのあるべき姿へと向かう無限の歩みこそが現代における様ざまな存在の病理を生み出す根本要因だとする。

 当然この議論は既存の論理の切り貼りや小手先の修正で済むようなものではない。それ故――確かに前著においてはその分量からして彼の思想体系の一部しか描けなかったために誤解が生じるのもやむを得ないところがあったかもしれないが――仮に本書に対してもまた同様に「周知のマルクス的疎外論」として切り捨ててしまうような読み方があるとすれば、それは端的にこの時代を理解することへの、そしてこの時代を理解しようという苦闘に対する理解への無関心を示すものになるだろう。

 このことはいうまでもなくマルクスの疎外論が単に時代遅れであるということではまったくない。そうではなく、マルクスの生きていた時代における哲学の営みを切り貼りとしてではなく営みとして受け止め、その在り方それ自体を現代において自らも実践する、そういった試みとして本書は位置づけられるべきだということだ。

 本書における人間観、あるいは共同に対する原理の説明に同意するかどうかは読者に委ねられている。評者自身、五年以上にわたり上柿と共同で研究をして多くを共有してきたが、同時に立場が異なる点も確かに少なくはない。しかし重要なのはそこではない。上柿が本書においてこの方法を選択せざるを得なかったということ、つまりこの時代を語り直すための言葉それ自体を一から作らざるを得なかったという点にこそ、本書がまさに哲学の営為の瞠目すべき結実であることが現れている。

 このことをより深く理解するために、千葉成夫による美術批評の名著『現代美術逸脱史』(3)が参考になる。千葉は次のようにいう。

 わたしは、いま日本の美術批評においてとくに必要とされているのは、歴史を正当にふまえることだと考えている。いまの状況を把握するためには、歴史の流れをたどりなおしてみることだ。しかし、この常識を、近代日本の美術批評はふまえそこなってきている。そう言わざるをえないようにおもう。近代日本の美術批評は、この常識をないがしろにしてきたことによって、いわば土台そのものを欠いていた。

 そこで、課題は二重である。ひとつはこの土台を構築し整備することであり、もうひとつはその先へと批評のことばをつむぎだしていくことである。しかも、できることなら、このふたつのことを同時に、同一のこととしてやっていかなければならない。求められているのは、そういう意味で二重の回路をもった批評である。いま大きな変貌ないし転回をはじめている美術の動きが、そういう批評を要求してやまない。

 では、いまどのような変貌がはじまっているのか。何を差して大きな転回というのか。なによりも、これまで近代西欧美術の概念を規矩として走ってきた近代日本の美術が、その模倣・追随・折衷・束縛からようやく脱しはじめていることがあげられる。

千葉成夫『増補 現代美術逸脱史 1945~1985』ちくま学芸文庫、pp.13-14

 美術/美術批評を哲学と置き換えれば、この問題意識はまさに上柿のそれに近い。また上柿は本書に残された課題として「〈文化〉への問い」(下 p.181)を挙げているが、このことも上の問題意識と密接に関連している。

 私たちが生きてきた/生きている固有の(固定された、ということではなく)文化的背景を問わずして、私たちは人間について語ることはできないだろう。その原理的な枠組みは本書にて構築された。だとすればその次の一歩がこの文化への問いになることは自然な歩みであろう。

 再び千葉の指摘に戻れば、その歩みは「ローカリズムや伝統主義に下手に足をすくわれてしまったり、逃げこんだりしてはいけないということである。ローカリズムに居直ることは、根無草のインターナショナリズムの裏返しに過ぎない」(前掲書 p.15)。いうまでもなく上柿の議論はこれらの陥穽を軽々と飛び越えていくだろうが、それが具体的にどのような表現として形作られていくのかはこれからの楽しみとして私たち読者に残されている。

 いずれにせよ、この激動の時代において私たちが人間について語る言葉が限界に達しているなかで、哲学はその責務として私たちを、そしてこの社会を語る言葉を新たに生み出さなければならない。本書はその時代からの要求に対する真摯な応答であり、哲学が本来的に持つ果敢な挑戦を見事に体現しているのである。


(1)https://schs.gendainingengaku.org/book1_detail.htmlを参照。
(2)杉田正樹「近代を脱してどのような世界を構想するか」『図書新聞 3224 号』図書新聞、2015。
(3)千葉成夫『増補 現代美術逸脱史 1945~1985』ちくま学芸文庫、2021。