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「環境加速主義」を論じた、はじめての書籍が刊行されました

上柿崇英(2024b)「【第1章】人類社会と環境の未来――「地球1個分」問題と環境加速主義の時代」『環境と資源・エネルギーの哲学(未来世界を哲学する【第1巻】)』水野友晴責任編集、丸善出版、pp. 1-44


 環境加速主義について論じたはじめての書籍が刊行されます(本書の「第1章」が該当部分)。いずれより本格的な解説記事(解説動画も)を作成したいと思っていますが、今回はその見所となる部分を概略的にご紹介したいと思います。

 具体的には、今回書いた内容の核となっている以下5つの論点――(1)脱成長主義の敗北と環境加速主義の勝利、(2)環境加速主義の理論的骨格、(3)人類史から見た環境加速主義、(4)環境加速主義を支える技術領域、(5)環境加速主義を支える世界観としての「ヒューマニズム」――に沿いながら、特に重要となる部分にフォーカスしてご紹介していきたいと思います。

 ※なお、冒頭であらかじめ言及しておきますが、筆者自身は、必ずしも環境加速主義に賛成しているわけでありません。筆者はむしろ、心情的には「エコ・ユートピア」や脱成長主義にシンパシーを感じてきた人間です。とはいえ環境思想の閉塞した議論に一石を投じ、新しい時代の論点を切り開くことを目指して、敢えてこうした議論を組み立てました※



(1)脱成長主義の敗北と環境加速主義の勝利

 まず、ここでいう環境加速主義(environmental accelerationism)とは、「現在の社会経済システムを基本的には維持したまま、科学技術の力によって地球環境を操作、管理、制御し、それによって「地球1個分」という地球生態系(自然環境)の限界を乗り越えていこうとする思想」と定義されます。
 一言でいえば、私たちは人類の望む未来のために、科学技術を用いて地球の限界を超えていくべきだとする思想のことです。

 そして最初の論点――これは本論の最大の見所でもあるのですが――今後世界では、この考え方が主流になる時代が到来する可能性が高く、私たちは環境加速主義が勝利した世界にいまから備える必要があると主張しているところです。

 今日、環境思想の現場では、思想的な対抗軸は、主としてA)グリーン成長主義B)脱成長主義との間に引かれていると考えることができます。
 簡単に述べますと、環境問題と経済成長は切り離すことが可能で、政府などが大型予算を投じて社会変革を促せば、環境対策を行いつつ同時に経済成長も実現できる、とするのがグリーン成長主義(SDGsもこのグループに含まれます)で、環境問題の根本原因は、常に経済成長を求める社会構造そのものにあるため、環境問題の根本解決のためには、社会経済システム自体を経済成長を前提としないものへと再構築しなければならない、と考えるのが脱成長主義です。

 ところが本論では、この両方ともがいずれも破綻して、環境加速主義の一択という構図に収斂していくのではないか、と主張します。そしてその理由を以下のように説明していきます。

 まずA)グリーン成長主義が敗退する理由は、この思想が「地球1個分問題」に対して有効な説明ができていないからです。
 「地球1個分問題」とは、簡単に言えば、人類社会がすでに地球1個分に相当する容量の限界に近いか、その容量を超えてしまっている可能性が高い、という問題です。

 例えばグリーン成長主義(SDGs含む)は、経済成長によって富裕国に限定されず、すべての人類が富裕国なみの物質的/社会的生活水準を享受できる世界を目指します。現在の富裕国の成長、発展さえも許容します。

 しかし私たちが世界的にこれだけの不平等を抱えた状態で、すでに「地球1個分」を超えつつあるのであれば、この目標を達成するには、そもそも地球1個では足りなくなることになるはずです。ところがグリーン成長主義は、この問題に対して、説得力のある説明を行っていないということです。

 これに対して、B)脱成長主義は、だからこそ私たちは「地球1個分」にしっかりと収まる社会を築くべきだと主張します。その意味において、「地球1個分問題」に正面から向き合っているのは、むしろ脱成長主義の方であると言うことができます。
 しかしB)脱成長主義は、おそらく人々からの支持を十分にえることができません

 というのも、私たちが本当に脱成長社会を実現したいと望むなら、私たちは社会生活のかなりの部分を「隣人同士の助け合い(ケア)」によってまかなう必要に迫られること、しかし高度にプライバシーが保障され、個人化された生活を長く送ってきた現代人には、そのような生活は耐えられない(「共同行為の不可能性」)と考えられるからです。

 しばしば、次のような主張を耳にすることがあります。

  • グリーン成長も、脱成長も、その理想が実現できないのは、グローバル資本や権力側がそれを望まず、反対しているからだ。

 確かにグローバル資本や権力の問題は、それはそれとして論じるべき問題です。しかし本論では、この問題の本質は別の所にあると考えます。なぜなら上記にあげた「地球1個分問題」も「共同行為の不可能性」も、基本的にはグローバル資本や権力の問題とは無関係だからです。
 逆に言うと、たとえ資本や権力の問題が解決できたとしても、「地球1個分問題」や「共同行為の不可能性」はいずれも解決しません。グリーン成長主義だろうと、脱成長主義だろうと敗退すると言わなければならないのです。

  • グリーン成長主義/脱成長によってこそ、人々は真に、自由、平等、自立、自己決定、自己実現、多様性が開花した社会を築くことができる。

 この認識についても、本論では誤りであると考えます。前述のように、隣人同士の助け合い(ケア)を重視する社会は、実際には、現代人が思うような意味での「自由、平等、自立、自己決定、自己実現、多様性」の価値理念とは両立できないからです
 私たちは、戦後80年あまりの日本社会が、慣習化したかつての相互扶助や世間の目から解放されたいと願い、プライバシーが保障される自立した生活のために、ある面では自ら望んでコモンズを解体してきた事実を想起する必要があります。

 こうした価値理念を実現するために必要なのは、むしろ現在の富裕国が採用するような社会経済システムの整備であり、それを支える経済成長です。そしてそれを実現するためには、「地球1個分」では到底足りないのです。

 したがって、もしも私たちが、現代人が思うような意味での「自由、平等、自立、自己決定、自己実現、多様性」を全人類に行き渡らせたいと望むのなら、唯一可能な選択肢は、科学技術を用いて地球の限界を超えていく環境加速主義をおいて他にない、ということになります。
 
そして本論が主張したいのは、人類は、実際にそのような道を選択するのではないか、ということなのです。

(2)環境加速主義の思想/理論的骨格

 続いて、こうした環境加速主義について、その思想/理論としての骨格がどのようなものになるのかについて見ていきます。 

 まず環境加速主義は、現代思想における加速主義(accelerationism)と接点があります。
 加速主義とは、簡単に述べると、資本主義社会がもたらす問題を、資本主義社会そのものの変革ではなく、資本主義社会のさらなる加速化によって解決しようとする立場のことです。
(実際にはさまざまなグループや考え方があり、なかには半ば自暴自棄的になり、優生思想や差別主義と結びつくグループも存在するのですが、このあたりの説明は今回は省略させていただきます)

 ただし環境加速主義は、資本主義社会(新自由主義やリバタリアニズムを含む)を無条件に肯定する思想とは区別されます。環境加速主義と加速主義の接点は、社会経済システムのあり方ではなく、むしろその思想が成立してくる際の、人々の心理的なメカニズムの方にあるからです。

 つまり加速主義が、資本主義を批判するイデオロギーへの"絶望”や“諦め”のなかから成立してくるように、環境加速主義は、自然と人間の共生を謳ってきた「エコ・ユートピア」の理想への絶望、そして諦めの心情を土台として拡大していく、ということです。

 例えて言うなら、「人間中心を乗り越えよう!」「地球や自然やいのちのために!」といった声高な理想が絶望と諦めに転じたとき、「そんなことどうせ無理だ!」「人間中心で何が悪い!」という心情が生まれ、そこからむしろ「科学技術によって自然を変えるのが悪いのではなく、むしろ自然の改変が足りないのだ。目指すべき未来とはその先にあるのだ」と突き抜けていこうとする――これこそが環境加速主義が拡大していく心理的メカニズムであるということです。

 環境加速主義の思想/理論としての骨格は、以下の三つの点に整理することができると考えられます。

 第一に、環境加速主義は、科学技術の進展に全力を傾け、「地球1個分問題」を克服しようとします。そしてこのとき「地球に限界がある」という事実は、全く別のニュアンスとして読み替えられることになります。

 例えばこれまでの環境思想では、「地球に限界がある」ということは、私たちが――例えば省資源化、省エネルギー化を進めるといったように――社会経済システムを地球生態系(自然環境)に適合するよう作り替えなければならない、という主張の根拠として位置づけられてきました。

 これに対して環境加速主義では、「地球に限界がある」という事実は、逆に私たちが、よりいっそう地球のメカニズムを掌握し、それを操作、管理、制御すべきだ、と主張する根拠として位置づけられます。

 言い換えると、「地球生態系の要求に人間社会をあわせていくのではなく、人間社会経済の要求に地球生態系を合わせていくこと」が環境加速主義の第一の特徴である、ということになります。

 第二に、環境加速主義の最大の目的は、自由、平等、自立、自己決定、自己実現、多様性といった、社会的に共有されている価値理念を最大限に具現化させることに置かれます。

 確かに環境加速主義は、現在主流の社会経済システムを持続させることを目指します。しかしこれは、現在の不平等や社会的な抑圧を固定化ないしは拡大させるためではありません。
 環境加速主義が目指すのはその反対で、むしろ――SDGsがそれを強く主張しているように――社会的に共有された価値理念を具現化すること、そしてそれを最大限すべての人々に行き渡らせることである、ということです。

 したがって、「環境加速主義が資本の論理や権力構造を反映する」という主張、言い換えると、「環境加速主義が富裕層や産業界の独善的な利益を代表するものである」という主張は誤りです。

 環境加速主義が希求するのは、あくまで人間社会の理想や価値理念の具現化であって、環境加速主義は「地球1個分」を含む、あらゆる障壁を乗り越えることによってそれを実現しようとします(結果として資本主義社会が継続することになったとしても、それ自体は目的ではありません)。
 その意味において、環境加速主義は「究極の人間中心主義であると同時に、ある種の社会変革思想として側面をも併せ持ち」ます。これがこの思想の第二の特徴です。

 第三に、環境加速主義は、自然環境を高度に改変することによって、自然と人間の、ある種の「共生」を実現しようとします

 科学技術による自然の改変を肯定する思想は、実は過去にも存在しました。こうした立場は、開発主義や科学技術(万能)主義とも呼ばれ、環境思想の議論の中では、自然の過度な改変こそが環境問題の原因であるとの理解のもと、批判の対象として位置づけられてきました。

 しかし環境加速主義は、こうした過去の思想とは区別して考える必要があります。

 例えば過去の開発主義や科学技術(万能)主義は、地球生態系に無頓着で、無計画に自然を破壊してきたことが問題でした。しかしそれらとは異なり、環境加速主義は、地球生態系(自然環境)の持つ限界を強く意識したうえで、それを破壊せぬよう操作、管理、制御することを目指すこと、より直接的には、自然環境を社会経済システムに適合するよう、人工的な自然へと作り替える(“上書き”する)ことを目指すからです。
 本論では、そのことを社会経済システムによって自然環境を「包摂」する、と表現します。

 ここでの「包摂」の原型は、例えば人類が実際に生みだしてきた農地や、庭園や、自然保護区といったものにあります。これらはいずれも、人間社会の価値理念に即して、有用な形で、美的な形で、特定の状態を保存した形で、いずれも人工的に管理、制御された独自の生態系だからです。

 つまり環境加速主義は、地球生態系(自然環境)を、農地や庭園や自然保護区が高度に融合したかのような、巨大な人工生態系へと上書きします。そしてそれによって、人間社会にとって望ましい形での、自然と人間の「共生」を実現させようとするわけです。これが環境加速主義の第三の特徴となります

(3)人類史から見た環境加速主義

 ここからは視点を変えて、こうした環境加速主義が、700万年の人類史のスケールから見てどのように位置づけられるのかということを考えてみます。

 まず、人間=ホモ・サピエンスという存在の生物(ヒト)としての特徴とは何でしょうか? この問いかけにはさまざまな回答が存在しましたが、本論が着目するのは、人間のみが、自然環境を土台に、もう一つの人工的な環境を創りあげ、それを次世代へと継承していく能力を備えているという点です。

 本論では、人間が創出する人工的な環境のことを「社会環境」と呼びます。そして人間の歴史を「社会環境」が膨張/蓄積していく歴史と理解します。

 このことを念頭に置くとき、人間の歴史には、これまで少なくとも2回の特異点とも呼べる、重要な転換点が存在したことが見えてきます。

 まず第一の特異点は、農耕社会が成立したときです。農耕とは、社会の基盤となる食料生産を、それ自体人間によって管理された人工生態系によって大規模に行うことを意味し、農耕社会とは、そうした農耕を主軸として形作られた社会のことを指しています。

 もちろん農耕社会以前にも、人間は人工的な環境=「社会環境」を創出しましたが、それは自然環境の表層を覆う、“薄皮”のようなものに過ぎませんでした。
 しかし農耕社会の成立以来、「社会環境」の膨張/蓄積スピードには桁違いの加速が生じ「社会環境」は、巨大な都市、広大な農耕地、荘厳な建築物、体系化された神話や知識などを含んだ分厚い層をなすものとなっていきったわけです

 次に第二の特異点は、化石燃料社会が成立したときです。化石燃料社会とは、社会の基盤となる動力源を、石炭、石油、天然ガスといった化石燃料へと全面的に置き換えた社会のことを指しています。私たちが現在生きているのもこの化石燃料社会です。

 化石燃料社会は、「社会環境」の膨張/蓄積スピードにおいて、さらに桁違いの加速を生みだします。

 このことを理解するためには、農耕社会が、土台となる自然環境の限界に強く条件づけられたものであったことを想起しておく必要があります。
 例えば、農耕社会の動力源は、水力、風力、畜力、そして圧倒的に人力でした。これは農耕社会が、今日で言う自然エネルギー(あるいは再生可能エネルギー)に制限された社会であったことを物語っています。

 これに対して、石炭、石油、天然ガスといった化石燃料は、太古の生物に由来する有機物が長期にわたって変成したものであり、採掘できればした分だけ、その膨大なエネルギーを用いて「社会環境」の膨張/蓄積させることができます

 実際、もしも化石燃料の使用がなけば、私たちの社会には、未だ鉄道も、自動車も、タンカーも、飛行機も、電化製品も、プラスチックも存在しなかったことになります。
 もしかすると世界の国々は、今日よりもはるかに地域ごとに分権化したものにとどまり、工業的な生産や、市場で交換される財は、今日よりもはるかに小規模なものにとどまってきた可能性があります。その意味では、今日のようなグローバル社会、グローバル経済といったものも存在しなかったかもしれません。

 ところがその反面で、化石燃料社会は根本的な持続不可能性を抱えることになりました。
 というのも化石燃料社会は、生態学的に本来想定されていない大量のエネルギーを使用できてしまうために、地球生態系が本来備えていた自然の生産能力と浄化能力を超過する形で、大量の資源を消費し、大量の物質を移動させ、改変させ、それに相応しい大量の廃棄物をもたらす社会になってしまったからです。

 私たちが環境問題と呼んでいる諸々の現象は、実はこうした化石燃料社会に内在する持続不可能性に起因しています。そしてより広い視点から捉えるならば、環境問題とは――あるいは先に見た「地球1個分問題」の直接的な原因もまた――膨張し続ける「社会環境」が地球生態系(自然環境)との間に引き起こした軋轢の結果であるとも言えるのです。

 さて、ここで人類に残された選択肢は、大局的に見て二つの方向性しかありません

 ひとつは、生じてしまった「社会環境」と自然環境の軋轢を解消するために、「社会環境」の方を、地球生態系の要求に合致するよう造り直すという方向性です。
 そしてもうひとつは、「社会環境」を持続させるために、自然環境への介入をさらに徹底化させ、自然環境を作り替えることよって軋轢そのものを消し去ってしまう、という方向性です。

 つまり、前者がグリーン成長主義や脱成長主義を含むこれまでの環境思想であり、後者が環境加速主義に他なりません。

 おそらく環境加速主義を支持する人々は、これまでの人類史を次のように解釈することになるでしょう。
 人類とは生まれながらにして自然を改変する存在であり、これまでも与えられた限界を突破することによって、自らが理想とする世界を築きあげてきた。例えば人類は、農耕社会の成立によって、自然に制限された食料生産の限界を突破し(第一の特異点)、化石燃料社会の成立によって、自然に制限されたエネルギーの限界を突破してきた(第二の特異点)。
 そしていまや人類は、地球生態系=「地球1個分」という制限をも突破し(第三の特異点)、さらなる加速と進化に向けた途上にある、といったようにです。

 確かに人間存在には、人工的な環境を創出し、それを次世代へと継承していく能力が備わっています。しかし農耕社会の数1000年間に、人類が自然環境の制限のなかで多様な社会や文化を発展させてきたこともまた事実です。
 つまり考え方によっては、化石燃料社会こそがある種の歴史的な“逸脱”であって、その軌道修正を行うために、いまこそ人類は、「地球1個分」と調和した「社会環境」の再創出へと方向転換を行うタイミングなのだ、という解釈も十分に成り立ちえるのです。

 環境加速主義は、科学技術による「地球1個分問題」の克服を、人類が進んでいく、普遍的で、必然的な歩みのなかの一コマに過ぎないと述べるでしょう。しかしそれは、人類史に対するひとつの解釈に過ぎません。そのことは、忘れてはならないでしょう。

(4)環境加速主義を支える技術領域――ジオエンジニアリング、宇宙探査、脱身体化

 次に、環境加速主義が、現実社会でどのように展開していくのかということについて見ていきます。そしてその際、筆者が特に重要だと考えるのが、ジオエンジニアリング、宇宙探査、脱身体化という三つの技術領域です。

 まずジオエンジニアリングとは、主として気候変動対策の一環として推進されている、気候システムに直接介入する技術のことを指しています。そして環境加速主義においては、これが最も重要な技術群を構成することになると考えられます。

 現場ではさまざまな技術が提案されていますが、筆者が特に注目しているのは、バイオマス炭素捕集貯留という技術です。炭素捕集貯留(CCS)とは、発電所などから排出されるCO2を海底や地下深くに閉じ込める技術のことで、バイオマス炭素捕集貯留とは、その発電を、植物や藻類を原料とするバイオマスによって行う技術のことを指しています。

 バイオマスは大気中のCO2を固定することによって形作られますので、この技術は理論上、発電を行いながら、同時に大気中の炭素を除去することができるということを意味しています。

 もちろんこうした技術はまだまだ発展途上の段階にあり、現状を打破する決定打になるとは到底言えません。しかし今後こうした技術が、私たちの想像もしなかった形で社会に普及していくことはおそらく間違いないでしょう。
 (実際、炭素捕集貯留(CCS)そのものは、すでに実践の段階にあり、日本においても2016年から苫小牧で実証実験が行われおり、2030年にはエネルギー庁が事業化を目指すとしています。)

 これまで人間は、これ以上気候変動を進行させないために排出するCO2の量を減らすことを目指してきました。しかしそれでは間に合わないので、むしろ地球の方に手を加え、それによってCO2を排出しても気候が変動しない仕組みを確立することを目指している。私たちはすでにそうした段階に来ているのです。

 私たちはここで、こうした歩みが50年先、100年先といった未来に、どのような社会に行きつくのか、ということを考えてみる必要があります。

 思い切って述べるとするなら、それは惑星全体が、あたかもエアコンの完備されたオフィスのように、都合良く操作、管理、制御可能なものとして認識される世界です。
 そして私たちがこうした技術を手にするとき、おそらく人類は、地球生態系の要求に自らをあわせていくことをやめ、代わりに人間の要求に地球生態系を合わせていく道を選択するだろう――本論が主張しているのは、そういうことになのです。

 次に宇宙探査ですが、この技術群が環境加速主義において重要なのは、それが「地球1個分」に制限されない社会を実現するためのひとつの技術的基盤を提供することになるからです。

 現在アメリカではアルテミス計画という名の、アポロ計画以来の有人月面着陸が計画されています。しかしその先に控えているのは、月軌道を周回するコロニーや、月面基地を中心とした月面経済の確立、そして火星への人類の進出です。

 上記のように、もしも私たちが惑星全体を管理できる技術水準を達成できるのなら、人類はそうした技術を地球の外部に持ち込み、応用することもできるはずです。
 つまり私たちが地球を巨大な「農地」=「庭園」=「自然保護区」として運営できるのなら、将来的には、その人工的な生態系を、宇宙空間や月や火星に創出していくことも可能なはずです。
 そしてこうした方向性で進められる研究が、「地球1個分」を克服するためのひとつの足がかりとなっていくかもしれないのです。

 最後に、脱身体化ですが、これは直接的には、サイボーグ化、メタバース、遠隔操作型ロボットアバターなどといった技術群のことを指しています。こうした技術に共通しているのは、これらがいずれも、私たちを生まれ持った身体の制約から解放するという側面を内在しているという点です。

 例えばメタバース関連の技術が進展すれば、私たちは自身が望んだVRアバターの姿となって、身体的な属性とは切り離した形で、社会生活や経済活動を実践できるようになるかもしれません。 
 また遠隔操作可能なロボットアバターが普及していくことによって、私たちは自宅にいながらロボットアバターで出勤して仕事をする、ということがひとつの選択肢として現実味を持つ可能性があります。

 脱身体化が目指しているのは、究極的には、身体に由来するいかなる事情を抱えた人々であっても、限りなく身体に煩わされることなく、「なりたいと思える理想の自分」として他者と関わり、「自分らしく活躍」できる社会です。
 これは、「自由、平等、自立、自己決定、自己実現、多様性」といった私たちの社会の価値理念にしっかりとマッチしています。それどころか一連の価値理念を拡大させるためには、私たちはむしろ積極的に身体を超克すべきだ、という論理さえ成立しえるのです。

 こうした脱身体化の趨勢は、一見環境加速主義とは無関係のようにも見えるでしょう。しかし、そうとも言い切れません。
 例えばジオエンジニアリングが、私たちの望む世界のために、地球という外的環境を障害として超克しようとするように、脱身体化の技術群は、身体という人間の内的環境を障害として超克しようとしています。そこに内在している原理は、実は同じものだと言えるからです。

 以上で、三つの技術領域について簡単に見てきましたが、一定数の読者は次のように感じたかもしれません。
 「環境加速主義は、科学技術がもたらす未来をバラ色に語るが、こうした技術はいずれも初期段階にある。それによって「地球1個分」を超克できると吹聴するなど、あまりに無謀でばかばかしいことではないか?」――といったようにです。

 確かにそうかもしれません。しかし筆者が強調したいのは、それにもかかわらず、私たちはそうした試みに向けて着実に舵を切りつつあり、実際私たちは、ある面ではすでに環境加速主義へと踏み出していると言えることです。

 例えば、富裕国並みの生活に憧れる途上国の人々に対して、私たちは「地球1個分問題」を理由として、そうした人々の自己実現を阻止する権利はあるのでしょうか? おそらく大多数の人々が「ない」と回答するでしょう。

 また、多くの人々は、こうした未知の技術を批判する根拠として、それが予想もしない副作用を引き起こすリスクを強調します。しかし推進者たちが主張しているのは、そのようなことなど承知のうえで、「リスクを恐れて何もしないことのリスクの方がよほどに甚大なリスクである」ということです。
 もはや現状維持という選択は許されない。私たちはこうした主張にどれだけ抵抗し続けていられるでしょうか。

 しかし事態はそれ以上なのかもしれないのです。例えばもし、この先ジオエンジニアリングが一定の成果をあげることが分かってきた際、人々から「自立や自己決定、自己実現、多様性といった価値理念をいま以上に普及できるのであれば、むしろ私たちは積極的に気候システムに介入しつつ、堂々と化石燃料を活用していってはどうだろう」といった主張が出てくる可能性は十分にあります。
 環境加速主義が導く未来とは、状況次第では“脱炭素社会”ですらない可能性があるのです。

(5)環境加速主義を支える世界観としての「ヒューマニズム」

 さて、最後の論点となるのは、こうして私たちが環境加速主義へと邁進しているとして、いったい何がその推進力となっているのかという問題です。

 一部の人たちは、「人間の持つ飽くなき欲望」こそが、そうした原動力となっていると述べるかもしれません。しかし人を愛することも、ときに自らの犠牲を顧みないことも人間の欲求のひとつです。そのように考えるのなら、欲望の存在は根拠として不十分であることが分かります。

 また前述のように、人類史の射程に立つとき、確かに人間にはもともと環境を改変する能力が備わっていることが指摘できました。しかしそれによって、私たちが「地球1個分」の超克へと向かうかどうかは別の問題であるということについても確認してきました。

 では、その正体とは何でしょうか。私たちはなぜ、これほどまでに環境加速主義へと駆り立てられているのでしょうか。
 手がかりとなるのは、前述したように、私たちの思うような意味での「自由、平等、自立、自己決定、自己実現、多様性」を全人類に行き渡らせるために唯一残された選択肢は、科学技術を用いて「地球1個分」を克服することである、という問題です。

 つまり「自由、平等、自立、自己決定、自己実現、多様性」といった価値理念を世界に具現化させなければならないとする圧力――実はこれこそが私たちを環境加速主義へと駆り立てている最大の原動力である、ということになるのです。

 言い方を変えましょう。ここにあるのは、現実の外部に存在する“理念”に即して、現実の方を作り替えなければならないとする強力な信念です。
 そしてその背後には、「人間は、理性の力を通じて、さまざまな拘束から自分自身を解放することができる。人間の使命とは、そうした力を駆使することで、思い描いた理想の社会をこの地上に具現化していくことである」という、ひとつの世界観が存在しています。

 本論では、こうした世界観のことを「ヒューマニズム」と呼んでいます。そして歴史的には、それがルネッサンス期に変容したキリスト教を土台とする、特殊な世界観であるということを強調しています。
 環境加速主義とは、実は西洋世界が生みだした、この「ヒューマニズム」という世界観がひとつの形として具現化したものなのです。

 したがってもし、私たちが環境加速主義を本当の意味で批判したいと願うのなら、私たちはおそらくこの「ヒューマニズム」の世界観と正面から向き合わなければならないことになります。そしてその試みは、非常に困難なものとなるのです。

(6)まとめ

 まとめましょう。本論では、環境加速主義に対してさまざまな角度から論じていますが、冒頭でも述べたように、筆者自身は、必ずしも環境加速主義に賛同しているわけではありません。筆者は、あくまで環境思想の閉塞した議論に一石を投じ、新しい時代の論点を切り開くことを目指して、この論文を書いたのです。

 「地球やすべての命のために」、そして「物質的な豊かさから、ウェルビーング(精神的な豊かさ)へ」――こうしたスローガンは、もはや人々の心に響きません。
 環境加速主義は、「エコ・ユートピア」に対する絶望や挫折、諦めの心情を起点として拡大していくということを、私たちはもう一度肝に銘じて置く必要があるでしょう。

 これまで見てきたように、環境加速主義を、主流の価値理念に依拠したまま批判することは容易ではありません。

 繰り返しになりますが、環境加速主義は、資本の論理でも、権力の問題でもありません。そうではなく、私たちがSDGsに体現されるような、「自由、平等、自立、自己決定、自己実現、多様性」といった価値理念を最大限に具現化させたいというのなら、私たちは必然的に環境加速主義を目指すしかないということ――これこそが長年環境思想において看過されてきた「不都合な真実」であるということが重要なのです

 もちろん、環境加速主義の試みは、失敗する可能性があります。つまり環境加速主義的な願望にしたがって、「地球1個分問題」を技術的に克服できると信じてきたものの、結果的にそれは不可能だった。私たちは地球環境を後戻りできない水準にまで破壊してしまった、という未来も十分にありえるということです。
 その悲劇的な結末を感じるためには、例えば50年以内に、地球の3分の1が人間の住めない土地になってしまったとしたら何が起こるのか、ということを想像してみるだけで良いでしょう。

 そして筆者は、哲学/思想としてこの問題を論じる際には、環境加速主義が成功を収める可能性についても、十分に想定しておく必要があると考えます。哲学/思想の役割のひとつは、私たちが生きている時代の意味を掘り下げ、さまざまな思考実験を通じて、私たちの選択や未来の可能性を問うことだからです。

 環境加速主義が勝利した人間の未来――それは人類が、地球という制約から解放され、身体という制約から解放され、行きつくところまで行くということを意味します。 
 そこで私たちはどのような存在になっているのでしょうか? そこで私たちは、はたして現代人から見て“人間”と呼びうる姿を保持し続けているのでしょうか? そこにあるのは、本当に“ユートピア”なのでしょうか? こうした疑問に対して、さまざまな検討が求められていると言えるでしょう。

 私たちは環境加速主義が勝利した世界の到来を、いまのうちから準備しておく必要があるのです。



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