根本問題としてのローカルな関係性の喪失。

いろいろと問題はねじれている。

だから、ねじれたままに、ねじれた話をすることになるだろう。

この記事の要約

まずは、ざっくりと、要約的にこの記事で書きたいことをまとめてみよう。

①胡散臭いビジネスをする人たちが許せないという話が盛り上がっている。

②そして、自分では真っ当なビジネスをしていると思っている人たちが、その人たちにとって胡散臭いと感じられるビジネスをしている人たちにモヤモヤしている。

③僕は、自分では真っ当なビジネスをしていると思っている人たちの発言にモヤモヤしている。

胡散臭いビジネスをする人たち?

胡散臭いビジネスをする人たちが許せないという話が盛り上がっている、という話からしていこう。

胡散臭いビジネスをする人たちが許せない人が現れるということは、胡散臭いビジネスをしていると思われている人の界隈が盛り上がっているということなのだろう。

おそらく、副業で稼ぐ方法とか、そういう系のものだ。

とりわけ、僕の周りの教育界隈では、教員を辞めて起業して云々という話が、それにあたるのだと思う。

そういったコンテンツを高額で提供する人たちがいて、さらに、それを支持する人たちがいて、その周辺が盛り上がりをみせている。

そういうことなのだろう。

そのこと自体に、僕はどうこう言うつもりはないけれども、少なくとも、それに対して、胡散臭いと思っている人たちがいる。

どうやら、今、そういう状況にあるらしい。

胡散臭いビジネスにモヤモヤ?

自分では真っ当なビジネスをしていると思っている人たちが、その人たちにとって胡散臭いと感じられるビジネスをしている人たちにモヤモヤしている。

どうやら、そういう状況があるらしい。

このような書き方をすると、自分では真っ当なビジネスをしていると思っている人は真っ当ではないという批判をしようとしているように思われるかもしれないし、あるいは、その人たちにとって胡散臭いと感じられるビジネスをしている人たちは真っ当なことをしていると擁護しているように思われるかもしれない。

けれども、それはどちらも誤解だ。

僕は、自分では真っ当なビジネスをしていると思っている人を批判するつもりはないし、胡散臭いと思われているビジネスを擁護するつもりもない。

どちらも、自分にとって良いと思うことをただやればいい。

そう思っている。

このように言うと、自分では真っ当なビジネスをしていると思っている人たちは、「でも、現実に胡散臭いビジネスをしている人に騙されている人たちがいる。そのことを何とも思わないのか?」と言ってくるかもしれない。

それに対して、僕は、問題の所在を明らかにするべきだと応答したい。

なぜかということについては、詳細は後半に書くことになるけれども、端的に言うならば、問題は、胡散臭いビジネスをしている人の台頭というところにあるのではなく、ローカルな関係性の喪失というところにあるからだ。

話を戻そう。

胡散臭いビジネスにモヤモヤしている人たちがいるという話だった。

僕も、どこまでその人たちの問題意識を正確にとらえることができているかは分からないけれども、僕の認識している限りにおいては、しんどい人たちを顧客として判断力が鈍っている人に軽率な決断をさせてしまうようなビジネスが広がっているということを問題だと感じているようだ。

たしかに、そういうビジネスが広がっているとしたら、それはあまり良いものとは言えないかもしれない。

けれども、それに対して、僕も、それを批判する人たちの言動には、いろいろと思うところがある。

僕は自分では真っ当なビジネスをしていると思っている人たちの発言にモヤモヤしている

自分では真っ当なビジネスをしていると思っている人たちの言動に対して、僕が問題だと思っていることは、以下の2つだ。

①他人のビジネスを批判することで自分の評価を上げようとする行為は、十分に胡散臭い。

②ビジネスの世界に生きている人間が、非ビジネスの世界の問題に対して軽率なことを言うべきではない。

どういうことか。

順番にみていこう。

① 他人のビジネスを批判することで自分の評価を上げようとする行為は、十分に胡散臭い。

たしかに、胡散臭いと思われているビジネスの方にもいろいろと問題はあるのかもしれない。(いや、もしかしたら、問題はないのかもしれない。それは、僕には分からない。)

でも、それを大勢の集まるところで批判するということは、結局、それを批判する自分を真っ当なことを言っている人間として売り込むということなのではないか。

そのように思える。

それが、SNS上でビジネスをしていない人間が言うならばまだしも、SNS上でビジネスをしている人間が言ってしまっては、同じ穴のムジナだと思うのだ。

だから、自分では真っ当なビジネスをしていると思っている人たちのやっていることが真っ当なのかどうかは僕には分からないけれども、他人のビジネスは胡散臭いですよと大勢の人にメッセージとして伝えるということ自体がとても胡散臭いことだと、僕は思う。

だったら、僕ならどうするか。

きっと、本当にそれを伝えたいと思う人がいるなら、その人には個別で話をして伝えるだろうし、そこまでの関係性ではない人に対しては、何もしないだろう。

一人の人が責任を持つことができる範囲というのはその程度だと、僕は思っている。

それ以上のことをしようとすると、善意であっても、行動している側の方が胡散臭くなってしまうからだ。

ただ、これについては、いろんな解釈があっていいと思っている。

たとえ胡散臭いと思われても、多くの人に注意喚起を促すことにはより大きな価値があるとする考え方もあると思うし、いや、言っていることが真っ当であれば胡散臭くはないという判断があってもいいと思う。

しかし、もう一つの点については、見過ごせない問題がある。

②ビジネスの世界に生きている人間が、非ビジネスの世界の問題に対して軽率なことを言うべきではない。

これは、①で書いたことと重なる部分もある。

つまり、胡散臭いビジネスに対する批判者が、自分もビジネスをしている限り、他者を批判することで結果的に自分の評価を上げるということになるなら、ビジネスの世界に生きている人間にはこの問題に対してとやかく言うべきではないのではないかということだ。

けれども、ここで言っているのは、それだけではない。

少し前に書いた話を再び取り上げよう。

自分では真っ当なビジネスをしていると思っている人たちは、「でも、現実に胡散臭いビジネスをしている人に騙されている人たちがいる。そのことに何とも思わないのか?」と言ってくるかもしれない。

僕は、このように書いた。

そして、僕は、それに対して、問題の所在を明らかにするべきだと応答したいと書いた。

つまり、僕の応答の意図は、この問題の本質は、ローカルな関係性の喪失というところにあるということを自覚するべきだということにある、ということだった。

先に、このようにも書いた。

僕の認識している限りにおいては、[胡散臭いビジネスは問題だと思っている人たちは]しんどい人たちを顧客として判断力が鈍っている人に軽率な決断をさせてしまうようなビジネスが広がっているということを問題だと感じているようだ。

僕が言いたいのは、こういう問題がなぜ発生してしまうのかということをきちんと考えるべきだということだ。

なぜこういう問題が発生してしまうのか。

このことについて、深く掘り下げて考えてみたい。

掘り下げて考えていくことで、最後に結論として、「ビジネスの世界に生きている人間は、非ビジネスの世界の問題に対して軽率なことを言うべきではない」という結論に辿り着くだろう。

根本的な問題について

しんどい人たちを顧客として判断力が鈍っている人に軽率な決断をさせてしまうようなビジネスが広がっているという問題。

このような問題があるとして、この問題の根本には、(a)ローカルな関係性の喪失と、(b)個人の自律的な判断力の欠如という二つの根本的な問題があると、僕は思う。

以前の僕なら、(b)をより本質的な問題だと言っていただろう。

けれども、今の僕は、(a)の問題は、(b)の問題に付随しており、切っても切り離せないものであると感じている。

むしろ、(a)の問題を根本的な問題として立てて、その解決を目指さなければ、(b)の問題を解決するのは難しいとさえ思っている。

必ずそうだとは言えないかもしれないけれども、多くの場合、ひとっ飛びに(b)の問題の解決には向かえないのではないかと、そう思っている。

話は逸れるけれども、僕の運営するコミュニティについて

話は逸れるけれども、僕がいいと思っていることと、僕の活動は一体で、僕の具体的な活動を示すことが、僕の考えを伝えることに役に立つと思うから、ここで紹介しようと思う。

これを集客ととらえ、結局、お前もビジネス的な発想をしているではないか、他者を批判して自分の評価を高めようとしているではないかと批判するなら、そう思ってもらっても構わないが、僕は、ここで集客をしようというつもりは微塵もない。

これから書くのは、僕の運営するコミュニティのことについてだけれども、たとえ僕のコミュニティに誰かが入ってきてくれても、僕には一円の得もないし、「◯◯人のコミュニティを運営!」と言って参加人数を自分を権威づけることに使うつもりも全くないからだ。

あえて僕にとってのメリットをあげるとすれば、「全く自分にとってメリットがないことに誠実に取り組んでいる人」という印象を持ってくれる人が現れるかもしれないということぐらいだ。

でも、この記事を読んでそんなことを思ってくれる人は限りなくゼロに近いということも分かっているから、僕としては、そんなこともそもそも期待していない。

ただ、僕の運営するコミュニティの話をすることが、説明の都合上、分かりやすいから、ひとまず、取り上げてみることにする。

僕は、『ディアローグ』というコミュニティの運営をしている。

『ディアローグ』は、参加者の対等性を重要視した無料の学習コミュニティだ。

直接民主制を大事にしているから、月に1回の運営会議という決定機関を設けて、そこで決まったことを実施している。

ただし、対等性と同じくらい自由を重要視しているから、運営会議への参加は任意だ。

コミュニティの活動への参加も、完全に任意だ。

参加したい人が参加したいものに参加し、参加したいと思わないものには参加しない。

参加の仕方も、積極的に発言する参加者としての参加、意見を求められれば発言するというスタンスでの参加、ただ聴くだけの参加など、完全に自由だ。

教員や保育士の振り返りの会や、対話の練習のための会、共通講読図書を題材として意見交換をする読書会などを行っている。

『ディアローグ』は、立ち上げて、3年目になる。

僕が『ディアローグ』を立ち上げたのは、先にあげた、(a)ローカルな関係性の喪失と、(b)個人の自律的な判断力の欠如という問題を解決するためには、このような学習コミュニティが必要だと思ったからだ。

つまり、『ディアローグ』という学習コミュニティの中でローカルな関係性を築き、その中で学び合うことで、参加メンバーが自律的な判断力を身につけることができるのではないかと、僕は考えているのだ。

もちろん、物事はそんなに簡単には進まないかもしれない。

けれども、少なくとも、『ディアローグ』の活動には、この二つの問題の解決に寄与する可能性があるものと考えて取り組んでいる。

では、改めて、(a)ローカルな関係性の喪失と、(b)個人の自律的な判断力の欠如の問題について、さらに詳しくみてみよう。

(a)ローカルな関係性の喪失

学校の先生が、「もう学校の先生を辞めたい…」と思うほどしんどくなってしまったとき、かつては、どうしていたのだろうか。

僕がよく聴く話だと、かつては教職員組合や同僚の中に、必ず何人かは相談に乗ってくれるような人がいて、そこでモヤモヤする気持ちを晴らしたり、アドバイスをもらって乗り切れたりしたものだという。

もちろん、教職員組合にも政治的な色があって、教職員組合の中の権力関係に翻弄されてしんどい思いをしたという人もいただろうし、職場が殺伐としていて同僚関係を切り結ぶことなんてとてもできないような職場を経験したことがあるという人もいるだろう。

けれども、今よりは、そうしたビジネス的なものを介在しないようなローカルな関係性が成立していたのではないかと思う。

それは、もしかしたら、良くも悪くもということなのかもしれない。

なぜなら、ローカルな関係性のうちにある同調圧力にプレッシャーを感じる人もいるだろうからだ。

だからこそ、そうした同調圧力を生み出さないローカルな関係性をつくることが重要だと、僕は思っている。

ローカルな関係性が失われてきていることによって、セーフティネットが失われてしまっており、それがしんどい先生が軽率な判断をしてしまうことにつながっているのではないかと思う。

(b)個人の自律的な判断力の欠如

ローカルな関係性があれば、軽率な判断をしてしまうということも、ある程度防げるのではないかと思う。

たとえば、思い詰めて悩んだときにも、人に相談することで、少なくとも、一人に相談すれば、二人でこれからの選択肢を考えられる。

二人で考えれば、不安からいくらか解放されて、落ち着いた状態で判断することができる。

相談できる人が一人いるだけでも、状況は全然違うと思う。

コミュニティに所属していれば、もっとなんとかなる可能性は高くなるかもしれない。

もちろん、人が集まるということは、良いことばかりではなく、問題が大きくなりやすくなるリスクも同時に抱えることになる。

話がこじれたり、問題が深刻化したりする可能性も出てくることになる。

それでも、いろんな人がいれば、いろんな人に支えられる可能性が生まれる。

二人では解決できなくても、三人なら、四人なら、解決できるかもしれない。

あるいは、五人いれば、その中から自分が相談しやすい人を選べるかもしれない。

人が複数人いるということは、安心して話せる人を見つけやすくなるという側面はあるだろう。

そして、そうしたコミュニティの中で行われる対話が、自律的な判断力を鍛えてくれる。

僕は、そのように考えている。

自分の考えというのは、結局、もともと自分の中にあった考えと外から得たいろんな人の考えを組み合わせて、解釈し、整合性がつく形で練り上げたものだ。

そうだとしたら、ローカルなコミュニティの中で、自由な解釈が認められ、そこで自分の考えを持つことが認められるような環境のもとでこそ、自律的な判断力は身につくと、そのように思う。

だから、ローカルな関係性のもとでこそ、個人の自律的な判断の力は身につけられる。

僕は、そのように思う。

つまり、ローカルな関係性の喪失が、個人が自律的に判断することをできなくさせているのではないかと思うのだ。

「②ビジネスの世界に生きている人間が、非ビジネスの世界の問題に対して軽率なことを言うべきではない」という主張の結論

ここで、先の「②ビジネスの世界に生きている人間が、非ビジネスの世界の問題に対して軽率なことを言うべきではない」という主張の結論へと向かおう。

僕は、「しんどい人たちを顧客として判断力が鈍っている人に軽率な決断をさせてしまうようなビジネスが広がっている」としたら、その根本的な問題は、(a)ローカルな関係性の喪失と(b)個人の自律性の欠如のうちにあると書いた。

つまり、この問題は、非ビジネスの世界の問題だと僕は思っている。

だから、非ビジネスの間柄における相互扶助的な人間関係が失われているという問題に対して、ビジネスの世界に生きている人間が軽率に口を挟むべきではないと、僕は思うのだ。

少なくとも、自分のビジネスにつながる可能性があるようなことを言って問題に介入するべきではないと、そう思う。

もしビジネスの世界の人間が口を挟むのであれば、非ビジネス的な一人の人間として物申すべきだ。

僕は、そのように思う。

そして、ビジネスの世界に生きている人間が、非ビジネスの世界で、人のためになることを精一杯やっている人間を貶めるようなことを言うことは、絶対にやってはいけない。

このことは、声を大にして言いたい。

最後に

僕は、普遍的な問題提起としてこの記事を書いているけれども、この記事を書くにいたった文脈はある。

その文脈に照らして、僕が言いたいのは、「権威なきコミュニティは胡散臭く、権威づけられたコーチングは信用できる」などという言説には、僕は絶対的に反対だ、ということだ。

それは、僕がコミュニティをやっている人間で、コミュニティというものが批判されたから怒っているというのではなくても、反対だ。

もちろん、この理由で、僕はとても怒っている。

でも、冷静になって、自分のことを一旦脇へ置いてみても、僕は、この言説には、絶対的に反対だ。

なぜなら、僕は、自分のコミュニティ以外のものでも、信頼における良心的なコミュニティをたくさん知っているからだ。

しんどい人たちの支えになりたい、お互いに支え合って生きていきたい、お互いの力になり合えるような関係を築き合っていきたい、そういう純粋な願いを持ってコミュニティを運営したり、参加したりしている人たちがたくさんいる。

そこに権威などはない。

ただ、一人の人格として大切にしていることを大切にしたいという想い一つでやっているという人たちが、たくさんいる。

それを、権威づけられていないから胡散臭いなどと言って一蹴する考え方に、僕は大反対だ。

また、権威づけられたコーチングは信頼に足るものであるという発想も、間違いだと、僕は思う。

たとえどんな権威が価値づけたものだとしても、それはある人にとっては価値があるし、ある人にとっては価値がない。

結局、その価値の判断は、一人一人の個人がするしかない。

個人の自律的な判断の問題に対して向き合っているのに、自律的な判断をせずに権威を信頼せよと言うのは、アルコール中毒者に麻薬を投与して麻薬中毒者にしているに等しい。

それでは、問題は何も解決されないし、再生産することになるだろう。

また、資格のような権威づけられたものなど持っていなくても、資格を持った人よりも優れたことをしている人はたくさんいる。

世の中には、ブラックジャックがたくさんいるのだ。

ただ、それがブラックジャックなのか、ただの詐欺師なのか、判断ができない人間は、安易に権威にすがりつく。

そうして、自律的な判断ができない人間の判断力の欠如をさらに深刻化させる。

そうではなくて、資格があろうがなかろうが、そこに価値があるかどうかを判断することができる目を、一人一人の人間が養うことこそが、本当に必要なことではないだろうか。

雑多なことを書いてしまった。

そろそろ、終わりにしよう。

僕は、この記事の終わりに、だから信用できる僕のコミュニティ『ディアローグ』に入会してほしいなどとは言わない。

一人一人の人にとって信頼できるローカルな関係性は、一人一人のうちにあるからだ。

『ディアローグ』をローカルな関係性を切り結ぶ場所として選ぶ人がいれば、是非、活用してほしいけれども、そうではない場所があるならば、その人にとってのその場所を大切にしてほしい。

そう思っている。

いずれにせよ、根本的な問題は、ローカルな関係性の喪失にある。

この問題に向き合っていかなければならないと思っている。

では、なぜローカルな関係性の喪失という状況が生まれてしまったのか。

今回の記事では、この問いについて考えることはできなかったけれども、そういうことを考えることも、とても重要なことだと思う。

またどこかでこの問いへの応答にも挑戦してみたい。

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