社会性と常識と変化について

夏休みの初日の出来事。
職員室はまだまだ大人が多くて落ち着かなかった。
午前10時から、特別支援の研修会があった。

学級に一人はいる「困っている子どもについて、社会性を育む方法」といった内容であった。

『社会性』という言葉はいつから、概念として誕生したのでしょうか。
「国家」の形成、法律によって強制する統治国家への変遷の中でなのか、日本という海に囲まれた島国、村社会の特色なのか。

『社会性』とは、「多くの人がもつ常識に合わせて、その社会に適合するように、己を最適化していく」ことと定義されていた。

それを我々が指導していく、それが求められているのかと思うと、少々息苦しく感じることもある。

常識に合わせて、自身を最適化していくというのは、巨大な多数決に参加しているようで、はみ出ることは許されないというメッセージを生み出しかねない。

現に、学校現場では、「整列!」「前へならえ!」と児童生徒に指示を出す声があがる。指示・指導というより、口癖に近いものを感じる。整列が“きれい”な状態までジッと待ってみたり、「列が揃っていないぞ!」「〇〇さんの場所は?なんで分かってないの?」と怒ってみたりしている学校現場。
「今、この瞬間の整列の意図」「整列する必要性」子どもも指導者も、改めて考える機会、態度、姿勢は多く見られないように感じる。前例踏襲だらけの、まさに文字通り「前にならえ」。これが常態化している。
思考停止、言われるがまま、従うことが良いこと、良いことというのは、指導者から、また多くの人から認められ、仲間として迎えられる。そして「集団」を構成する。似た者同士の寄せ集めである。
そういう文化を創り出し、その文化こそが「常識」として我々の前に立ちはだかる。
学校教育の場は、まるで「国民の平均化」「従順への調教」の場、今もそれでいいのでしょうか。もちろん、国家を転覆させるような者を輩出しようというのではない。ただ、あまりにも「みんな」という大多数を指し示す人間たちとの「同化」、それに注力しているのではないかと心配である。

変化をしないことは、楽です。面倒ごとから身を離す。臭い物に蓋をする。問題意識をもつこと、問いを立てること、それについて考えること、それらの必要はないわけですから、楽です。
しかし、「楽」であって「楽しい」が保障されているわけではないと思います。
変化を嫌う風潮は否めません。「変化」の反対は何でしょう。対義語は「不変」と出てきます。似たような「定常的」「安定的」「永続的」「一定」…といった言葉を並べてみますと、ポジティブな印象をもつのではないでしょうか。
しかし、学校現場で感じるそれは、「停滞」「諦め」というニュアンスに近いような気がします。

 変化しないものは、役に立たない。
 燃料のたきぎが変化しなければ、風呂に入ることもできない。
 食べ物が変化しなければ、栄養にならない。

前進も後退もせずに、一生懸命に現状維持。
それは実は、現状維持のようで、後退しているともいえるかもしれません。
時は待ってくれません。僕らに構わず、ずっと進んでいます。その中で止まっている僕たちは、相対的に考えると、時に追いてかれているのではないでしょうか。

だから、人は自分自身や草花、食べ物など何事においても「成長」することに喜びを感じるのかもしれません。
成長、それは紛れもなく「変化」であり、世のため、人のために役立てることの増幅・増大。そのことへの喜びなのではないでしょうか。

つまり、学校も「変化」という言葉に抵抗があるならば、「成長」と呼びましょう。
だって、学校の先生、大人たち、子どもたちも「成長」することは大好きなはずですから。
学校も「成長」すれば、それを取り巻く地域社会、人々にとって、もっと役立つことができるかもしれません。

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