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月蝕の夜に

 それまで明るく輝いていた月が右隅から黒ずみ始める。
 午後二十一時十一分、快晴。気温二十一度。中庭からゆるく吹き上がってくる風が心地いい。和生は消灯された病室の窓から見上げていた。
 中学のときの担任教師のことを思い出した。
「今夜は皆既月蝕だ。見ることができる奴は見とけ。見たからって、おまえらの人生が変わるとは思わないけどな」
 月蝕のほかに日蝕やらその周期についても解説があったように思うが、その辺のことはなにも憶えていない。当時の彼には気の遠くなるようなサイクルでおこる天体現象などどうでもよかったのだろう。
 凝視し続けていると、欠けていく速度がじれったくなるくらい緩慢に思える。瞬きして周囲の星とともに捉えなおすと、少しは侵食具合があらわになる。
 手を伸ばしてラジカセのスイッチをいれた。スティービー・ワンダーの「A place in the sun ― 陽のあたる場所」の曲が流れてくる。
「今夜は一年ぶりの皆既月蝕です」
 男性ディスクジョッキーの張りのある声が合間に割り込んでくる。
「とかくわたしたちは忙しさに心を奪われて、夜空を見上げる余裕がなくなってきているのではないでしょうか。いま月蝕が始まっています。ちょっと手を止めて、ゆったりとした心持ちで宇宙からの贈り物を楽しまれてはいかがでしょうか。もしかするといま心にわだかまっていることがちっぽけなものに思える、もうひとりの自分を発見することができるかもしれません。……」
 この天体現象によって現実世界を現実世界たらしめている、創造変化の源のような、なにか根源的なものが一変してくれればいいなという淡い期待を抱く。 

There’s a place in the sun
Where there’s hope for everyone
Where my poor restless heart’s gotta run
(I know) There’s a placr in the sun
And before my life is done
Got to find me a place in the sun

陽のあたる場所はある
みんなの望みが叶えられ、
潰えそうな心が報われる場所
僕は信じている、どこかにあることを
一生を賭けて見つけ出さなければならない
…………                    (意訳・筆者)

 二十二時三十五分、ほぼ地球の影に入った。月蝕が起り始めたときは黒く見えていたが、半ば頃からは薄っすら赤みを帯びていることに気づかされる。
 皆既月蝕の状態は二十三時近くまで続き、その後右角からゆるやかに白光が戻り始め、二十三時三十分すぎにはなにごともなく終了した。
 月はいま雲ひとつない夜空に眩いくらいに光り輝いている。
 初めから終わりまでを一人で見ていた。終了したあともしばらく眺めていたが、ため息をついてベッドサイドの電灯を点けようと窓辺を離れた。そのとき、自分のからだが自分のからだでなくなったようなちょっとした違和感を覚えた。
 冴え返った意識が自分の手や足をはじめ、ベッドや脇机、布団……病室のなかのものを冷え冷えと捉えている。身の回りのどれひとつとして自分のものという感じがしない。およそ自分とは隔絶したものに見える。
 自分がこの地球上でただひとり昇天を許される、昇天しうる能力を授けられた存在であればいいのに、と本気で思った。
 その夜、N市へ行った日の時のように寝つくことができなかった。青木のことをはじめ、祖母やN市での奇妙な経験のことなどを脈絡もなくあれこれ思い浮かべていると、妙に冴えかえってきてやたらに感覚が研ぎ澄まされていく。 
 この月明かりのなか亡き実父母がひょっこり姿を現してくるような予感がする。いままで思い出しもしなかった幼いころの記憶が立ち上がってきた。
 やがて見上げている天井に淡い真紅の光の輪がゆっくりと広がり始め、祖母が送って寄越した写真の顔があぶり出されてくる。口元が緩む気配を見せ、どこか懐かしい声が漏れる……。
「カズオ」
 いま自分が夢のなかにいるのか、目覚めているのかはっきりしない。うつつ、夢、まぼろし……それらが互いに混ざり合い、いまという時空を支えあっているように思えた。 

          Ⅰ 

 激しい頭痛と吐き気で目が覚めた。和生はかつてないからだの変調に不安を抱いた。
 布団のなかでしばらく我慢していたが、まるで軽快する兆しがみられない。冷たいフローリングの床を階段口まで這っていき、階下に向かって声をかけた。
「呼んだ?」
 しばらくして、階下に伯母が姿を現した。
「吐き気がする……」
 心配しないように控えめに症状を告げる。
「ひどいの? 病院へいってみる?」
 伯母が二階へ上がってきた。
「お父さんは車で出かけちゃったし、困ったわね……。ひとりで着替えられる?」
「なんとか」
「それじゃあ、わたしもいまから支度するから、和ちゃんも着替えて降りてきて」
 いつもの倍の時間をかけて着替え、階段の手すりにからだを持たせかけながら階下へ降りていった。
「至急一台お願いできますか? 美浜口前の甘木です。ええ、青柳木工さんの前の」
 タクシー会社に電話をかけているところだった。
「……そうですか、そのほうが早いのでしたらそれでも構いません」
 電話を切ってすぐに家の前でクラクションが鳴った。たまたま近くを走っていた帰所途中のタクシーが無線連絡をうけて寄ってくれたのだ。
「昨日のことが原因かしら」
 車の揺れに慣れかけたところで伯母が口を開いた。
「こんなときになんだけれども、和ちゃん、ホントは行かなかったんじゃないの?」
 和生は無言でドアーにもたれかかって吐き気をこらえていた。
「やはりね。ひとりで行くの、わたし反対したんだけど」
 和生が黙っているので行かなかったものとひとり合点したようだ。
 そのとき吐き気に腹部の痛みが覆いかぶさってきた。胃から上がってきたもので口腔がいっぱいになる。重ねて突き上げてくるものに耐えきれず頬筋の緊張を解いた。
 伯母が悲鳴とも叫びともつかぬ奇声を発した。
 伯母に背中を激しくさすられている自分を遠い存在のように受けとめている。伯母の狼狽をじかに感じていたが、やがてそれもできなくなって意識を失った。

          * 

 母方の祖母が隣県のN市にひとりで住んでいると知らされたのは三日前のことだ。
 二階の和生の部屋に伯母がわざわざ上がってきて「お父さんが呼んでいる」と告げた。訝りながら階段を下りていくと、神妙な顔つきをした伯父が仏壇の前に坐っている。
 リビングを通り抜けるとき線香の匂いがした。伯父の背後の仏壇の扉が開かれ、白い香炉のなかの半ば灰になりかかった線香から白い煙がゆらゆらと立ち昇っていた。
「実は今日この手紙を受け取った。おまえの祖母からのものだ」
 ――祖母?
 和生はどう反応していいのかわからず座敷の手前で突っ立っていた。
「ちょっと、ここに坐れ」
 伯父はそう言い、黙ってその言葉に従う和生の顔色をうかがっていた。
 和生は父方の祖父母は戦災で亡くなっていると聞かされていたが、母方の祖父母のことはいままで一度も話題にのぼったことがなかったので、とうに両方とも亡くなっているものとばかり思っていた。
 和生の実母の多佳子は彼の誕生と同時に死去していた。二十五歳という若さでの他界に縁者でなくともだれもが無念がった。
 生まれつき腎臓の持病を患っていた多佳子は、かかりつけの医者から子どもは諦めたほうがいいと忠告されていた。本人も諦めがついているはずだったが、いざ妊娠という事実に直面すると彼女の心は大きく揺らいだ。
 妊娠を知った日からそう経ないうちに彼女は出産を決意した。周りの人間のどんな言葉も彼女の決心を変えさせることができなかった。
「可能性がないわけじゃないから、産めないわけじゃないから」
 妻の強い意思に夫の耕一は根負けし、多佳子ほどではないにしても周囲の人間に理解を求める側にまわった。ただ母方の祖母だけは最後まで反対し続けた。
「自分の孫の顔を見れば、あんなに反対するんじゃなかったと手の平を返したように喜んでくれるはずだわ」
 多佳子は膨らみつつあるお腹に手をあてさせて逆に耕一を励ました。
 そんな楽観的な彼女の態度とは裏腹に、妊娠六ヶ月を過ぎるころから事態の緊迫度が急速に増していった。賛成してくれていた者たちにもにわかに危惧を抱かせた。
 耕一は事前に担当医師に子どもより母体の命を優先してくれるように頼んではいたが、悪い予感が現実のものとなってしまった。出産は母・多佳子の死という犠牲を払うことによって実現した。多佳子はわが子の産声を聞くことも、また胸に抱くこともなく息を引きとった。
 多佳子の死後、祖母は耕一を「なぜ出産を思いとどまらせなかったのか」「どうして同意したのか」といくども声を荒げてなじった。顔を合わせれば繰り返し浴びせかけられる祖母の責め言葉に、耕一は無言でただうつむいてからだを震わせているだけだった。
 その祖母の耕一への憎しみがエスカレートしていき、ある日来宅するや真新しい娘の祭壇の前で「多佳子が死んだのはあんたのせいなのよ。なにを考えているのかわたしにはさっぱりわからない。その優柔不断さが多佳子を死なせてしまったのよ。わたしは一生あなたを許さない」とまで言い放った。
 耕一は多佳子の四十九日の法要を数日後に控えた日の夕刻、近くの建築中のビル現場で事故とも自殺とも断定できない謎の転落で死去した。ひとり残された和生は子どものいない耕一の兄夫婦に引き取られた。病弱でひとり暮らしの祖母に誕生間もない赤子の面倒をみることは難しかった。
 その直後から祖母の奇行が目立つようになった。いきなり伯父夫婦の家に現れ、なにも言わずに勝手にあがり込み、伯母の必死の静止にひるむことなく、仏壇のなかにきちんと整理して収めてあったアルバムやスナップ写真を乱暴に引っ張り出し、そのなかから多佳子が写っている写真を一枚残らず手提げ袋に押し込んで持ち帰るということがあった。
 そういうこともあって、祖母と伯父夫婦の関係が悪化し、交流も少なくなり、ついには祖母が長年住んでいた家から忽然と姿を消してしまうという事態にまで発展した。それ以降は、親しかった友人知人に尋ねても誰も行方を知らず、音信不通となった。
 伯父は和生に祖母とのいきさつを手短に話したあと、二日前に祖母が送って寄越したという手紙と同封されていた手書きの地図を和生に渡した。
「こんどの日曜にでもとりあえずおまえだけ会ってきなさい。わたしたちも一緒にうかがった方がいいのかもしれないが、文面からも当時のことをとても気に病んでおられるようだし、ご病気に障るかもしれないから……」
 和生は渡された手紙と地図を卓上に置き、それを見つめたまま黙っていた。どう答えていいのかわからなかったからだ。
「いまご病気で寝たきりらしい。とりあえずおまえが一人で会いに行くのが一番いいと思う」
「………………」
「いきなりで、どうしていいのかわからないのも充分わかる。お年のことを考えるとそう悠長に構えてもいられない。いいな」
 沈黙が和生の気持ちと察し、伯父は諭すような口調で言い渡した。
 和生は伯父の顔を見ず小さく頷いた。 

          Ⅱ 

 目を覚ましたのは手すりの付いた電動ベッドの上だった。
 いったい自分がどのくらいの時間意識を失っていたのかわからない。数分間のようでもあり数時間のようでもある。薄水色の地に紺のストライプの入ったパジャマを着せられていた。
 自分がどうしてここにいるのか、またどうして真新しいパジャマを着せられてベッドの上に寝かされているのか、しばらくわからなかった。
 ――タクシーのなかで僕は気を失ったんだ……
 事態が飲み込めてくると気持ちに少し余裕が生まれた。
 病院特有の消毒薬の匂いが白い部屋に充満している。外光が満ち溢れ、眩いばかりに明るい。窓の外に目の醒めるような真っ青な球状の紫陽花が見えた。雨上がりの晴れ間から射す光に花や葉の上にのった滴がきらめいている。
 近くに学校でもあるのか、子どもたちの甲高い声や叫び声が聴こえてくる。
 右手に白い扉が見える。耳を澄ましたがなんの物音も人の気配もなかった。
 自分の足が自分の足のように感じられない。ベッドの手すりを掴んでやっと横坐りできたが、すぐに眩暈が襲ってきてうつぶせに倒れこんだ。ベッドから降りることを諦めて仰向けになったところに、いきなり扉を開けて険しい顔つきの伯父が入ってきた。
「大丈夫か」
 いつもの落ち着いた声が聴けてホッとする。
「吐血したそうじゃないか」
「ひどい貧血状態なんですって」
 伯父の肩越しに伯母が顔を覗かせてつけ加えた。
「そりゃあもう、びっくりしちゃって……」
 矢継ぎ早にいろんな言葉を浴びせかけられたが、和生はひと言も返すことができなかった。
 タクシーからストレッチャーに移し変えられて手術室へ運ばれ、内視鏡検査で出血性十二指腸潰瘍とわかり、止血クリップが施術された。集中治療室で輸血をうけ、容態が安定したのでこの病室へ移された。
 そのとき扉をノックする音がした。和生がはっとして手足を縮める。
 病室に入ってきたのは和生が直感した老人ではなく、丸顔の小柄な若い看護師だった。手に暗紅色の液体が入った平べったいビニール袋と注射針のついた点滴用のチューブを持っている。
 看護師は「それじゃあ輸血します」と言うと、ベッド脇に立てた点滴用の支柱のフックに暗紅色の袋をぶら下げ、伯父夫婦が見守るなか慣れた手つきで和生の右腕のパジャマをたくしあげ、ゴムバンドを巻き、青く浮き出た静脈に針を射した。
「そんなに貧血がひどいんですか」
 伯父が点滴の速度を調節している看護師に問いかけた。
「はい。血圧も低いですし、……とにかくいまは安静にしといてもらわないといけません」
 看護師は和生に向かって「ベッドから降りちゃ駄目だからね」と笑顔で言葉をかけた。
「どれくらい輸血するんでしょうか」
 伯父は医師に聞き漏らしたことを看護師に尋ねた。
「それは検査結果しだいですね」
 看護師が反対側に立っている伯父の方を向いて答えた。
「お若いですし、すぐよくなられますよ」
 彼女は微笑みを浮かべてそう言うと、病室を出て行った。
 看護師と入れ替わりにひとりの初老の男性が病室に入ってきた。
「青木と申します。よろしくお願いします」
 伯父夫婦に向かって隣のベッドを指差して挨拶した。
「こちらこそよろしくお願いします」
 伯父は伯母と一緒に立ち上がって頭を下げた。
 青木はちらっと和生の方を見て微笑みかけると、さっさと自分のベッドに横になった。和生はこのとき、この病室がクリーム色のカーテンで二つに仕切られている二人部屋だと知った。

          * 

 伯父から祖母の存在を知らされた週の日曜日、和生は伯母に見送られてひとりで自宅を出た。
 隣県のN市は和生が住んでいるS市より都会だった。S市の駅前は古ぼけた平屋の木造商店と民家ばかりで、N駅周辺のような商業ビルやマンションなどが立ち並ぶ景観とは大違いだった。
 N駅の改札を抜け駅舎を出たところで立ち止まらざるをえなかった。にぎやかな都会の喧騒と忙しげに行き交う人の数に圧倒されたからだ。
 伯父からもらった地図に従って国道と県道が立体交差するところまで来たとき、突然金縛りにあったように立ちすくんだ。しきりに前方の国道へ降りる階段を気にしているもうひとりの自分がいる。どこにでもある普通の石階段だったが、和生には初めて見るもののように思えなかった。なぜか懐かしい感情が湧いてくる。
 気を取り直してさらに地図に従って道をたどっていくと、大きな門構えの屋敷に行く手を阻まれた。石柱に「大石健一郎」という名が刻まれた立派な表札が埋め込まれている。
 地図に目を落とし、名前を確認する。
 ――三田村邦子……ここじやない。
 歩いてきた道を戻ってみる。道順は間違っていない。地図によると屋敷を囲む竹垣の反対側に道路があり、そのなかごろに塗りつぶされた黒丸があった。
 屋敷の裏手に回ってみようと思い、竹垣に沿って歩き始めた。屋敷の敷地はかなり広く、なかなか裏手に回れない。道路など存在しなかった。屋敷の裏手の道は交通量の多い幹線道路だった。
 和生はいぶかしく思いながら公衆電話を探すためにN駅へ戻った。駅前の電話ボックスに入り、あらかじめ言うことを決めてからメモにある電話番号をプッシュした。
「この電話番号は現在使われておりません」
 拍子抜けしたメッセージが流れてきた。和生は耳を疑った。
 もう一度試してみたが結果は同じだった。
 ――使われてないというのはどういうことなんだ。
 今度は自宅へ電話をかけた。呼び出し音が繰り返されるばかりで、いるはずの伯母が電話に出ない。
 ――なんかあったら電話してきてと言っときながらなんだよ。
 仕方なく和生はもう一度地図を辿ってみることにした。その道の途中にある対面販売のタバコ屋の前で彼は立ち止まった。
 タバコの受け渡し窓の小さなガラス戸を引きあけ、奥に向かって声をかけた。奥の暗がりから甲高い声がして白髪混じりの人のよさそうな婦人が現れた。
「三田村邦子さんのお宅を探しているんですが」
 和生がそう尋ねると、彼女は彼の持っているメモをチラチラ見ながら、
「三田村さんなら引っ越されましたよ」
 と、きっぱりと答えた。
「いつ頃ですか?」
「ずいぶん前だわね」
 彼女は和生をしげしげと見ながら続けた。
「十年くらい前かしらね」
「えっ、確かですか?」
「ええ」
 婦人は和生の驚いた表情に探るような目つきで応じた。
「どこへ引っ越したかわかりますか?」
「そこまでは聞いてないわ。そんなにつき合いがあったわけじゃあないし……うちだけじゃなく近所づきあいは少なかったんじゃないかしら。どこか暗い、陰気な感じのするお婆ちゃんだったしね」
 礼を言ってタバコ屋を離れ、再び県道と国道が立体交差する場所へ足を向けた。
 県道へと降りる石階段の上に立つとまたどこからともなく懐かしさが湧いてくる。
 石階段を降りて行く。道の一方はまっすぐM市の方角へ伸びていて、真新しいセンターラインが建物の間に吸い込まれるように消えていた。反対方向はすぐ左手にある常緑樹の樹々を包み込むように曲がっていた。
 濃い緑の樹々がある敷地は公園だった。公園のなかの遊歩道を辿っていくと小さな池があった。ひらけた景色が遠い過去から忽然と目の前に立ち現れたかのように映る。
 和生は自分の感情が掴めなくてそこをしばらく離れることができなかった。

 通い慣れたS駅からの帰路でもN市での奇妙な展開と不思議な感覚は尾を引いていて、和生は抜け出せないでいた。彼のなかに膨れ上がってくる得体のしれない不安感は、家が見えてきてもなくならなかった。
「どうだった? 元気そうだった?」
 家に入るや否や伯母が訊いてきた。
「会えなかった」
 和生はどう説明すればいいのかわからくて、伯母にそれだけ言うと二階の自分の部屋へ上がっていった。伯母はそれ以上訊いてこなかった。
「今日、三田村さんに会えなかったそうだが……」
 夕食のとき伯父が口火を切った。
 和生は頷いた。
「あの地図はいつ書かれたんだろう」
「地図?」
 伯父は箸を止めて、和生の顔を不思議そうに見ながら訊き返した。
「地図って、三田村さんが送ってきたあの地図のことか?」
「そう」
「あの地図は手紙に同封してあったものだから、先週か先々週頃じゃないか」
「あの地図どおりに行ったんだけどたどり着けなかった」
 伯父は伯母と和生の顔を交互に見た。
「近所の店で訊いてみたんだけど、引っ越したって言われた」
「どういうことなんだ?」
「僕にもわかんないよ」
「そんなことってあるかしら」
 伯母が加わった。
「それも十年くらい前に」
 伯父が箸を置くと立ち上がった。すぐに戻ってきて封筒の裏を見ながら「日付は先々週の七日になってる」とだけ言い、伯母の顔を見た。
「十年も前に引っ越したって言われたの?」
「そう。メモにあった電話番号にもかけてみた。現在は使われてないって」
「ちょっと地図を見せてくれ」
 伯父はケースから老眼鏡を出してかけ、和生が差し出した紙片を受け取った。
「間違えようのない地図だけどな。また電話番号もしっかり読めるし……」
 伯父は首をひねった。
 伯父は席を立ち、リビングの骨董品のようなダイヤル式の黒電話の受話器に手をかけた。
「……使われていないんですか?」
 伯母が待ちきれないとばかりに伯父に言葉をかけた。
「いや呼んでる」
「呼んでるの?」
 今度は和生が驚いて訊いた。
 伯父は和生の顔を見て頷くと、再び電話の方に向き直りいったん受話器を置き、改めてメモを確かめながら声に出してダイヤルを回した。
「これじゃあ、使われているのか、不在なのかわからないな。明日また掛けてみよう」
 伯父はそう言って受話器を置いた。 

          Ⅲ 

 伯母は入院に必要なものを買いそろえるために病室を出て行った。それからしばらく伯父と和生は言葉を交わすことなく、二人して血液の入ったビニール袋から伸びるチューブについている点滴筒のなかで膨らんでは落ちるしずくを眺めていた。
 あのときも和生と伯父は雨樋のひび割れからしたたる雨のしずくを二人で見つめていた。和生はそのときのことを克明に憶えていた。和生が私立の中高一貫校に入学したばかりの、梅雨明け間近な夕方のことだ。
 ちょっと前まで降り続いていた雨が上がり、雨樋には雲間から射す日の光に照らされた雨のしずくが光っていた。縁側の板張りの床に坐っている二人はそれを珍しいものでも見るかのように眺めていた。
 この日はじめて自分が伯父の弟の子だと打ち明けられた。和生の母親は彼が産まれると同時に亡くなったこと、父親も和生の出産直後に母親の後を追うように死去したこと、そして彼が子どもに恵まれなかった伯父夫婦に引き取られて養子になったことを話して聞かせた。
「お母さんが子宮筋腫の手術を受けたばかりの頃だ。お母さんは真っ赤な目をして涙をぽろぽろこぼしたんだ。そのときお父さんは胸を締めつけられるようだった。なんでこんなことになってしまうんだ、わたしたち夫婦がなにか悪いことでもしたのかと誰に対してなのかわからない怒りが湧いてきた。お母さんの気持ちを想うととても落ち着いてはいられなかった。穏やかではいられなかった。
 いくら望んでももう生涯子どもは自分たちにはもたらされないんだということが、仕方のないことなんだということが理解できるまでには随分時間がかかったよ。
 犯罪とはまるっきり無縁なごく平凡な生活をしている夫婦が人様の赤ん坊を誘拐するという事件が時々ニュースになるけれども、かつてはなんでそんなことができるんだろうと思っていたけれど、いざ自分たちに子どもができないということが決定的になってみてはじめて犯罪に手を染めてしまう夫婦の心境がわかった。
 母親には、社会的罪悪などという規範なんかでは抑えることのできない本能的な衝動性を秘めた、まさに母性としかいいようのないものが備わっているんじゃないかな。父親にはそんな母性にあたるような父性はないようだけれども、そんな事件を母親と一緒に引き起こす父親の心理には、おそらくお父さんがお母さんに抱いた気持ちとそう遠くないものがあったんじゃないかな。
 おまえがわたしたちの養子になるに当たってはいろいろなことがあったけれども、お父さんとお母さんにはそれまでには理解できないような渇望のようなものがあったんだよ。だからお母さんがどんなに喜んだことか。お父さんがおまえを抱いたお母さんの嬉しそうな顔をどんな思いで見ていたことか」
 そう言うと、伯父は口を閉ざした。当時のことを思い出しているようだった。
 二人の間にそれから短くない沈黙が流れた。
「雨が上がったようだ」
 伯父はそう言うと、ゆっくりと腰を上げた。そして振り返って和生に声をかけた。
「和生、来て見ろ。日が当たってダイヤモンドみたいだ」
 和生は思いがけない伯父の言葉に誘われて伯父の隣に立った。
 和生は伯父と伯母の年齢が同級生たちの両親に比べてかなり上なことを不思議に思ったことはあったが、自分が伯父と伯母の実の子ではないなどということを思ったことは一度もない。伯父夫婦の和生に対する愛情はそんな疑いを微塵も抱かせないほど深かった。
 同級生たちが自分たちの親に対するのと同じように、反抗もし、喧嘩もし、そのときどきに遠慮のない感情をぶつけてきた。もし実子でないことをすでに知らされていたら、伯父夫婦との間に溝ができてしまって、なにかにつけそのことが頭をもたげてきて彼の態度や行動に影を落としてきたことだろう。
「養子だからといっていままでとなにも変わりはしない。お父さんは和生のお父さんだし、お母さんだって和生のお母さん以外のなにものでもない。俺もお母さんもおまえのことを養子だからとか、実の子ではないからなどと思ったことは一度もない。和生が弟の子だなどという意識はとっくの昔になくなっている。これからも固い絆で結ばれた家族であり続けるだろうと思っている」
 伯父はそう言うとなにかを思い出したのか、途端に表情が緩んだ。
「かけがえのないうちの大切な跡取り息子というわけだ」
 和生は伯父夫婦が実父母でないということがにわかには実感できなかった。
「和生、おまえはもう中学に上がる年頃だ。もうそのへんの道理が理解できるはずだ。だからお父さんは打ち明けようと思った。いいか、和生。受け止められるよな。お前とお父さんたちとの関係はこれまでとなにも変わらないし、今までどおりだ」
 伯父は和生の目を見てそう告げた。そして和生の小さい肩を痛いほど掴んで自分の方へ引き寄せた。
 和生は伯父の真剣な表情と迫力に気圧されて恭しく頷いた。
 そのとき伯父の目が突然潤んできて光った。それを見た和生は軽い衝撃を受け、熱いものがこみ上げてくるのを抑えることができなかった。
 そのときまでなんの物音もしていなかった台所の方から、水道の蛇口をひねる音と水が勢いよくステンレスの流しを打つ音が伝わってきた。 

         Ⅳ 

 プラスチックの器の載った夕食のトレーが下げられて間もなく、伯父夫婦は帰っていった。帰り際に伯母が完全に閉じられていた隣のカーテンを少しだけ開けて、青木に声をかけた。
「ご迷惑おかけしますが、よろしくお願いします」
 声をかけられるとは思っていなかったのか、青木が慌ててベッドから起き上がって頭を下げた。
 伯父夫婦が病室を出てまもなくして和生と青木の間のカーテンが勢いよく開けられた。
「ちょっといいかな」
 青木はそう言うが早いか、和生のベッドの横に来客用の丸椅子を持ってきて坐った。
「アマギさんだっけ?」
「はい」
「アマギさんじゃあ、あまりにもよそよそしい。……下の名前は?」
「カズオです」
「ああ。じゃあ、呼び捨てで『カズオ』」
 青木は汗で額に貼りついた前髪を手で掻き上げながら笑った。
「そういうわけにはいかんよね。呼び捨てじゃあ、ご両親の手前まずいから『カズオ』ちゃんか、『カズ』ちゃんというのはどうだろう」
「どちらでもいいです」
 和生も笑いながら答えた。
「おじさんはみんなから『アオ』さんて呼ばれてるから、『カズ』ちゃんてことで」
 青木の物腰の柔らかい雰囲気に好感を持った。彼には青木が明かした六十一という歳には見えなかった。
 和生の年齢、伯父伯母の年齢、伯父の職業、出身地……それに和生の病気のことまで矢継ぎ早に訊いてきた。ひとしきりやりとりが続いたのち彼は口を閉ざした。 

 青木康太は九州の熊本県の炭鉱町に次男坊として生まれた。父親は彼が生まれる前から鉱山に勤めていた。
 初めは地上での坑外資材管理業務に携わっていたが、その給料では一家四人食べていくのが精一杯だったからより給料の良い、そのかわり危険な坑内炭の掘進業務に変わった。その三年後、狭い炭鉱住宅を出て一戸建ての家に引っ越そうかという話をしていた矢先に落盤事故が起こり、地下三百八十メートルの坑道で石炭の下敷きになって死去した。
 それからの母親を中心とした一家三人の生活は貧しさとの闘いだった。母親は仕事を始めたが、なんの技術も持たない、しかも二人の子持ちの母親に率のいい仕事などあるはずもなく、収入は兄の新聞配達のアルバイト代を合わせても父親の生前の半分にもならなかった。
 彼の兄が父親と同じ鉱山会社に勤め始めたことで生活が楽になりかけたが、父親に続いて兄も一九六三年十一月に起こった炭鉱災害史上最大の炭塵爆発事故で死去した。このときばかりはさすがに気丈な青木の母親も「死」を口にしたという。
「母親は四十三という若さで病死。自分はその時十七になっとった。その後親戚に引き取られたけど、腹の立つことばかりで毎日喧嘩ばかりしとった。それで十八でその家を飛び出して関西、関東と各地を転々としながら気ままに一人暮らし。仕事もいろいろやったけどそのうちのひとつにラーメン屋があった。たまたま出会った店主に気に入られて結構長く勤めてた。俺が働いてるときにその店主が心不全で亡くなって、で、そこの一人娘と結婚した。それから店主の奥さんと自分の奥さんと自分の三人暮らしが始まって、ラーメン屋を継ぐことになったんだよね。そのうちに女房が妊娠して娘がひとり生まれた。店の方も順風満帆かに思えたけれど、最初だけでね。おり悪く不景気の波にのまれて、客足が遠退き、経営が悪化し、赤字補填のための借金の繰り返し。頑張ったけど、景気は良くならず借金は増え続けた。その頃からなにかと口出しする女房のお袋さんとの仲もぎくしゃくしてきて、ラーメン屋の仕事が厭になってしまった。昼間から酒ばかり飲むという生活ぶりに奥さんも悲嘆にくれて、愛想つかされて、離婚。娘ともそれ以来絶縁状態。
 人は生きているといろんなことに見舞われる。いまじゃあ肝臓を悪くしてこの有様。毎日規則正しい生活はさせてもろうとるけどね」
 それだけ言うと青木はさっさと丸椅子を片づけ、カーテンを戻すと和生がこれまでに聴いたことがない歌詞と節回しの歌を口ずさみながら病室を出ていった。
 それから一時間ほどして戻ってきた。手には酒の缶を持っていた。和生にちらとそれを掲げて見せて微笑むと、自分の足元のカーテンを開けてなかに入った。
 そこへ看護師が入ってきた。
「検温です」
 青木の足元のカーテンが開けられた。 
「あら、今日は夜勤?」
「そう。あれ、ちょっと、なに? お酒臭くない?」
「ぜんぜん。鼻悪くなったんじゃないの?」
「そうなのよね、この時期になるといつもこう。ブタクサの花粉症なんだよね」
「大変だよね。気をつけないと」
「こっちのセリフだわよ。で、具合はどうなんですか?」
「ちょっとだるい感じがするかな」
「痛みは?」 
「それもちょっとだけ」
「薬持ってきましょうか?」
「いいです。なんとか眠れるし」
「そう。辛かったら遠慮なく呼んでくださいね」
 看護師は青木の検温が済むと、和生のカーテンのなかに入ってきた。
「えーと、今日からですね」
 バインダーで綴じられた書類に眼を落とす。
「輸血は初めて?」
「はい」
「血圧を測ってみようか」
 和生の右腕に血圧計の布を巻き、聴診器を当てて空気を入れ始めた。
「低いのはしかたないわね」
 微笑みながら和生の顔を見た。
「体温は、と」
 看護婦はデータを書きとめ、そのまま部屋を出て行こうとしたが立ち止まった。
「やっぱりアルコール臭くない?」
「ぜんぜん」
「鼻がおかしいのかな」
 不審がりながら病室を出て行った。
 今回が生まれてはじめての入院だった。本来ならば初対面の人間と一緒の部屋にいるというのは落ちつかないものなのだろうが、和生はなんの緊張も居心地の悪さも感じていなかった。
 
 輸血、増血剤の点滴は一週間で止められた。血便も出なくなった。貧血状態は改善され、「絶対安静」は解かれた。
 この一週間は昏倒のおそれがあるためひとりでトイレへ行くことも許されず、排泄はすべて病室で済ませていた。そのため病室に異臭が漂うことがあった。その点で和生は同室の青木に気兼ねしていた。食事の前にはしないようにしていたが、なんどか我慢できないときがあった。そんなことがあっても青木はひと言も文句を言わなかったし、話題にすることもなかった。青木は嫌な顔ひとつせず彼に接してくれていた。
 伯母はおまるや尿瓶を掃除するたびに青木に詫びていた。彼女は誰に対しても分け隔てなく細やかな心配りのできる女性だった。和生は伯母が声を荒げたり、自分を見失うような振る舞いをする場面を一度も見たことがない。
 青木にも似通ったところがある。初対面の人間に明け透けなほど心を開き、瞬く間に相手との溝を埋めてしまう。青木も伯母も無類の優しさと相手に対する思いやり、情け深さという点で共通しているように思われる。
 ある日青木がぶらりと和生のカーテンのなかに入ってきて、窓際にもたれかかりいつかのように外の景色に遠い眼差しを向けて立っていた。
「……アオさん」
 和生が黙り込んでいる青木に声をかけた。
「話かけてもよかったですか?」
「ああ、ごめん。ボーッとしてた。よかよ」
 彼は青木に自分が実子ではないこと、まだ会ったこともない母方の祖母がいること、そして伯父夫婦にも話さなかったN市での不思議な体験のことまで打ち明けた。
 青木にここ数日和生のなかにわだかまっていることを話す気になったのは、自分ひとりの胸のなかにしまっておけないという気持ちもなくはなかったが、最大の理由は、青木ならどんな稚拙な内容の話でも、茶化したり馬鹿にしたりせず、そのまま受け止めて聞いてくれ、必ず助けになるような言葉を返してくれると信じていたからだ。
 和生が思ったとおり、取り留めのない、捉えどころのない彼の話を青木は真剣な表情でひと言も口をはさむことなく聞いてくれた。
「うーん、そうだったんだ」
 彼なりにすべてを話し終えたところで青木が口を開いた。そして、彼のN市での不思議な体験についてはなんの興味も示さなかったが、実子ではないこと、まだ見ぬ祖母が生存していることには関心をもったようだった。
 青木は矢継ぎ早に和生に質問してきた。そして和生の数少ない実母や祖母についての情報が底をつくと、青木はまた遠くを見るような目を窓の方へ向けた。
「苦労なんてものは死ぬ覚悟でぶつかればなんとでもなるよ。病気のカズちゃんにこんなこと言うのはなんやけれども、死なんてちっとも怖くはなかね。いつでも死ねる。その覚悟はできちょる」
 青木は再び顔を窓外に向けた。自分のこれまでの歩みを思い返しているような目つきだった。
「でなきゃあ、とっくの昔に根を上げとった。ただ生きてる間にひと目でもいいから会っておきたい、という心残りだけはある……」
 独り言のようにそう呟くと青木は口をつぐんだ。言葉の威勢のよさに比べて、その表情は寂しげだった。

しあわせはおいらの願い 仕事はとっても苦しいが
流れる汗に未来をこめて 明るい社会をつくること
みんなと歌おう しあわせの歌を
ひびくこだまを 追っていこう

しあわせはわたしの願い あまい思いや夢でなく
今の今をより美しく つらぬき通して生きること
みんなと歌おう しあわせの歌を
ひびくこだまを 追っていこう

しあわせはみんなの願い 朝やけの山河をまもり
働くものの平和の心を 世界の人にしめすこと
みんなと歌おう しあわせの歌を
ひびくこだまを 追っていこう

 かつて聴いたことがある軽快な感じの歌を、このとき青木は暗い感じで口ずさんだ。
 病室の窓の上半分の窓枠が梅雨明けした初夏の青空を絵画のように切り抜いていた。その空にわずかに浮かぶ白雲が夕日に染められていく。窓辺の紫陽花の葉も、虹色の細かい花弁も鮮やかに息づいている。
「おばあちゃんに会いたくなかというわけ?」
「いえ、そういうわけじゃないです。会いたいとか会いたくないということじゃなくて、祖母と自分の関係というか、祖母のことを自分はどう受けとめればいいのかがよくわからなくて……」
「そんなことはいくら考えたってわかりゃあしないよ。会うことが先、いましなければならんことは、行動、実行。……おじさんにそういう孫がいたとしたら、ぜひ会いたかし、生きとるうちに一日でも早く会いに来てもらいたいと思うね……死ぬまでに一度でよかけん」
 青木は和生をちょっと見て再び窓の方へ顔を向けた。
 
          Ⅴ 

 入院生活が一ヶ月を過ぎたある日、和生のもとに一通の分厚い封書が届いた。差出人は、「三田村邦子」――和生の祖母だった。
 住所は書かれていなかった。封筒のなかには、手紙とセピア色に変色した手札サイズの一葉のモノクロ写真が入っていた。
「甘木さんからご連絡をいただきとても驚きました。……」
 手紙を開けると一枚目の書き出しの一文が目に飛び込んできた。和生は写真を拾い上げてそれに目を落とした。若い女性と中年の女性がこちらを向いている写真だった。
 写した場所は病室らしく、簡易ベッドの後ろに和生の病室と同じ殺風景な生活臭のない白壁が見える。若い方の女性はベッドに横になり、もう一人の中年女性はベッド脇の椅子に腰掛け若い女性の方にからだを斜めに傾げてこちらを見ている。若い方の女性は微笑を浮かべているが、中年女性の方の表情は固かった。
 和生は写真を糊の利いた白いシーツの上に置き、手紙を開いて読み始めた。
「甘木さんから連絡をいただいたときはとても驚きました。すぐお見舞いに行きたいと思いましたが、このからだではそれもかないません。
 甘木さんのお話だと車のなかで吐血して気を失ったとのこと。路上で、そして和生ちゃんがひとりのときでなくてなによりだったと思いました。
 今はもうひとりで歩けるまでに回復したので心配は要りません、と甘木さんはおっしゃいましたが、心配しないわけには参りません。完治したわけではないし、第一どうして吐血などしたのか、これからまた吐血するようなことがあるのか……考えれば心配なことが一杯出て参ります。
 できることなら、今すぐ和生ちゃんの病院へうかがって会いたく思います。本当に一度でいいから会いたい。お医者に痛み止めの注射を打っていただいているのですが、最近ではそれもあまり効きません。夜、針で刺すような痛みが続いて寝つかれないことがしばしばです。そのつどヘルパーの人を起こすのも気の毒なので、ひとり暗い天井を見上げてこらえています。
 夜中にひとり起きていて真っ暗闇のなかで痛みをこらえているのは、とても不安で、恐ろしいものです。そんなときはいつも早く夜が明けないかと祈るような気持ちです。柱時計が三つ打った、あと二時間もすれば明るくなる、四つ打った、あと一時間たてばヘルパーの人を起こせると、そんなことばかり痛みが遠ざかった隙に考えています。……」
 そのあと、現在の病状、暮らしぶりのことが延々と書き綴られていた。手紙の終わりの一枚のなかほどに同封されていた写真について触れた個所があった。
「……同封しました写真は、あなたが来たときに見せようと思っていた写真です。これを撮ったときのことは今でも鮮明に覚えています。この写真はあなたのお父さんの耕一さんが撮ってくれたものです。耕一さんが持っていた多佳子の写真は一枚残らずすべてわたしが持ち帰りました。なんであんなことをしたのか悔やまれてなりません。……」
 手紙は和生に元気になったら必ず会いに来てくれることを懇願する文章で結ばれていた。
 彼はしばらくその写真に見入っていた。初めて見る実母と祖母、そのどこか似ている親子の写真を奇妙な思いで眺めていた。頭では肉親と理解できても、印象はまったくの他人と同じだった。思い出そうにもこの二人に関する思い出はなにひとつない。
 手紙と封筒をベッドの枕もとに置くと、彼は脇机のなかから手鏡を取り出してきて自分の顔を写して見た。そして写真のなかで微笑む実母と自分の類似するところを長い時間をかけて探した。目のあたりが似ているといえば似ているように思えた。
 彼は突然出現した血のつながりのある二人の女性をどう受けとめればいいのかわからなかった。
 ――血のつながりとはなんだろう。この二人の女性と自分はどんなつながりがあるんだろう。
 和生は自分にそう問いかけてみたがいまその答えは出せそうになかった。
「そんなことはいくら考えたってわかりゃあしないよ。会うことが先、いましなければならんことは、行動、実行。おじさんにそういう孫がいたとしたら、ぜひ会いたかし、生きとるうちに一日でも早く会いに来てもらいたいと思うね。死ぬまでに一度でよかけん」
 いつぞや青木が言った言葉が浮かんだ。
 
 次の日の朝方、二週間ぶりに伯父が病室に顔を見せた。一日おきに来院していた伯母が来れないというので、そのかわりに和生の着替えを届けに来たのだ。
「どうだ、調子は?」
「もう大丈夫みたい。ただ先生の方が……」
「そういうもんだ。入院している患者の方はちょっと良くなれば退院したがるが、医者はその逆で、安心できるまで一日でも長く入院させときたいものなんだよ。慎重なんだな、要するに。教師も同じようなもんだ。自分が担任したなかでいろいろ問題があった生徒はなん年経っても心に引っかかっている。抱え込んでいる問題を解決してやれないうちに卒業の時期がきたら卒業させなければならない。留年させるほどの問題じゃないけれど、このまま卒業させるのには心残りがあるというか、やり残したことがあるように思えてな」
「なん人くらい?」
「えっ?」
「心残りがある生徒」
「なん人もだ」
 伯父は笑いながらそう言うと、和生の足をぽんと叩いて立ち上がった。
 和生が「治ったら会いに来てくれ」という手紙を祖母から貰ったと告げると、「そうらしいな。わたしも貰った」と言って丸椅子に坐り直した。
「N市で三田村さんのお宅が見つからなかったのは当然だ。とんだ間違いだった」
「間違い?」
「大変な行き違いだった。家の方に三田村さんが入院なさっている病院の介護士の方から電話を貰ってね。三田村さんが送って寄越したあの地図は、おまえが生まれる前に三田村さんが住んでいらした所のものだったんだよ」
「なんで?」
「電話だけが現在のもので、そのほかの住所も地図も十六年前のものだったというわけだ。その介護士さんと話をしていて偶然わかったんだが、倒れたのが原因で脳に障害を受けておられるんだそうだ。といっても重度のものではなくて、ちょっとした記憶障害程度らしいんだがな。それで今でも十六年前の所に自分は住んでいると思い違いしてらっしゃるとのことだった。病院に入院してることはわかってても、どういうわけか自分がいるのはその十六年前の自宅だという錯覚というか、思い込みが激しいというのか、そんなことがあるんだな、お父さんにもよくわからないんだけど。現在のご病気もそのときからのものだそうだ」
 伯父がそう言うのならそれが現実なのだろうが、すべてが和生に納得できるものではなかった。訪ねていったときの奇妙な感覚を思い出していた。
 和生は伯父が出て行った白い扉を見ながら、そうだとしてもなぜ電話をかけたとき「現在使われていない」というメッセージが返ってきたのか、冴えない頭で考えていた。
 
          Ⅵ 

 伯父が伯母のかわりに和夫の着替えを持ってきた日に、青木はなんの前触れもなく突然病院から姿を消した。暇つぶしにほかの患者の病室まわりでもしているのだろうと看護師が探してまわったが、病院内のどこにもいなかった。
 昼食時にも、夕食時にも、夕方の検温のときにも病室に戻ってこなかった。
 和生はその日の夕食の膳を運んできた看護助手から、青木が末期がんの患者で、そう遠くない時期に自分の命が絶えることを担当医師から告知されていたということを知らされた。和生は胸を締めつけられるような思いがした。同じ病室にいながら青木の病気のことをまったく知らなかった自分が恥ずかしかった。
 そのころ青木は山梨県の西湖近くにいた。徒歩で青木ヶ原樹海へ向かっていた。
 樹海を貫くように走る国道を歩き通し、その途中で舗装道路を逸れ、ためらうことなく鬱蒼と草木が生い茂るうら寂しい小道へ足を踏み入れていた。
 やがて道がなくなり、熊笹がはびこるなかを奥へ奥へと歩みを進めた。さらに歩いたところで立ち止まった。そして、朽ちかけた大きな樹木の巨根に腰を下ろし、タバコに火をつけた。
 ゆらゆらとその紫煙が色濃い樹林の間を漂っていく。
 ――もう数時間で日が落ち、ここらあたりは真っ暗闇に包まれることだろう。不気味なほど静かだ。この重い静けさは死の世界のものなのだろうか。
 そんなことを考えていると、突然後ろから肩をポンと叩かれたような気がして青木はギクリとした。振り返ったが、誰もいない。小枝でも落ちてきたのかと上を見上げた。樹々のわずかな隙間からいままで見たことのない真っ赤な空が覗いていた。
 突然枯れ枝が折れる乾いた音が歩いてきた方角から聴こえた。枯葉を踏みつける音がする。真っすぐ青木の方に向かってくる。ちらりとその姿が見えた。白のセーラー服の少女だった。青木の姿を見ても怯える様子はない。
 ――もしや……
 青木に一瞬ある直感が走ったが、すぐに打ち消した。
 ――そんなことが起こるはずがない。
「こんにちは」
 幼さの残る柔和な顔立ちの少女が声をかけてきた。
「………………」
 青木は少女の顔に自分の娘の顔を思い描いていた。
「『こんにちは』ってなに? ヘンだよね」
 少女はそう言って、ころころと笑った。
「おじさんも死のうとしているんじゃないかな、と思って、跡つけてきちゃった」
「『おじさんも』って……」
「そうだよ」
 彼女はそう言うと自分の手提げカバンを開け、驚くほどの数の薬局の錠剤袋を見せた。
「全部精神科のお医者さんからもらったもの。睡眠薬やら安定剤やら抗うつ剤などなど」
 彼女の濁りのない瞳が笑いかけてくる。
「缶コーヒー買ってきたんだ。おじさんにもあげるね、いっぱいあるから」
 青木の隣に坐るとその一本を差し出した。
 青木は黙ってそれを受けとった。まだ温かかった。
 青木は自分の娘のことを思い出して、わけもなくぽろぽろと涙を流した。
「おじさんはなんで死のうと思うの?」
「もう長く生きられないんだよ。だから自分で自分の始末をつけようと思ってね」
「あっ、ごめん。ちょっと行ってくる」
 少女は荷物を青木の足元に置いたまま立ち上がり、走って熊笹が生い茂るなかに姿を消した。
「おじさん、おじさん」
 少女が驚いた様子で駆け戻ってきた。
「死体がある!」
「まさか」
「ほんとだってば」
 青木は少女と一緒に見に行った。
「首吊り死体!」
 苔に覆われた木の一番低い枝に真新しい紐がかけられている。スーツ姿の中年男性がしゃがむような恰好で亡くなっていた。首はのびきり異様に長い。すでに両足とも腿あたりの肉が服の上から野犬かなにかに食いちぎられている。赤黒く半ば乾燥した肉の間から白骨化した骨がのぞいている。眼窩はカラスか野鼠にやられたのかぽっかり空いている。
 排泄物が多量に足元に染み出し、異様な死臭をあたりに撒き散らしていた。
 二人は足早に元いた場所に戻った。少女はぶるぶる震えていた。
「もうおじさんとは二度と会うことがないような気がする」
「もう死のうとは思わないよ。あんなむごたらしい死に様をみたんじゃあ、とても死ねない。自分の姿が浮んだよ、はっきりと」
「そうじゃなくて、もうこの世界では会えない気がする」
「そんなことはないよ。生きてさえいればまた会えるよ」
「そうかな」
 それきりお互い口を開くことはなかった。
 少女がかすかな寝息を立て始めた。「よくこんなところで眠れるもんだな」と思ったがすぐに合点がいった。錠剤袋が目に入ったからだ。青木も似たようなもので、誘われるように眠りに落ちていた。
 肌寒さに目を覚ますと、あたりは漆黒の闇に包まれ、隣で寝ていたはずの少女の姿が消えていた。
 青木は枯葉と枯れ枝を集めてきてライターで火をつけた。乾燥しきった枯れ枝はたちどころにぱちぱちと音たてて勢いよく燃え始めた。寒さも身を引き裂くような絶望感もない。なにか暖かなものに包まれ、とても穏やかな心持ちになってくる。
「死期が迫った人間にしか見えない風景やまぼろしというもんがあるんだよ」
 青木のなかに、幼い頃父方の郷里で仲良くなった物乞いの古老が、なにかの折に語り聞かせてくれた謎めいた話の一部が忽然と甦ってきた。
 青木はいなくなった少女を探そうとはしなかった。なにものかが死のうとしていた青木の心を翻すために少女に化身して現われたのだという思いが、なんの不思議さも、奇怪しさもなくすとんと降りてきたからだ。古老が語った「死を間近にひかえた者にしか見ることができないまぼろし」だったのだ、と。
 青木は心のなかで少女に語りかけていた。
 ――ありがとう。この先二度と自ら命を絶とうとは考えない。お迎えが来る日まで一日でも長く生きられるようにしっかりとこの病魔と闘うことを約束する。
 彼は立ち上がると、遺留物が散乱する自殺死体があったところとは反対の方角へ歩き始めた。 

          Ⅶ 

 青木が失踪して数日が経過した日の夕刻、青木は救急車に乗せられて和生のいる病院に戻ってきた。その報せはすぐに和生の耳にも入った。
 青木は駅舎の人ごみのなかで突然崩れるように倒れ、意識を失い、いったんは最寄りの救急病院へ運ばれたものの持参していた診察券からこっちの病院へ問い合わせが入り、緊急搬送されてきたのだ。
 すぐさま集中治療室に入り治療が検討されたものの施しようがなく、いまも意識が回復しない状態が続いている。
 深夜和生の寝ているすぐ近くの廊下から騒々しい物音が伝わってきた。和生は集中治療室の青木になにかが起ころうとしていると直感した。意識を耳に集中させ、ベッドに横になったまま身を固くして窺っていた。
 数人の人間が慌しく行き来するスリッパの音がする。緊迫した口調の言葉がきれぎれに聴こえてくる。
「担当の先生へ連絡してください」
「酸素吸入を開始します」
「血圧が低下しています」
 自分の心臓の鼓動が早くなるのがわかった。首のすぐ後ろでも脈打っている。
 それから半時ほど経った頃、急に隣の集中治療室が静かになった。
 重い機材を移動する押し車のような音が廊下から伝わってくる。そのキルキルと軋む車輪の音が次第に遠ざかっていく。
 間もなくどこからともなく線香の香りが忍び込んできた。鳥肌が立った。和生は思わず目を閉じ、両の手を胸の上で組んだ。
 このとき「生」と「死」とを隔てる、薄い膜のようなものがはっきりと感じとれた。

          * 

 青木の亡骸は、彼の実の娘だという女性につき添われて、こういうときにしか開けられない裏門に面した霊安室の裏扉から出棺され、葬儀社の黒塗りの車に乗せられて運び去られていった。
 そのちょっと前、髪の長い若い女性がひとりで和生の病室を訪ねてきた。「このたびは父が大変お世話をおかけいたしました」
 彼女は自分より遥かに年下の和生にそう言うと、丁寧に頭を下げた。顔を上げた彼女の目には涙が光っていた。
「ありがとうございました」
 わずかな日用品と衣類を詰めた真新しい手提げ袋を大事そうに抱えて出て行った。
 和生は見送った後、ひとりで病室に戻った。そしてベッドに横になって青木のことを考えていた。
 ――あの人に会いに行こうとしたんじゃないだろうか……。
 いまにも勢いよくカーテンを開けてこちらへ入ってくるような気配がする。
 ――あの人が会いに来てくれることを願っていたのだろう。娘さんに会いたくても自分の方からは会いに行けないなにか理由があったのにちがいない。娘さんとの関係を僕と祖母の問題とどこかで重ねていたんじゃないだろうか。
 青木に祖母から送られてきた手紙を読んでもらい、整理のつかない自分の気持ちを聞いてもらおうとしていた願いは叶えられなくなってしまったが、和生には青木が自分に言うだろう言葉がわかるような気がしていた。
 和生は退院したら祖母に会いに行くことを誓った。そして、祖母に一連の不思議な自分の体験を聞いてもらおうと思った。一枚の写真と手紙でしか想像することができなかった祖母の存在が、青木のおかげで目の前にリアルに立ち上がってくるように思えた。
 その夜、青木がいつぞやそうしていたように、ベッドの端っこに坐って窓の外へ目をやった。窓辺で咲いていた紫陽花の花弁はすでになくなっている。その横で根を張る欅の細枝が空に向かって伸び、神経質そうに震えている。
 青木がいくどか口ずさんでいた歌が浮かんできた。

しあわせはわたしの願い あまい思いや夢でなく
今の今をより美しく つらぬき通して生きること
みんなと歌おう しあわせの歌を
ひびくこだまを 追っていこう

 思い出せた歌詞はそこまでだった。和生はその部分を繰り返し口ずさんだ。和生なりの弔いのつもりだった。
 透明度の高い空に眩いばかりに光り輝く月が浮かんでいる。その月の表面を引っ掻くように細い枝先がかすかに揺れていた。

 ♪「しあわせの歌」作詞・石原健治/作曲・木下航二




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